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アルシエル遺物探検録  作者: たつりゅう
第三章(予定)
42/43

夜の支部集合〜蒼鏡浜へ



クロニカ支部へ向かう道は、昼とは別の顔をしていた。


露店の声は消え、石畳は冷え、灯りだけが点々と残っている。遠くで犬が吠え、風が路地を抜けた。


セリアの歩調は無駄がない。

紺の監査コートの裾が夜気に沈み、黒に近く見える瞬間がある。黒い大剣と黒いリボンが輪郭を強め、結果として“影”だけが先に目に入る。


ノアトはその後ろで、あくびを噛み殺しながら歩いた。

眠気はまだ重い。だが、夜の空気は妙に頭を冴えさせる。



ギルド《クロニカ》ブレストン支部。

夜のロビーは、昼より音が少ない。


それでも静寂ではない。

受付の灯りは落とされず、レジストリエの表示面は淡く呼吸するように光り、依頼掲示板の前には――数人の影が残っていた。


夜でも依頼を漁る冒険者はいる。

理由は単純だ。昼に受けられる依頼を逃した者、夜にしか動けない者、そして“夜の方が稼げる”と知っている者。

危険は増えるが、報酬も跳ねる。そういう仕事が、必ず紛れ込む。


ノアトはロビーの隅で、眠そうな顔の男を見つけた。

あの警備兵のおじさんだ。いつもより目が半分しか開いていない。手には湯気の消えかけた湯飲み。


「おう……おう……夜か……」


声まで眠い。


おじさんの独り言に、近くにいた若い冒険者が反応した。

掲示板前で肩を寄せ合っていた二人組だ。夜でも依頼票をめくっているあたり、切羽詰まっているか、胆が据わっているか。


「なあ、あれ。腕章の縁……白い線のやつ、何だっけ」


片方が首をひねる。


「白縁だよ、白縁。調査班」


もう片方が即答した。

言い切った瞬間、二人とも少しだけ背筋を伸ばす。夜に白縁が動くのは、面倒な匂いがする。


「調査班って、夜も出るんだ」


「出る。……ってことは、出たんだろ。影とか、黒蔦とか」


ひそひそ声が落ちる。

噂は夜の方がよく伸びる。


おじさんがそれを聞いて、勝手に頷いた。


「浜だろ、浜。……なあ、こんなときに“浜の守り手”が――」


言いかけて、ちらりとノアトを見る。


「……いや、いるじゃねえか。そこに」


ノアトは露骨に嫌そうな顔をした。


「守ってない…」


「守ってる守ってる。紙も守ってたしな」


どこをどう繋げたのか分からない理屈だ。

だが、おじさんの中では辻褄が合っているらしい。


カウンターの内側で、フェリスが眼鏡越しにこちらを見た。

夜の受付は声が低い。音量ではなく圧で届く。


「ノアトさん。外周限定。線を越えない。連絡係。――覚えましたね?」


「はいはい」


「“はいはい”ではなく“了解”です」


「了解」


セリアが一歩前に出る。

「確認。ノアト・アルシエル、協力者として同行。線を越えない。外周。連絡係」


「……その言い方、妙に正式だね」


「規律は規律」


セリアは真面目に言い切った。


ロビーの奥で、白縁の腕章が揃う。

レイン・フレイザーが短く周囲を見回し、名で呼ぶ。


「セリア。フィン。サラ。ミナ」


「います」

「はいはい」

「います」

「……います」


返事の温度が違うのに、列は崩れない。

若いのに、仕事の線は揃っている。


レインがノアトを一瞥した。

表情は動かないが、視線だけで“線を越えるな”と言っている。


「協力者、確認。……外周のみ」


「了解」


ノアトが頷くと、レインはそれ以上言わなかった。

言葉を削るのが《調律》のやり方だ。


サラが小さな板に筆を走らせている。夜間出動の記録だろう。

フィンは欠伸を噛み殺し、セリアの大剣を見て笑う。


「夜のセリア先輩、なんか黒い影だな」


「紺です」


サラが即座に刺す。


「……紺が夜に沈んで黒に見えるだけ」


セリアが真顔で補足し、フィンが吹き出した。


ミナが小声でノアトに言う。


「……寒い。これ、巻いて」


いつの間にか持っていた薄布を差し出してくる。

ノアトは受け取り、首に巻いた。


「ありがとう」


ミナは頷き、少しだけ安心した顔をした。


フェリスが受付から最後の確認を落とす。


「連絡石。反応確認。――異常があれば“退く”を最優先。調査班は接触禁止。協力者は線を越えない。以上」


「了解」


レインが短く言い、白縁の列が動き出す。



支部を出ると、夜の空気が肌に刺さった。

潮の匂いが、昼より濃い。遠くで波が砕ける音が微かに届く気がする。


蒼鏡浜へ向かう道は、暗い。

灯りは少ないが、星がある。雲が薄い夜は、それだけで視界が違う。


セリアが少しだけ振り返る。


「確認。眠気、ありますか」


「ある」


「なら、歩調は落とさない。眠気は遅れます」


「理屈が雑じゃない?」


「雑ではありません。規律です」


規律万能。

ノアトは小さく笑った。


板道の入口が見えてくる。

昼に引いた白い線――境界線が、月明かりに薄く浮いた。


ここから先は、夜の浜。

泡猫が増える時間。

影が近づく時間。

そして、誰かが“追い込む”時間。


白縁の腕章が揃って止まり、夜の蒼鏡浜が、静かに開いた。



境界線の外側。板道入口寄りの暗がり。

調査班の白縁は、少し先――潮だまりの向こうで動いている。声は届かない。届くのは、連絡石だけだ。


泡猫が数匹、潮だまりに寄り固まっていた。

いつもなら泡で滑らせてくるのに、今夜はやけに静かだ。何かを夢中で舐めている。甘い匂いが微かに混じる。


(餌、かな)


ノアトはあくびを噛み殺し、首に巻いた薄布を指で整えた。

眠気はまだ抜けない。視界は暗いのに、潮の音だけがやけに明瞭だ。


少し先で、人影が動く。

茶髪――下っ端。数人。低い声。短い合図。

調査班の視線がそちらに寄るのが分かる。空気が、ほんの少し張った。


その瞬間、ノアトの背後――外周側から、別の足音が一つだけ近づいた。

砂を踏む音がやけに軽い。なのに、歩幅は乱れていない。


「こんばんは。こんな夜更けに、一体どのような御用で?」


声が丁寧だった。

夜の浜に似合わないほど、整っている。


ノアトは反射で振り返る。

外套の裾が揺れ、月明かりに布地が薄く光る。顔立ちは貴族を思わせる端正さで、立ち姿も無駄がない。

“浜に迷い込んだ貴族”というより、“浜でも崩れない人”だった。


「こんばんは。ちょっと、ギルドの手伝いで来てまして…」


「なるほど。それはさぞ大変でしょう」


柔らかい微笑み。

その視線が、ノアトの足元――境界線の白い筋を一瞬だけなぞった気がした。


(線、知ってる?)


眠気が思考を鈍らせる。

ノアトは深く考えないことにした。夜に考えると余計な方向へ転ぶ。


少し間が開いて、相手が静かに続ける。


「噂には聞いていますよ。《観察眼》のノアト・アルシエルと」


「え?」


胸がわずかに冷えた。

どうして知っている。ブレストンの人間か、ギルドの関係者か――それとも。


相手は、ノアトの戸惑いを楽しむような素振りは見せない。あくまで丁寧に、淡々と。


「改めてご挨拶に。こちらから伺います」


「……挨拶?」


「ええ。“上の方々”が、あなたに関心を持っておりまして」


上の方々。

その言い方だけで、範囲が曖昧に広がる。支部長なのか、ギルド本部なのか、貴族なのか、まるで分からない。

相手は静かに息を整え、言葉を落とす。


「帳尻を――合わせていただくことになるでしょう」


「帳尻……」


ノアトは眠い頭で、最初に浮かんだ結論を口にしかけた。


(フェリス案件? 俺、また何かやらかした?)


その瞬間、連絡石が小さく震えた。


『外周。異常は?』


レインの声。短い。切れ味がある。

ノアトの背筋が、そこでようやく起きた。


「……あ」


『聞こえない。要点だけ』


ノアトは、反射で隣を見た。


――いない。

さっきまで立っていた貴族風の人物は、潮の匂いの中に溶けたように消えていた。

足音も、気配も、風の揺れさえも残っていない。


ノアトは一拍遅れて、喉が乾くのを感じた。


「……今、貴族みたいな人が話しかけてきた」


『特徴』


「丁寧で、手慣れてて……俺の名前、知ってた」


連絡石の向こうで、レインの声が短く割れた。


『位置は変えるな』


「了解」


ノアトが白い線の内側へ戻り、息を整えた瞬間、板道の先で小さな動きがあった。

茶髪の影が二つ、三つ。波打ち際の暗がりへ溶ける。


セリアの声が低い。


「確認。下っ端、移動」


フィンが身を乗り出しかける。


「追う?」


「追わない」

レインが即答した。

「砂。足場が悪い。夜。相手は地形を知ってる。――追えば事故る」


サラが淡々と言う。


「記録優先。見失いは“事実”です。追跡不能の理由も添えます」


ミナが小声で頷く。


「……滑る。転ぶ。危ない」


セリアもそれに同意する。

「つまり――ここから先は追わない」


それが調査班の美徳で、同時に歯がゆさでもあった。


茶髪の影は、波音に紛れて消えた。

砂には足跡が残るはずなのに、夜の潮が浅く撫でるだけで輪郭が溶けていく。

追えば追うほど、足元が自分を裏切る。


レインが短く言った。


「見失い。……連絡。フェリスへ」


サラが写影水晶フォトクリスタを掲げ、残された痕跡を写す。


「記録します。足跡、杭痕、網糸。撤退方向――推定、波打ち際」


フィンが唇を噛んだ。


「……上手いな。逃げ方」


「上手い相手ほど、追わない」

レインの声は冷たい。

「俺たちは証拠を持ち帰る」



波打ち際の暗がり。

潮だまりの向こうで、泡猫が静かに固まっていた。餌に夢中で、泡も出さない。

泡猫が“黙る”だけで、浜は事故が減る。――それを知っている手口だ。


茶髪の若い男が、小舟の縁を押さえて息を潜めた。

肩には濡れた縄。手には、麻袋の口を締めるための細紐。


「早くしろ。白縁が近い」


別の茶髪が小声で返す。

「追わねぇよ。あいつら、線を守るからな」


小舟の中には、麻袋が二つ。

濡れている。生きているものの重さで、わずかに蠢いた。


袋の隙間から、黒い肌が一瞬だけ覗く。

普通サイズ――人の腕ほどの太さのウナギ型。

それでも十分に高値が付く。


「でけぇ影は?」

誰かが問う。


茶髪の男は首を振った。


「今日は“影”じゃねぇ。影は客寄せだ。噂を歩かせて、白縁を浜に縛る」

袋の口を叩く。

「獲物はこっち。普通のやつで十分。皮が要るんだよ、皮が」


別の男が笑いかけて、すぐに黙った。


「耐電の加工に回すってやつか」


「そう。手袋、帯、網の結び糸――売り先はいくらでもある」

茶髪の男は手際よく縄をまとめ、舟の縁へ結び直す。結びは雑ではない。速く、実用だけがある。


「行くぞ。潮が変わる前に」

小舟は静かに滑り出した。

櫂は水を叩かない。押すだけで進む角度を選び、波の音の中へ混ぜる。

夜の浜から、黒蔦の気配が抜けていく。


最後に一人が、岸を振り返った。


遠くに白い線が見える。

線の外で、人影がひとつ固まっている。眠そうな顔の少年が――


「……あれが例の?」


茶髪の男は笑わず、淡々と言った。


「見るな。上が“挨拶”する。俺らは仕事だけして帰る」


小舟は闇に溶けた。

浜に残ったのは、薄い膜と、溶けかけた足跡と、餌に夢中の泡猫だけだった。

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