第五章 湖上の遺跡 前編
ギルド《遺物調査局クロニカ》。
昼下がりのロビーは、今日も冒険者たちの声で賑わっていた。 酒場からは笑い声、依頼掲示板の前には装備を整えた冒険者たちが群がっている。
今日もノアトはその群れの端で、貼り出された紙に目を走らせていた。
「……湖上の遺跡?」
一枚の依頼が目に留まる。 場所は街から北東の湖。霧に包まれ、中央には古い神殿が浮かぶという。 依頼内容は「調査」とだけ記され、依頼主の名は空白のまま。 報酬欄には『応相談』、備考欄には小さく『過去調査隊・全滅につき危険度再審中』と書き込まれていた。
「依頼主不明? 報酬応相談? 雑すぎないか、これ……」
思わず苦笑するノアトだったが、同時に心の中でピンときていた。
湖上──これは、跳躍靴の出番かもしれない。
湖に浮かぶ遺跡。 舟も届かぬ場所なら、高く跳べるこの遺物が役に立つかもしれない。 ノアトは紙を剥がし、軽い足取りで受付へ向かった。
カウンターの奥で書類を整理していたのは、いつもの受付嬢フェリス。 長い金髪をポニーテールにまとめ、眼鏡の奥の瞳が依頼書に落とされた瞬間、彼女の表情が凍りついた。
「……あなた、本気でこれを受けるつもりですか?」
ノアトは肩をすくめる。
「湖に浮かぶ遺跡って聞いてさ。ちょうど、この靴が試せるかなって……」
「靴?」
フェリスは呆れ顔で瞬きをした。
ノアトがカウンターの下で、さりげなくリープブーツのかかとを鳴らす。
「跳躍靴。高く跳べる遺物でさ。ほら、湖の真ん中に遺跡が浮いてるなら、ピョンって――」
フェリスは彼の言葉を遮るように、依頼書の別欄へ視線を落とした。
「……はぁ。あなたね、自分が何を持ってきたか、わかっているんですか」
眼鏡の位置をくい、と押し上げる。
「この湖上遺跡の調査依頼、過去にも何度か出ていますが──生還した者は、一人もいません。ギルドとしては暫定でRCL-3指定。内部では“危険指定候補”として扱われている案件です」
ロビーのざわめきが、少しだけ遠のいた気がした。
「RCL-3……?」
耳慣れない言葉に、ノアトは首を傾げる。
フェリスは事務的な口調で続けた。
「RCLは『Relic Clearance Level』──遺物関連依頼の危険度と、許可等級を示す指標です。RCL-3以上の案件は、原則として一定以上のGRと実績を持つ者がリーダーとして受注しなければなりません」
依頼書の端を指で弾きながら、ぴしゃりと言い切る。
「危険度は中級以上。最悪の場合、正式な危険指定に昇格しかねない依頼です。あなた一人では──いえ、あなたの現在のRCLとGRでは、規定上、絶対に受注を認められません」
「いや、それを聞いて一人でやるなんて、さすがに──」
ノアトは慌てて手を振って笑う。
軽い調子の言葉に、フェリスは大きくため息を吐いた。
「……仕方ありませんね。受注条件を満たすパーティリーダーの監督下で、条件未達の同行者も参加可能にする制度があるのは、ご存じですか?」
「制度?」
「同行受注制度です。依頼条件(GR・RCL)を満たした冒険者をリーダーとして登録し、その指揮下に限って、あなたのような見習いも正式に同行者として参加できる仕組みです」
フェリスは手早く書類をめくり、別の束から数枚の資料を取り出した。
「今回の湖上遺跡は暫定RCL-3。リーダーには、最低でもGR-5以上が求められます。ですが──」
そこで一拍置き、ノアトの前に三枚の紙を並べる。
そこに記されていた名前は、支部でも知らぬ者のない強者たち──
《蒼翼》のセラフィナ。 《白祈》のイリス。 《鉄拳》のライアン。
「この三名は、現場GR-6。実績も十分です。彼らのパーティに“同行者”として登録されるのであれば、この依頼を受けてもらって構いません」
フェリスは書類をノアトに見せつけるように机に置いた。
「ただし──足を引っ張ったら、文字どおり命取りですからね。遺物の使用許可(RCL)も、あくまでリーダーの管理下での扱いになります。跳躍靴で勝手な真似はしないこと」
「はいはい、気をつけますって」
ノアトは苦笑しつつも、心の中で少しだけワクワクしていた。 掲示板で見た時よりも、ずっと大きな“冒険の匂い”がする。
---
◆《蒼翼》《白祈》《鉄拳》
ギルドの一角。
ノアトはテーブル席で待っていると、フェリスに呼ばれて現れたのは、三人の冒険者だった。 ロビーの空気がわずかに変わる。彼らの名はこの街でも広く知られている。
先に口を開いたのは、長い青銀の髪を後ろで束ねた女性だった。 冷静な眼差しでノアトを一瞥し、軽く頭を下げる。
「私はセラフィナ・エルグレア。《蒼翼》と呼ばれているわ。飛行魔法を得意としている。空からの偵察や輸送は任せて」
彼女の背後に揺らめく魔力の気配は、翼の形を思わせた。
ノアトは思わず感心して口を開いた。
「すご、本当に飛べるんだ……。俺の靴でも跳べるけど、比べ物にならなさそうだな」
セラフィナの眉がぴくりと動く。
「……靴?」
次に前へ出たのは、褐色の肌を持つ屈強な男。両腕には革のバンデージが巻かれている。 彼は拳を軽く合わせ、落ち着いた声で名乗った。
「ライアン・グレイン。《鉄拳》と呼ばれている。前衛を務めるモンクだ。理論に基づいた体術で、仲間を守る」
その言葉にノアトは「理論?」と首を傾げる。
ライアンは真剣な顔のまま続けた。
「君の行動も観察させてもらうつもりだ。新しい体術理論の発見に繋がるかもしれないからな」
「え、そんな大したことできないけど……」
ノアトの謙遜に、ライアンは深く頷いた。
「なるほど、謙虚さもまた武の理だな」
最後に、一歩下がった位置から、小柄な女性が「あのぅ……」と小声で名乗った。 栗色の髪を三つ編みにまとめ、修道服風の衣をまとっている。
「……イリス・ハートヴィア。呼び名は《白祈》……です。治癒と聖光を扱えます」
彼女は視線を伏せ、耳まで赤く染めていた。
ノアトが慌てて笑顔で返す。
「すごい心強いよ。俺、回復とか全然できないし」
イリスはさらに小さく「……はい」と答え、ほっとしたように後ろに下がった。
フェリスはそんな四人を見渡しながら、きっぱりと言い渡す。
「では、湖上遺跡調査依頼──リーダー、セラフィナ・エルグレア。補佐ライアン・グレイン、イリス・ハートヴィア。同行者、ノアト・アルシエル。RCL-3案件として正式受理します」
魔力伝導板の水晶面に、淡い文字が浮かんでは消える。
「繰り返しますが、ノアトさん。あなたはRCL-0のままです。遺物の使用は、あくまでリーダーの判断に従ってください」
「了解。勝手に湖に飛び込んだりはしないよ」
「……その“まず出てくる例え”が不安なんですが」
フェリスはこめかみを押さえた。
---
◆遺跡への道中
翌日。 四人は街を発ち、湖へ向かう街道を歩いていた。
道中、セラフィナが遺跡への行き方を説明する。
「私が飛行魔法で一人ずつ運ぶ。安全を期すなら、それが一番ね。霧の上からなら全体も俯瞰できるし」
ライアンも頷いた。
「私もその案に賛成だ。跳躍で渡るなど無謀だろう。風向き、距離、落下地点の不確定性を考慮すると──」
「いやいや、そこはこの靴の見せ場じゃない?」
ノアトは胸を張ると、リープブーツを履き、軽やかに跳んでみせた。
──が、着地で派手に転んだ。
「……っ痛ぇ!」
地面を転がり、尻をさするノアト。
ライアンが感嘆の声を上げる。
「すごいじゃないか……! あえて転倒し、衝撃を全身に逃がすことで怪我を最小限に抑えている! 高度な体術理論だ!」
「いや違う! ただ失敗しただけでしょ!」
セラフィナが即座にツッコミを入れる。 イリスは袖口で口を隠し、顔を赤くしながら小さく笑った。
「……ふふ」
ノアトは転がった姿勢のまま、空を見上げた。
(まぁ、笑ってくれるならいいか……)
湖へ近づくにつれ、霧が立ち込め始める。 遠く、白い帳の向こうに黒々とした神殿の影が浮かび上がってきた。
「……あれが、湖上の遺跡」
セラフィナがつぶやく。
「気を引き締めろ。ここから先は、遊び半分じゃ済まない」
ノアトはリープブーツを見下ろし、深く息を吐いた。 胸の奥に、不思議な緊張と期待が入り混じる。
(……全力で跳んだら、ほんとに落ちないよな?)
自分で自分にツッコミながら、足元の靴の紐をもう一度きゅっと締め直した。
---
◆突入前日の夜営
湖のほとりに着いた頃には、霧がさらに濃くなり、視界は数メートル先も怪しいほどだった。 四人は岸辺に小さな焚き火を作り、その夜はそこで過ごすことにした。
火の粉が舞い上がり、静かな湖面に赤い光が揺れる。 湖上には、ぼんやりと黒い影を落とす神殿が佇んでいた。
「……静かすぎるな」
ライアンが薪をくべながらつぶやく。
「虫の声もない。これは水辺特有の静寂か、それとも……」
「不気味ってこと?」とノアトが首をかしげる。
「いや、不気味ではなく理論的に説明できる現象だ。水辺の湿度は音の伝播に影響を与え──」
「はいはい、理論は後でまとめてね」
セラフィナがぴしゃりと遮る。
「今は食事でもして落ち着きましょうか……」
イリスが優しく微笑み、鍋の方へ歩いていく。
焚き火の上で簡単なスープが煮えていた。 イリスが木椀を手に取り、恐る恐るノアトに差し出す。
「……あの……よかったら、どうぞ」
「お、ありがとう!」
ノアトが笑顔で受け取ると、イリスは耳まで真っ赤になってそっぽを向いた。
セラフィナはその様子を横目で見て、小さくため息を漏らす。
「……まったく、緊張感があるのかないのか」
ライアンは真剣な顔でスープをすすりながら、ふむと頷いた。
「塩分が少し足りないな。しかし水分と温度管理は完璧だ。まるで戦闘前の栄養補給理論に適っている」
「……料理を理論で褒める人、初めて見たわ」
セラフィナが呆れ顔で返す。
焚き火の炎が、ぱちぱちと音を立てて弾ける。 湖面には逆さまの月と炎が揺れているのに、岸辺の暗がりは妙に黒かった。
ノアトはふと、自分たちの影に目をやる。
焚き火に照らされたはずの影が、一瞬だけ炎の揺れと違うリズムで歪んだ気がして、首を傾げた。
(……気のせい、だよな)
そう自分に言い聞かせて視線を外す。 少し離れたところで、ライアンが地面に線を引きながら「湖上遺跡の構造についてだが――」と難しそうな話を始めている。
「セラフィナは空から偵察できるんだよな?」
ノアトは枝を焚き火に足しながら訊ねた。
「そうね。ただし霧が濃い。視界は限られると思う」
「イリスは?」
「……わたしは……治すくらいしか……」
と彼女は小さな声で答える。
「いや、それが一番大事だよ。助かるよ」
ノアトの言葉に、イリスはまた俯いてしまったが、その肩は少しだけ緩んでいた。
ライアンは拳を見つめながら口を開いた。
「私の拳は武器よりも信頼できる。岩をも砕き、敵をも倒す。だが──今回の依頼は物理では解けぬものが多そうだな」
ノアトは苦笑する。
「俺もそう思うよ。戦いは苦手だし、仕掛けを見るくらいしかできない」
その言葉に、セラフィナが焚き火越しに鋭い視線を向けた。
「……でもあなた、依頼を見つけて持ってきたんでしょう? 責任は取ってもらうわよ」
「えぇ!? 責任……」
ノアトは慌てて両手を振る。
「ただこの依頼、面白そうだなって……」
「……やっぱり遊び半分じゃないですか」
セラフィナの冷たい声に、ライアンが感嘆の調子で割り込む。
「いや、直感で依頼を選び取ったのだろう。偶然ではない、選択の理論だ!」
「その“理論”で何でも正当化するのやめなさいよ」
セラフィナが額を押さえる。
やがて笑い声も落ち着き、霧の中で焚き火の音だけが響いた。
湖上に浮かぶ遺跡の影が、じわりと迫ってくるように見える。
風が霧を撫でるたび、遠くの黒い輪郭が揺らいだ。
「……明日か」
ノアトは呟いた。
「どんな遺物が待ってるか……」
心臓の鼓動が早まる。 それが恐怖か、期待か、自分でもわからないまま──ノアトは目を閉じた。
焚き火の光の中で揺れる影が、さっきよりも少しだけ長く伸びたような気がしたが、その違和感に名前を付けるには、まだ夜は静かすぎた。




