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湖上の遺跡 後編



翌朝。


濃い霧が湖面を覆い、空と水の境目さえ分からなくなっていた。 湖上に浮かぶ黒い神殿は、まるで空中に浮かぶ幻影のように揺らめいている。


セラフィナの飛行魔法で全員が順に渡り、石造りの外縁へと足を下ろした。 足場は濡れて滑りやすく、冷たい風が衣服の隙間を刺す。


「……ここが、湖上の遺跡」


セラフィナの声は、霧に吸い込まれるように小さく響いた。



---


◆第一層 影の回廊


崩れた回廊を進み始めたとき、ライアンが足を止めた。


「……妙だ。見ろ、自分の影を」


ノアトは言われるまま、足元に視線を落とす。


霧のせいでぼやけている――そう思ったが、違った。


影が、ほんの少し「遅れて」動いていた。


自分が足を出した後、半拍ずれて影がついてくる。


「……っ!」


イリスが小さく息を呑む。


セラフィナはすぐに灯火をかざし、床の模様を観察した。


「反射……じゃない。影そのものが遅れてる……」


さらに進むと異常は顕著になった。


小さく跳んだ瞬間、足元の影がその場に残り、遅れて飛び移る。 歩幅を大きくすると、影は床に置き去りにされ、伸びきったままゆらめいた。


「気持ち悪い……」


イリスが身を縮こまらせる。


だが──床の中央に横たわる骸を見て、全員が言葉を失った。


武具をまとった人間の亡骸。 しかし、その足元に「影」は一切なかった。


灯りを近づけても、どの角度から見ても、そこだけぽっかりと空白になっている。


イリスが震える声で呟いた。


「遺体に……影が、ない……」


セラフィナが険しい顔をする。


「影を失えば……存在そのものを削がれるってことね」


ライアンは分析を始めた。


「つまり、影と身体は距離を保つことで乖離する。地面から離れすぎれば、影が取り残され……こうして死に至る」


ノアトは骸の周囲の床に目を凝らし、歩幅の乱れた靴跡や、削れた石の縁をひと通り眺めた。


「……床から離れるようなことをしなければ、大丈夫そうだな、これ」


ぽつりと呟く。


「どういうこと?」セラフィナが振り向く。


「走り抜けたり、跳び過ぎたりしなきゃいいんじゃない?  影が伸びきらないくらいの歩幅で、地面からあんまり離れないように歩けば――  ほら、こいつも足跡が変に飛んでるとこから、影がちぎれてそうだし」


ノアトは骸のそばに残る、無理に飛び越えたような足跡を指さした。


「だからさ……この遺跡、跳躍靴リープブーツの出番はないな、これ」


「そこで真っ先に靴の出番を考える発想がもう怖いのよ」


セラフィナが呆れ混じりに突っ込む。


三人は一瞬ぽかんとした後、表情を変えた。


ライアンは感嘆の声を漏らす。


「……影の濃淡と足跡から安全な距離を見抜くとは! 観察に基づく見事な行動理論だ!」


「いや、そんな大げさな……ただ“ヤバそうなとこを踏まないようにした”だけで」


ノアトは苦笑したが、その言葉はもう耳に届いていないらしく、 ライアンは勝手に頷き続けている。


四人はノアトの“観察”を指針に、慎重に進むことにした。


歩幅を揃え、影が消えかけない距離を意識して一歩ずつ進む。 自分と影が「ちぎれない」ように、影をつなぎ合わせるように。


崩れかけた回廊を、ゆっくり、着実に越えていく。


最後の段差を登ったとき、セラフィナが安堵の息を吐いた。


「……ふぅ、突破できたわね」


振り返ると、後方に散らばる盗賊の残骸が薄霧に揺れていた。 床には『影を絶対に忘れるな』と掻き殴られた文字。


石に爪を立てて刻んだのか、所々血で滲んでいる。 その筆跡は、恐怖に震えながらも必死に残されたものだった。


ノアトは思わず呟く。


「……影を忘れるな、か。怖ぇな……」


その背後で、イリスが小さく震える。


「……ここ、本当に……帰れるんでしょうか」


「うむ、理論上なら――」


振り向きかけたライアンの背中を、セラフィナが前へ押した。


「はいはい、前を向いてねー?」


霧の向こうに広がるのは、次なる層──鏡の間。 不気味な光沢が床一面に広がり、そこに映る自分たちの姿が、不自然にこちらを覗き返していた。



---


◆湖上の遺跡(第二層)鏡の間


第一層を越えると、視界が開けた。


長い回廊の先に、大きな円形の広間。 床一面は磨かれた水晶板のような材質で、まるで巨大な鏡の上を歩いているようだった。


ライアンが眉をひそめる。


「……気味が悪いな」


松明を掲げると、その光を反射して足元に自分たちの姿が鮮明に映し出される。


しかし――


「待って。おかしい」


セラフィナの声に、全員が足を止めた。


鏡に映る自分たちは、ほんの僅かに遅れて動いていた。


歩いた一歩のあとに、鏡の中の影がようやく足を出す。 ノアトが腕を上げると、鏡の中のノアトは――わざとらしい笑みを浮かべて同じ動作を繰り返した。


「っ……!」


イリスが青ざめて一歩下がる。 その瞬間、彼女の持っていた小さなランプが手から滑り落ちた。


カラン、と乾いた音。


光の喪失。


ランプは床に転がり、炎が消える。 その瞬間――


「……あ」


イリスの影が、鏡の中から消えた。


次の瞬間、床下の暗闇に“もう一人のイリス”が現れ、 鏡面の裏側から必死にこちらへ這い上がろうとしてくる。


冷たい水底から浮かび上がってくるような、青白い腕。


「いやぁぁっ!」


イリスは震え上がり、後ずさった。


「イリス!」


ノアトはとっさに、残っていた松明を掴み、イリスの側に駆け寄って光をかざした。


再び反射が広がり、暗闇から伸びていたイリスの腕は、波紋のようにすうっと掻き消える。


「……っ、危なかった……。ごめんね……」


イリスが膝を抱えて震える。


セラフィナが険しい顔で呟く。


「光を絶やしてはいけない……。明かりが消えれば、鏡に囚われる。そして影が――」


ライアンは真剣な表情で顎に手を当てた。


「つまり、これは“光と反射による影の固定”だ。光がある限り影はこの鏡面に縫い止められるが、消えれば影は現世へ、身体は鏡の裏側へ――」



ノアトは冷や汗を拭いつつ、思わず心の中で叫ぶ。


(怖すぎるよこのギミック! これも遺物の影響なのか? それとも、遺跡全体がそういう作り……?)


さすがのノアトも、背筋が寒くなってきた。


「……とにかく」


セラフィナは短く息を整え、全員を見回した。


「明かりを増やす。松明を複数持って、距離を取りすぎないこと。絶対に“暗くしない”」


ライアンが頷き、散らばっていた古い松明と油壺を回収していく。 イリスは震える手で祈りを捧げ、小さな聖光を灯して補助の光源にした。


四人は互いに距離を保ちつつ、複数の明かりを灯しながら進むことにした。


天井から垂れ下がる壊れた松明、床に残る靴跡、壁際に散乱する盗賊の荷物。 かつてここを通った者たちは、光を絶やして鏡に囚われ──戻れなかったのだろう。


鏡の床を進むたび、足元から不気味な視線を感じる。 鏡に映る自分は笑っていたり、苦しんでいたり、時に血を流していたりした。


イリスの喉が何度も鳴る。 ノアトも視線を逸らしたくなったが、ぎゅっと松明を握り直した。


(影を見ろ、だっけ……。ここで目を逸らしたら、本当に連れていかれそうだ)


やがて、広間の奥に重々しい扉が現れた。 扉の隙間から、さらに濃い霧と冷たい空気が吹き込んでくる。


ノアトは息を吐き、一息つく。


「影も光も、散々振り回されてばっかだな……。次は、何が待ってるんだか」


セラフィナが静かに告げる。


「ここから先が、最深部──祭壇の間」


重い扉を押し開けると、第三層への入口が、口を開けていた。



◆第二層 鏡の間の突破。


四人は互いに距離を保ち、松明とランプを分散して複数の明かりを灯しながら進むことにした。


天井に吊るされた壊れた松明。 床に残る靴跡。 壁際に散乱する盗賊の荷物。


かつてここを通った者たちは、光を絶やして鏡に囚われ、戻れなかったのだろう。


鏡の床の上を進むたびに、足元から不気味な視線を感じる。 鏡に映る自分は笑っていたり、苦しんでいたり、時に血を流していたりした。


「……見ない見ない。進むことだけ考えろ」


ノアトは半ば自分に言い聞かせながら、視線を足元より少し前へ固定する。


それでも、視界の端で“別の表情の自分”がこちらを見ているのが分かる。


イリスが小さな声で祈りの言葉を重ね、 ライアンは理論で恐怖を上書きするようにぶつぶつと何かを唱え続け、 セラフィナはただ前だけを見据えて歩いた。


やがて、広間の奥に重々しい扉が現れた。 その向こうからは、さらに濃い霧と冷たい空気が吹き込んでくる。


ノアトは息を吐き、一息つく。


「影も光も、散々振り回されてばっかだな……。次は、何が待ってるんだか」


セラフィナが静かに告げる。


「ここから先が最深部――祭壇の間」


霧の奥に、第三層への入口が口を開けていた。



---


◆第三層 祭壇の間と《リフレクス》


重い扉を押し開けると、冷たい霧が流れ込んでくる。


その先は半球状の大広間。 中央には半ば水没した石の祭壇があり、その上に――


一つの仮面が鎮座していた。


銀色に輝くそれは、まるで水鏡を切り取ったような表面を持つ遺物。


鏡影仮面リフレクス


ノアトが一歩踏み出した瞬間、広間全体の水面が、波紋のように揺れた。


足元からじわりと影が広がり、床一面に浮かび上がる。


それは四人の影でありながら、どこか輪郭が歪んでいた。


そして――分裂し始める。



---


◆それぞれの影


最初に形を成したのは、セラフィナの影だった。


翼を広げたその影は、霧の中で墜落する兵士たちを見下ろしていた。 過去の任務で救えなかった者たち。


彼女の影は言葉もなく、ただ落下を繰り返す兵士たちの姿を映し続ける。 セラフィナは必死に魔法を放つが、誰一人として届かない。


「やめて……」


セラフィナは歯を噛みしめる。


次に、イリスの影。


小さな子供の遺体を抱える影が現れた。 彼女が間に合わず、聖光が届かなかったあの日の記憶。


イリスは泣きそうに両手を伸ばすが、影は無言で背を向け続ける。


「いや……やだ……」


祈りの言葉が震えて、声にならない。


最後に、ライアンの影。


血に濡れた拳を握りしめ、膝をつく仲間の影が広間に浮かび上がる。 守ると誓ったのに、拳は届かなかった――その後悔。


「私の拳は……守るためのもののはずだ……!」


理論では救えないものが、彼の前に影として立ちはだかる。


三人はそれぞれの影に囚われ、身動きが取れなくなっていた。 呼びかけても、影は一言も発さない。


なぜなら、それは過去を投影した“こちら側の声を聞かない影”だから。


そして、ノアトの前にも――現れた。



---


◆ノアトの影と黄泉の森


霧の中に浮かんだのは、スノアの影。


冷たい瞳で氷魔法を構え、容赦なくノアトへと向けてくる影。


氷の槍が胸を貫いた――はずなのに、痛みはなかった。


ノアトは立ち止まったまま、ゆっくりと呟く。


「……そういう見せ方、してくるんだ」


影のスノアは答えない。ただ氷を放ち続ける。


ノアトは歩みを止めず、氷に打たれながら近づいていく。


脳裏に浮かぶのは、幼い日の記憶。


街外れの古い森。 昼間はただの寂れた林だが、日が落ちると“黄泉の森”と呼ばれ、霊園と一体になった「帰れない森」だと囁かれていた。


興味本位で、少し足を踏み入れてみたかっただけだった。

沈むような後悔が胸の奥を重くする。


ノアトがスノアを見つけたとき、既に日は落ちていた。


霊園の向こう、木々の間に広がる暗闇の中。 そこには、地面から立ち上がった“巨大な影”がいた。


人の形のようでいて、輪郭は曖昧で、墓標の影や木の影を引きずり集めたような黒い塊。


その大きな影が、スノアの小さな手を握り、黄泉の奥へ連れて行こうとしていた。


まるで親子のように並んで歩く二つの影。 だが、スノアの瞳からは、生命の光がすでに薄れていた。


間に合わなかった――そう思った。


「……っ、ふざけんな」


少年だったノアトは悪態をつく。 まだ、望みがひとつ残っていると信じたかった。


ただ一つの遺品。 祖母から託されたペンダント。


『大切な人を助けたい、守りたい、救いたい時にこれを使いなさい。そのことを強く願って――』


そう笑って渡してくれた時のおばあちゃんの顔が、妙に鮮やかに浮かぶ。


ノアトはあのとき、何の迷いもなく、それにすがった。


ペンダントが光った時、ノアトの瞳は水色に激しく輝いた。


冷たい静寂が森を包む。


墓石の影をまとった巨大な影は、音もなく裂け、霧のように消えた。 黄泉の森を満たしていた“何か”が引いていく。


残されたのは、棒立ちのスノアと、膝をついたノアト。


スノアの頬にそっと手を添えて、ノアトは言った。


「――戻って、スノア」


その言葉とともに、ペンダントはひび割れて光を失った。


自分の中にあった魔力も、一緒にどこかへ流れ出てしまったような感覚。 それ以来、前のようには魔法が使えなくなった。


今も胸の奥に残る後悔と安堵。


だからこそ、ノアトは影のスノアを見据えて、 あの時と同じように口を開いた。


「……ごめんな。あの時みたいに、ちゃんと全部助けられるわけじゃないけど」


氷の槍が何本も胸を貫く幻を見せつけられながら、一歩一歩進む。


「それでも――」


影のスノアの肩に、そっと手を伸ばす。


静かな声で、たった一言。


「――戻って、スノア」


その瞬間、影のスノアは音もなく砕け、霧と共に広間から消えた。



---


◆仮面の解放


影が消えたあと、ノアトが祭壇に歩み寄り、そっと仮面に触れた。


ひやりとした感触。 だが、さっきまで感じていたような“こちらを覗き返してくる気配”はない。


その瞬間、広間に漂っていた霧が音を立てて砕け散るように消えた。


床に張りついていた影たちは波紋のように薄まり、 セラフィナたちを絡め取っていた“過去の光景”も霧と共に消え去る。


祭壇の上に残ったのは、ただ静かに光を失った綺麗な仮面だけだった。


セラフィナは荒い息を整え、ノアトを見た。


「……あなただけ、なぜ影に飲まれなかったの?」


ノアトは苦笑して首を振る。


「あの時は必死だったから……見せられても、今さらって感じでさ」


ライアンは拳を握りしめ、深く頷く。


「真っ先にギミックを解いていたな。過去の後悔を利用する影すら、このシーフには通用しない……!」


「いや、そんなこと――」


「影の動きと心の揺らぎの両方を同時に観察し、なお進み続けるとは……新しい“心構えと体術の複合理論”として論文化できるかもしれない」


「だから何で毎回“理論”になるんだよ」


ノアトが頭を抱える。


イリスはまだ少し震えていたが、それでも小さな声で付け足した。


「……本当に、すごい……。  あんな影を見せられて……それでも、前に進めるなんて……」


ノアトは逸らした視線で祭壇の仮面を見た。


(……すごいんじゃなくて、あの時に比べたらまだマシってだけなんだけどな)


そんな本音は、もちろん口には出さない。



---


こうして「湖上の遺跡」の探索は終わった。


《鏡影仮面リフレクス》を回収した一行は、霧の晴れ始めた湖面を後にし、再びブレストンの街へ戻るのだった。



---


◆帰還と噂の始まり


街へ戻った一行は、その足でクロニカ支部へと入った。


ギルドのロビーはいつも通り冒険者で賑わっていたが、彼らの姿を見ると空気が変わった。


「ね、ねえ! 帰ってきたわよ!」 「湖上の遺跡からだぞ、あいつら……」 「何組か行って全滅してたはずだろ。マジかよ」


湖上の遺跡――依頼主不明の謎の依頼。 何組も挑戦して誰も帰還できなかった場所から、彼らは戻ってきた。


それだけで視線が集まる。


カウンターに立つフェリスは、彼らの姿を確認した瞬間、目を見開いた。


「……本当に、帰ってきたんですね」


ノアトは丁寧に、包んでいた布を差し出した。 中には、光を失った仮面。


フェリスは一目で顔を強張らせる。


「……これは鏡影仮面リフレクス……。  内部記録では、危険指定候補のRCL-3級遺物だったはずですが――  実害を見るかぎり、再鑑定でRCL-4以上に格上げされるでしょうね」


彼女の声には、抑えきれない恐怖が滲んでいた。 受け取る手がわずかに震える。


「指定危険物として、すぐに支部長に報告します。  迂闊に触れないでください。……よく、無事でしたね」


そう言いながらも、視線は自然とノアトへと向かう。


受付の前で、セラフィナが口を開いた。


「今回の依頼は、ノアトがいなければ全員影に囚われていたでしょう」


イリスは顔を赤らめながら、しかし真剣な声で言う。


「こわかった……。あんな影に向き合える人なんて、見たことありません……」


ライアンは腕を組み、力強く頷いた。


「このシーフに影は通じない。なぜなら、影すら見通し、惑わされなかったからだ。  理論上――」


「はい、そこまでで結構です」


フェリスが即座に遮る。


だが、周囲の冒険者たちはもう聞いていた。


「……影すら見通す?」 「湖上の遺跡を踏破して、影のギミックを読んだってことか?」 「またあの新人かよ……前も妙な依頼片づけてただろ」


「やるじゃねぇか、兄ちゃん! 影を見て仕掛けを看破とか、職人芸じゃねぇか」 「見習いたい、その観察眼」


ロビーのあちこちから声が上がる。


当人は、探索の疲労もあって若干ぼんやりしているだけなのだが、 周囲の評価は勝手に跳ね上がっていった。


探索の疲れもあり、ノアトは仲間たちと共にギルドを後にした。


セラフィナが別れの挨拶を言う。


「また何かあったら声をかけて。……次は、もう少し空が気持ちいい場所がいいわね」


イリスは両手を胸の前で組み、遺跡を思い出して半泣きになる。


「こわいの苦手で……。今日で終わりかと思いました……。  ノアトくん、また……その……こわくない依頼の時に誘ってね」


ライアンは腕を組んで語り始めた。


「すまんな、拳の出番が全くなかった。  しかし今思えば鏡は物質である以上、理論上なら拳で破壊できたはずで、そこに至るまでの精神集中が――」


「それじゃー」


セラフィナはライアンの理論を華麗にスルーし、軽く手を振って別れた。


三人はそれぞれ自分の帰路につく。 街の夕暮れの空は赤く染まり、その向こうに、湖の霧が薄く漂っていた。


受付に戻ってきたフェリスは、周りの騒ぎに深いため息をつき、眼鏡を押し上げた。


「冒険者の名が広まるのはいいことですが……。  それは同時に、色々な人の目に留まるということでもあります。……ノアトさん、大丈夫でしょうかね」


──影すら見通す眼。


噂は、ノアトの知らぬところで独り歩きを始めていた。



---


◆支部長室と仮面の処遇


ギルド奥の執務室。


フェリスが届けた包みを、支部長エリオットが机の上で開く。 現れたのは、光を失った《鏡影仮面》。


彼は細い指で仮面を持ち上げ、光に透かした。


仮面はもはや何の反射も返さず、ただ沈んだ闇を湛えているだけだった。


「……やはり、この手のものは厄介だな」


エリオットの瞳に、冷たい光が宿る。


フェリスが問いかける。


「本部に送りますか?」


「いや……」


エリオットは仮面を静かに包みへ戻す。


「この仮面は、ただの遺物ではない。  人の影を喰らい、魂の輪郭に干渉する。  存在を形作る“証明”そのものを奪い去る……」


フェリスは息を呑んだ。


「そんな……危険すぎます」


エリオットは静かに頷いた。


「だからこそ、軽々しく移送すべきではない。  少なくとも今は、ここで厳重に封じよう。  王都や本部とのやりとりは、その上で慎重に決めるべきだ」


彼の眼鏡の奥の瞳が、仮面に映る自らの影と一瞬だけ合った。


そこには笑みも表情もなく――ただ無言の“もう一人の自分”が見返していた。



---


◆帰宅と、何でもない夜


湖上の遺跡の探索を終え、仮面をギルドに提出したその日の夕刻。


ノアトは家へ戻った。


扉を開けると、漂ってきたのは煮込み料理の香り。 台所から母の声がして、居間ではスノアが学院の本を広げていた。


まるで何事もなかったかのような、いつもの夕暮れ。


「おかえり、お兄ちゃん」


スノアが顔を上げる。


「ん。ただいま」


食卓に並んだのは、湯気を立てるスープと焼き立てのパン。 学院のことを楽しそうに話すスノア、時折笑いながら相槌を打つ母。


ノアトも笑顔を浮かべていたが、胸の奥では湖上遺跡の影の記憶がちらついていた。


あの時スノアを取り戻せなかったかもしれない。 だからこそ、この何でもない光景が、ひどく尊く思える。


夕食後、家の灯りが落ち、静寂が訪れた頃。


ノアトはなぜか落ち着かず、廊下を歩いてスノアの部屋の前に立っていた。


ノックをすると、寝間着姿のスノアが顔を出す。


「……お兄ちゃん? どうしたの?」


「ん……ちょっと顔が見たくなって」


唐突な言葉に、スノアはきょとんと目を瞬かせる。


今日、兄がどんな依頼に出ていたのか、どんな危険に直面していたのか――彼女は知らない。


ただ、理由もなく訪ねてきた兄を前に、首をかしげるだけだった。


ノアトは何も言わず、そっとスノアの頭に手を置いた。


指先に伝わる温もり。


「……元気そうで良かった」


「???」


意味が分からず、スノアはますます不思議そうにしている。


「何なの、急に……」


「いや、別に。ただ……ちょっとな」


曖昧に笑って誤魔化す兄に、スノアは小さく頬を膨らませた。


「……変なの」


だが心の奥では、理由は分からなくても 「兄に大切にされている」と感じて、少しだけ胸が温かくなった。


ノアトはスノアの部屋を後にし、自室の窓辺に腰を下ろした。


あの日の黄泉の森の記憶。 湖上の遺跡で見せられた影の光景。


窓の外には、静かな夜空と星の瞬き。 夜風がカーテンを揺らし、灯りの消えた家に、安らぎだけが残っていた。

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