夜の支部集合〜蒼鏡浜へ
クロニカ支部へ向かう道は、昼とは別の顔をしていた。
露店の声は消え、石畳は冷え、灯りだけが点々と残っている。遠くで犬が吠え、風が路地を抜けた。
セリアの歩調は無駄がない。
紺の監査コートの裾が夜気に沈み、黒に近く見える瞬間がある。黒い大剣と黒いリボンが輪郭を強め、結果として“影”だけが先に目に入る。
ノアトはその後ろで、あくびを噛み殺しながら歩いた。
眠気はまだ重い。だが、夜の空気は妙に頭を冴えさせる。
*
ギルド《クロニカ》ブレストン支部。
夜のロビーは、昼より音が少ない。
それでも静寂ではない。
受付の灯りは落とされず、レジストリエの表示面は淡く呼吸するように光り、依頼掲示板の前には――数人の影が残っていた。
夜でも依頼を漁る冒険者はいる。
理由は単純だ。昼に受けられる依頼を逃した者、夜にしか動けない者、そして“夜の方が稼げる”と知っている者。
危険は増えるが、報酬も跳ねる。そういう仕事が、必ず紛れ込む。
ノアトはロビーの隅で、眠そうな顔の男を見つけた。
あの警備兵のおじさんだ。いつもより目が半分しか開いていない。手には湯気の消えかけた湯飲み。
「おう……おう……夜か……」
声まで眠い。
おじさんの独り言に、近くにいた若い冒険者が反応した。
掲示板前で肩を寄せ合っていた二人組だ。夜でも依頼票をめくっているあたり、切羽詰まっているか、胆が据わっているか。
「なあ、あれ。腕章の縁……白い線のやつ、何だっけ」
片方が首をひねる。
「白縁だよ、白縁。調査班」
もう片方が即答した。
言い切った瞬間、二人とも少しだけ背筋を伸ばす。夜に白縁が動くのは、面倒な匂いがする。
「調査班って、夜も出るんだ」
「出る。……ってことは、出たんだろ。影とか、黒蔦とか」
ひそひそ声が落ちる。
噂は夜の方がよく伸びる。
おじさんがそれを聞いて、勝手に頷いた。
「浜だろ、浜。……なあ、こんなときに“浜の守り手”が――」
言いかけて、ちらりとノアトを見る。
「……いや、いるじゃねえか。そこに」
ノアトは露骨に嫌そうな顔をした。
「守ってない…」
「守ってる守ってる。紙も守ってたしな」
どこをどう繋げたのか分からない理屈だ。
だが、おじさんの中では辻褄が合っているらしい。
カウンターの内側で、フェリスが眼鏡越しにこちらを見た。
夜の受付は声が低い。音量ではなく圧で届く。
「ノアトさん。外周限定。線を越えない。連絡係。――覚えましたね?」
「はいはい」
「“はいはい”ではなく“了解”です」
「了解」
セリアが一歩前に出る。
「確認。ノアト・アルシエル、協力者として同行。線を越えない。外周。連絡係」
「……その言い方、妙に正式だね」
「規律は規律」
セリアは真面目に言い切った。
ロビーの奥で、白縁の腕章が揃う。
レイン・フレイザーが短く周囲を見回し、名で呼ぶ。
「セリア。フィン。サラ。ミナ」
「います」
「はいはい」
「います」
「……います」
返事の温度が違うのに、列は崩れない。
若いのに、仕事の線は揃っている。
レインがノアトを一瞥した。
表情は動かないが、視線だけで“線を越えるな”と言っている。
「協力者、確認。……外周のみ」
「了解」
ノアトが頷くと、レインはそれ以上言わなかった。
言葉を削るのが《調律》のやり方だ。
サラが小さな板に筆を走らせている。夜間出動の記録だろう。
フィンは欠伸を噛み殺し、セリアの大剣を見て笑う。
「夜のセリア先輩、なんか黒い影だな」
「紺です」
サラが即座に刺す。
「……紺が夜に沈んで黒に見えるだけ」
セリアが真顔で補足し、フィンが吹き出した。
ミナが小声でノアトに言う。
「……寒い。これ、巻いて」
いつの間にか持っていた薄布を差し出してくる。
ノアトは受け取り、首に巻いた。
「ありがとう」
ミナは頷き、少しだけ安心した顔をした。
フェリスが受付から最後の確認を落とす。
「連絡石。反応確認。――異常があれば“退く”を最優先。調査班は接触禁止。協力者は線を越えない。以上」
「了解」
レインが短く言い、白縁の列が動き出す。
*
支部を出ると、夜の空気が肌に刺さった。
潮の匂いが、昼より濃い。遠くで波が砕ける音が微かに届く気がする。
蒼鏡浜へ向かう道は、暗い。
灯りは少ないが、星がある。雲が薄い夜は、それだけで視界が違う。
セリアが少しだけ振り返る。
「確認。眠気、ありますか」
「ある」
「なら、歩調は落とさない。眠気は遅れます」
「理屈が雑じゃない?」
「雑ではありません。規律です」
規律万能。
ノアトは小さく笑った。
板道の入口が見えてくる。
昼に引いた白い線――境界線が、月明かりに薄く浮いた。
ここから先は、夜の浜。
泡猫が増える時間。
影が近づく時間。
そして、誰かが“追い込む”時間。
白縁の腕章が揃って止まり、夜の蒼鏡浜が、静かに開いた。
*
境界線の外側。板道入口寄りの暗がり。
調査班の白縁は、少し先――潮だまりの向こうで動いている。声は届かない。届くのは、連絡石だけだ。
泡猫が数匹、潮だまりに寄り固まっていた。
いつもなら泡で滑らせてくるのに、今夜はやけに静かだ。何かを夢中で舐めている。甘い匂いが微かに混じる。
(餌、かな)
ノアトはあくびを噛み殺し、首に巻いた薄布を指で整えた。
眠気はまだ抜けない。視界は暗いのに、潮の音だけがやけに明瞭だ。
少し先で、人影が動く。
茶髪――下っ端。数人。低い声。短い合図。
調査班の視線がそちらに寄るのが分かる。空気が、ほんの少し張った。
その瞬間、ノアトの背後――外周側から、別の足音が一つだけ近づいた。
砂を踏む音がやけに軽い。なのに、歩幅は乱れていない。
「こんばんは。こんな夜更けに、一体どのような御用で?」
声が丁寧だった。
夜の浜に似合わないほど、整っている。
ノアトは反射で振り返る。
外套の裾が揺れ、月明かりに布地が薄く光る。顔立ちは貴族を思わせる端正さで、立ち姿も無駄がない。
“浜に迷い込んだ貴族”というより、“浜でも崩れない人”だった。
「こんばんは。ちょっと、ギルドの手伝いで来てまして…」
「なるほど。それはさぞ大変でしょう」
柔らかい微笑み。
その視線が、ノアトの足元――境界線の白い筋を一瞬だけなぞった気がした。
(線、知ってる?)
眠気が思考を鈍らせる。
ノアトは深く考えないことにした。夜に考えると余計な方向へ転ぶ。
少し間が開いて、相手が静かに続ける。
「噂には聞いていますよ。《観察眼》のノアト・アルシエルと」
「え?」
胸がわずかに冷えた。
どうして知っている。ブレストンの人間か、ギルドの関係者か――それとも。
相手は、ノアトの戸惑いを楽しむような素振りは見せない。あくまで丁寧に、淡々と。
「改めてご挨拶に。こちらから伺います」
「……挨拶?」
「ええ。“上の方々”が、あなたに関心を持っておりまして」
上の方々。
その言い方だけで、範囲が曖昧に広がる。支部長なのか、ギルド本部なのか、貴族なのか、まるで分からない。
相手は静かに息を整え、言葉を落とす。
「帳尻を――合わせていただくことになるでしょう」
「帳尻……」
ノアトは眠い頭で、最初に浮かんだ結論を口にしかけた。
(フェリス案件? 俺、また何かやらかした?)
その瞬間、連絡石が小さく震えた。
『外周。異常は?』
レインの声。短い。切れ味がある。
ノアトの背筋が、そこでようやく起きた。
「……あ」
『聞こえない。要点だけ』
ノアトは、反射で隣を見た。
――いない。
さっきまで立っていた貴族風の人物は、潮の匂いの中に溶けたように消えていた。
足音も、気配も、風の揺れさえも残っていない。
ノアトは一拍遅れて、喉が乾くのを感じた。
「……今、貴族みたいな人が話しかけてきた」
『特徴』
「丁寧で、手慣れてて……俺の名前、知ってた」
連絡石の向こうで、レインの声が短く割れた。
『位置は変えるな』
「了解」
ノアトが白い線の内側へ戻り、息を整えた瞬間、板道の先で小さな動きがあった。
茶髪の影が二つ、三つ。波打ち際の暗がりへ溶ける。
セリアの声が低い。
「確認。下っ端、移動」
フィンが身を乗り出しかける。
「追う?」
「追わない」
レインが即答した。
「砂。足場が悪い。夜。相手は地形を知ってる。――追えば事故る」
サラが淡々と言う。
「記録優先。見失いは“事実”です。追跡不能の理由も添えます」
ミナが小声で頷く。
「……滑る。転ぶ。危ない」
セリアもそれに同意する。
「つまり――ここから先は追わない」
それが調査班の美徳で、同時に歯がゆさでもあった。
茶髪の影は、波音に紛れて消えた。
砂には足跡が残るはずなのに、夜の潮が浅く撫でるだけで輪郭が溶けていく。
追えば追うほど、足元が自分を裏切る。
レインが短く言った。
「見失い。……連絡。フェリスへ」
サラが写影水晶を掲げ、残された痕跡を写す。
「記録します。足跡、杭痕、網糸。撤退方向――推定、波打ち際」
フィンが唇を噛んだ。
「……上手いな。逃げ方」
「上手い相手ほど、追わない」
レインの声は冷たい。
「俺たちは証拠を持ち帰る」
波打ち際の暗がり。
潮だまりの向こうで、泡猫が静かに固まっていた。餌に夢中で、泡も出さない。
泡猫が“黙る”だけで、浜は事故が減る。――それを知っている手口だ。
茶髪の若い男が、小舟の縁を押さえて息を潜めた。
肩には濡れた縄。手には、麻袋の口を締めるための細紐。
「早くしろ。白縁が近い」
別の茶髪が小声で返す。
「追わねぇよ。あいつら、線を守るからな」
小舟の中には、麻袋が二つ。
濡れている。生きているものの重さで、わずかに蠢いた。
袋の隙間から、黒い肌が一瞬だけ覗く。
普通サイズ――人の腕ほどの太さのウナギ型。
それでも十分に高値が付く。
「でけぇ影は?」
誰かが問う。
茶髪の男は首を振った。
「今日は“影”じゃねぇ。影は客寄せだ。噂を歩かせて、白縁を浜に縛る」
袋の口を叩く。
「獲物はこっち。普通のやつで十分。皮が要るんだよ、皮が」
別の男が笑いかけて、すぐに黙った。
「耐電の加工に回すってやつか」
「そう。手袋、帯、網の結び糸――売り先はいくらでもある」
茶髪の男は手際よく縄をまとめ、舟の縁へ結び直す。結びは雑ではない。速く、実用だけがある。
「行くぞ。潮が変わる前に」
小舟は静かに滑り出した。
櫂は水を叩かない。押すだけで進む角度を選び、波の音の中へ混ぜる。
夜の浜から、黒蔦の気配が抜けていく。
最後に一人が、岸を振り返った。
遠くに白い線が見える。
線の外で、人影がひとつ固まっている。眠そうな顔の少年が――
「……あれが例の?」
茶髪の男は笑わず、淡々と言った。
「見るな。上が“挨拶”する。俺らは仕事だけして帰る」
小舟は闇に溶けた。
浜に残ったのは、薄い膜と、溶けかけた足跡と、餌に夢中の泡猫だけだった。




