夜明け前の短い会議
小舟が闇に溶けてから、浜は一段静かになった。
波の音だけが残る。泡猫は餌に夢中で、泡も立てない。静かすぎて、かえって不気味だった。
フィンは唇を噛んだまま、砂へしゃがみ込む。指先で足跡の角度をなぞり、潮の流れを読む。
「……波打ち際に寄せて、痕を消してる。潮が浅く撫でる場所だ。追えば追うほど、こっちの足だけ残る」
「それは感想です」
サラが静かに刺した。
「事実にしてください」
フィンが肩をすくめる。
「事実。足跡は波打ち際で途切れる。潮の筋で輪郭が溶ける。以上」
ミナが小声で言う。
「……滑る膜。ここ。踏まないで」
潮だまりの薄い膜は、夜の光で油のように揺れていた。
泡猫が舐めている場所にだけ、甘い匂いが残る。
サラが眉をわずかに動かす。
「餌の可能性」
「推測です」
自分で言い直して、サラは封緘袋を取り出した。
「……付随物。回収します」
木片で掬い、袋へ落とす。口を整える。
「封緘」
セリアが復唱する。
「確認。封緘」
封蝋は、ここではしない。夜の浜で火を扱うのは目立つ。
支部へ持ち帰ってからだ。
レインの判断は一貫している。
「帰還準備」
白縁の腕章が、自然に動く。
外周で待っていたノアトが、連絡石を握り直す。
レインの声が入る。
『外周。異常は?』
「……異常はない。泡猫も餌に夢中」
『了解。位置を変えるな。――帰還で拾う』
「了解」
ノアトは白い線の内側へ戻る。
足元の線が、今夜は妙に頼もしく感じられた。
*
支部へ戻ると、夜のロビーは相変わらず灯りが残っていた。
受付カウンターの内側で、フェリスが眼鏡を押し上げた。
「報告を。結論から」
レインが前に出る。
「蒼鏡浜。人為の痕、追加。下っ端の動き、確認。追跡せず。――証拠回収、封緘済み。被害なし」
「よろしい」
フェリスの返事は短い。
だが目だけは鋭く、封緘袋へ落ちる。
サラが淡々と続ける。
「事実:杭痕、縄擦れ、網糸、餌の残滓と思われるもの、薄膜。写影記録あり。
事実:足跡は波打ち際で途切れ、潮で輪郭が崩れる。追跡不能の理由として“足場不良と夜間”を記載します」
「適切です」
フェリスがレジストリエへ入力する。
淡い光が走り、案件が“積まれる”。
セリアが背筋を伸ばす。
「確認。線は守りました」
「守ったので、加点します」
フェリスは淡々と言った。
「まだ結論が出ていない。フィールドレートは据え置きで“夜間対応の良”を付記します」
事務の評価は冷たいが、公平だ。
レインが一拍置いて、次を出した。
「外周の協力者から、追加情報」
フェリスの視線が、ノアトへ来る。
ノアトは肩をすくめた。
「貴族みたいな人に話かけられて、俺のことを知ってました」
フェリスのペン先が一瞬止まる。
その止まり方が、嫌な種類の止まり方だった。
「……どの程度、知っていました?」
「フルネーム。あと、『上の方々』とか。『帳尻』とか。『改めて挨拶に来る』って」
ロビーの空気が少しだけ沈む。
白縁の若い調査班が、急に“仕事”の顔になる。
フェリスは眼鏡のブリッジを押し上げ、低い声で言った。
「……今夜の記録は、閲覧制限をかけます」
「確認」
セリアが反射で言い、すぐに口を閉じた。
レインが短く頷く。
「会議が必要だ」
フェリスも頷く。
「支部長室へ。朝一番で。――ノアトさんは帰って休みなさい」
「帰っていいの?」
「今夜は“外周の協力”で十分です。線を守ったので帰れます」
それが褒め言葉だと、ノアトは少し遅れて理解した。
白縁の腕章が、静かにロビーの奥へ消えていく。
次に引かれるのは、砂浜の線だけではない。
支部の中の線だ。
そして――“こちらから伺います”と言った誰かが、確かに夜の浜にいた。
*
支部長室の灯りは、夜明け前でも落ちていなかった。
机の上には写影の記録、封緘袋、そしてレジストリエの薄い光。
エリオット・アウレリウスは窓際に立ち、金縁の腕章を指で押さえたまま言った。
「結論から」
レインが短く前へ出る。
「蒼鏡浜。密猟の動き、確認。追跡せず、見失い。――痕跡回収、封緘済み。被害なし」
サラが淡々と紙を読み上げる。
「事実:杭痕、縄擦れ、網糸、餌の残滓と思われるもの、薄膜。写影記録あり。
事実:足跡は波打ち際で途切れ、潮で輪郭が崩れる。追跡不能の理由は“足場不良と夜間”。以上」
フェリスが眼鏡を押し上げ、レジストリエに入力する。
「蒼鏡浜は臨時で注意区画に移行。掲示は危険域のみ。理由は伏せます。
夜間の見張り――増員します。調査班の巡回に加え、職員の回覧を追加」
「良い」
エリオットが頷く。
「討伐はまだ手順のみ。帰す方針は維持。密猟を止めるのが先だ」
レインが続けた。
「外周運用を変更する。協力者を単独にしない。距離を詰める。線の内側から視界が切れない位置に置く」
フェリスが即座に追記する。
「同意します。協力者の外周単独は禁止。……昨夜の“接触”がある以上、尚更です」
空気が少し沈む。
エリオットの声が低くなる。
「――ノアト・アルシエルへの接触。報告を」
レインは短く言った。
「外周。貴族風の人物が接触。ノアトのフルネームと異名《観察眼》を把握。
『上の方々』『改めてご挨拶に。こちらから伺います』『帳尻』――発言。連絡石応答の直後に消失」
サラが言葉を整える。
「推測は保留。事実として“内部情報に触れている可能性”を記録します」
フェリスが淡々と言った。
「これは現場案件ではなく、情報セキュリティ事案です。
今夜以降、報告書の閲覧制限を強化します。“観察眼”という呼称は内部でも使用制限。外部文書から削除」
エリオットが小さく笑った。
「実に結構。君の刃はいつも正確だ」
「刃ではありません。規律です」
レインが短く言う。
「内通の可能性は?」
エリオットは即断しない。だが、方向だけを示した。
「疑うには早い。……しかし、調べるには遅い。
レジストリエの閲覧ログと出力履歴を洗いましょう。鑑定課――《アプレイザ》のアクセスは最優先だ」
フェリスが頷く。
「本日中に。帳票の欠番、封緘材の流れ、出庫記録も照合します」
決まった。
会議はそれ以上、長引かせない。
エリオットが最後に、静かに言った。
「線を引くのは浜だけではない。支部の中にも線が要る」
レインが頷く。
「了解」
*
支部の奥、遺物鑑定課。
朝の光が届かない棚の間に、未鑑定の木箱がいくつも積まれている。封緘の蝋の匂い、薬品の匂い、乾いた紙の匂い。ここは“物”の気配が濃い。
鑑定官が早口で走り回っていた。
「次は――ええと、封緘番号、こっち! 違う違う、そっちじゃなくて――!」
その慌ただしさの中で、ひとりだけ“音がしない”人物がいた。
紺の内勤服。控えめな髪留め。背筋は綺麗で、視線の置き方が上品だ。
指先が封緘袋を一枚取り出し、縁を揃え、机へ置く。
――音がしない。
紙が擦れるはずなのに、まるで空気の上に置いたみたいに静かだった。
首元に細いチョーカーが見える。黒地に、猫の刺繍が小さく一匹。爪の先ほどの飾り。
だが、飾りにしては“整いすぎている”。
フェリス・ハートリーが入口に立ち、眼鏡越しにその静けさを捉えた。
ほんの短い視線。だが、鋭い。
視線が、補助員の首元へ一瞬だけ落ちる。
(猫影首環)
背後の気配を拾い、足音を殺す。奇襲と潜入に向く。
日常生活には全く必要がない――それが、逆に分かりやすい。
(……鑑定済み。私物。触れない)
(疑いだけで押さえれば、こちらが規律を破る。しかも、今は“足跡”にならない)
フェリスは眼鏡のブリッジを押し上げ、視線を封緘袋へ戻した。
証拠にならないものは、今は持てない。持てるのは“線”だけだ。
静かな補助員が、先に気づいて顔を上げる。
「……どうかしましたか、フェリスさん」
声は穏やかだ。
過度に丁寧ではない。鑑定課の職員として自然な温度。作業の流れを止めない距離感。
フェリスは一拍置いてから、事務の顔で言う。
「いいえ。昨夜の蒼鏡浜の件で、閲覧制限を強化します。鑑定課の端末閲覧も必要者のみ。出力は私の承認を通してください」
「承知しました」
補助員は即座に頷く。
「規定どおりに」
早口の鑑定官が横から割り込む。
「フェリスさん! 封緘材の在庫が――!」
「後で整理します。まず番号を揃えてください」
フェリスが視線を戻した瞬間、補助員はすでに作業へ戻っていた。
足音がない。
背後へ回る気配もない。
棚の陰へ消える動きが、猫みたいに滑らかだった。
チョーカーの刺繍が、灯りの角度で一瞬だけ光る。
猫が一匹、何も言わずにそこにいる。
フェリスは見ていた。
そして、見ていないふりもした。
(静かすぎる)
胸の奥で、事務的な警鐘が鳴る。
まだ断定はできない。だからこそ、線を引く。
――支部の中にも。
◆鑑定課:猫の影
フェリスは鑑定課の入口を一歩だけ離れ、廊下の角で立ち止まった。
背後の慌ただしさは相変わらずだ。瓶の音、紙の擦れる音、鑑定官の早口――それらの中に、ひとつだけ“無音”が混じっている。
(……静かすぎる)
口に出せば、それは疑いになる。
疑いを形にすれば、こちらが規律を踏み外す。
フェリスは眼鏡のブリッジを押し上げ、呼吸の温度を落とした。
そして――実務に戻す。
廊下を歩き、支部の端末室へ向かう。
レジストリエの光が、暗がりの壁に淡く反射していた。
「閲覧制限を強化します」
誰に言うでもなく呟くと、端末の表示面が応じるように微かに揺れた。
フェリスは指先を滑らせ、昨夜の案件の項目を開く。
蒼鏡浜。影。密猟。追跡不能。封緘済み。
そこに、外周接触事案――ノアト・アルシエルへの接触報告を“別枠”で紐づける。
入力欄が一つ増える。
閲覧制限:強
出力制限:承認必須
閲覧ログ:監査対象
……次に必要なのは、線だ。
支部の中の線。
フェリスは、端末に短い命令を流した。
「直近七日間。鑑定課からの閲覧と出力。全て抽出」
表示面に小さな砂時計のような紋が回り始める。
魔導式帳簿は、正直だ。動かした指の痕は、消えない。
(消えないはず)
フェリスは、一拍だけ思考を止める。
“はず”が付く時点で、相手は厄介だ。
その時、背後から軽い足音が聞こえた。
……軽い、はずなのに。
音が無い。
振り返らずとも分かる。
あの補助員だ。
「フェリスさん」
穏やかな声。鑑定課の温度。
「今、閲覧制限の更新でしょうか。必要なら、鑑定課の端末番号一覧をお持ちします」
フェリスは一拍置いて振り返った。
視線を合わせる。声は硬くしない。硬くすると、余計な反応を生む。
「お願いします。鑑定課全端末の端末番号と、出力用の写し台の利用記録も」
「承知しました」
補助員は頷いた。
その頷きは従順で、綺麗で、あまりに“規定どおり”だった。
(規定どおり、ね)
フェリスは端末へ視線を戻す。
表示面が抽出結果を吐き出し始める。細い文字列、時刻、閲覧者権限、閲覧ページ、出力有無。
――多い。
鑑定課は仕事量が多い。当然だ。
だが、その中に“綺麗すぎる”流れがある。
閲覧が深いのに、出力がない。出力がないのに、翌日に外部で噂が動く。
そして、同じ時間帯に“ちょうど”端末が空いている。
フェリスは眉を動かさず、指先だけで項目を寄せた。
(……ここ)
確証にはならない。
だが、線は引ける。次の一手の線。
「鑑定官」
鑑定課の慌ただしい男が、廊下の向こうから顔を出した。息が切れている。
「は、はいっ!?」
「今日から、出力は私の承認が必要です。封緘材の在庫は“番号管理”に切り替えます。――棚卸しを」
「えっ、きょ、今日から!?」
「今日からです」
フェリスの声は穏やかだった。
穏やかだからこそ、逆らえない。
鑑定官は走り去っていく。
足音が騒がしい。人間らしい。
一方、補助員は静かに書類束を持って戻ってきた。
端末番号一覧。写し台の利用票。整っている。乱れがない。
「こちらです」
「ありがとうございます」
フェリスは受け取り、淡々と目を通す。
そして、紙を揃える指先の動きだけで察する。
――この人は、紙を揃える音すら消せる。
猫影首環の刺繍、黄色い目の猫が一匹、何も言わずに見ている。
フェリスは、その猫を見ない。
見ないまま、線を引く。
「昨日の夜、鑑定課で遅くまで残っていた者は?」
補助員は一拍置かずに答えた。
「鑑定官が二名と、私です。封緘袋の整理が残っていましたので」
「そうですか」
フェリスは、それ以上聞かない。
聞けば聞くほど、こちらが“疑っている”と宣言することになる。
疑いは宣言ではなく、手順で包む。
「では、今夜も同じように残る必要があるなら――私に申請を」
「承知しました。規定どおりに」
規定どおり。
その言葉が、今は少しだけ冷たく聞こえた。
補助員は会釈して、廊下の影へ戻っていく。
背中が遠ざかる。足音がない。
棚の陰に溶ける動きが、猫のそれだ。
フェリスは端末の表示面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
(……手がかりが無いのが、手がかり)
この支部には、確かに線を踏まない者がいる。
踏まないからこそ、線を引き直す必要がある。
フェリスは指先で、次の項目を開いた。
搬送記録。封緘材出庫。車両手配。
――もし、誰かが“こちらから伺う”と言ったなら。
それは浜ではなく、支部の中から始まっている。




