蒼鏡浜の影
蒼鏡浜の追加調査は、朝のうちに決まった。
ギルド《クロニカ》ブレストン支部。ロビーの掲示板に、白縁の腕章向けの札が一枚貼られている。
レジストリエの半透明スクリーンにも、同じ件名が淡く点灯していた。
蒼鏡浜「大きな影」追加調査。接触禁止。観測優先。
その前に、紺の監査コートが五着並ぶ。
腕章の縁は白。現場調査班。
レイン・フレイザーが短く息を吐いた。ミルクティーベージュの髪、澄んだ灰青の瞳。表情は動かないのに、場の空気だけが整う。
「点呼」
声は低く、短い。
「セリア」
「はい。確認、出動です」
黒い大剣を背負った小柄な少女が背筋を伸ばす。黒い大きなリボンがぴんと跳ねた。
「フィン」
「はいはい。《封解》、います。今日も裏、見とく」
淡い茶髪の少年が軽く手を挙げる。指先が落ち着かない。
「サラ」
「います。《整文》。記録と時系列、担当します」
小柄な眼鏡の少女が、静かに頷く。声は穏やかなのに、言葉だけが鋭い。
「ミナ」
「……わたし、います。《柔灯》」
蜂蜜色の髪の少女が小さく手を上げた。水筒をそっと持ち替え、手の中で温度を確かめる。
最後にレインが言う。
「手順確認。結論から。――接触しない。追わない。水に入らない。観測して帰る」
セリアが真面目に頷いた。
「確認。接触禁止。観測優先。つまり――格好よく帰還が主」
「余計な“つまり”は現場で」
サラの静かな声が刺さる。
フィンが吹き出し、ミナが小さく肩をすくめた。
*
蒼鏡浜は、名の通り“鏡”だった。
半月形の入り江。透明度の高い海と淡い青みを帯びた砂浜が、風の弱い日には空を映す。
朝の光が砂を撫で、潮だまりが小さな空をいくつも作っていた。
セリアが板道の入口に立つ。
「線、引く」
境界線チョークの白い筋が、砂にすっと走る。
続いて小型の現場印を置く。金属が砂に沈む音。
「現場印」
「記録」
サラが写影水晶を掲げる。
淡い光が一瞬だけ瞬き、浜と板道、潮位の目安となる杭までが“写影”として刻まれた。
レインが全員を見回した。
「退路を決める。板道は一本。砂浜は広い。……迷うな」
「迷ったら、戻る。……ね」
ミナが小さく付け足す。
それだけで空気が少し柔らかくなる。
フィンが砂浜へしゃがみ、指先で砂をつまんだ。
澄晶砂は光に透け、細い粒がきらきらする。
「……裏、あるな」
「何?」
セリアが覗き込む。黒い大剣が砂に影を落とす。
フィンは答える前に立ち上がりかけ、言葉を飲み込んだ。
そして次の瞬間、言い忘れた顔になる。
「……今の、言うタイミング逃した」
サラが無音で振り返る。
視線だけで刺さる。
「結論から」
「はい。結論。板道の継ぎ目の砂、沈んでる。重いのが通った感じ」
「時系列で」
「……え、まだ何も始まってないのに」
「始まっています」
サラの声は相変わらず静かだ。
フィンは肩をすくめた。
「昨日の干潮のあと。板道の下、砂がえぐれてる。潮流が変。――それで、影が“浜に寄った”可能性ある」
レインが短く頷く。
「良い。続けて」
そのとき、泡が弾ける音がした。
足元に、小さな泡がぽこぽこと生まれている。
泡猫だ。
白い泡の塊みたいな小型魔獣が、潮だまりから顔を出し、ふわふわと歩いてくる。足元に泡を残し、板道の影へすり寄った。
セリアが一歩踏み出し――滑った。
「……っ」
転びはしない。だが体が傾き、大剣の重さでバランスが崩れかける。
その瞬間、ミナがそっと肘を支えた。
「……大丈夫」
「大丈夫。確認。これは――浜の歓迎」
「歓迎で人を滑らせないでください」
サラが淡々と言い、フィンが笑う。
レインが短く言った。
「集中。影の“理由”を拾う」
影そのものではなく、理由。
調査班の仕事の焦点が、そこで揃う。
*
浜の端――湿地側へ抜ける細い流れ出し口に、フィンが足を止めた。
視線が落ちる。指先が砂を払う。軽口の顔が消える瞬間。
「……裏、ある」
それは冗談の言い方ではなかった。
「杭痕」
フィンが指で示した。砂の下に、丸く固められた痕がある。
同じ大きさが二つ、少し離れて並んでいる。
「新しい。砂が“潰れて固まってる”。ここ、何か立てた跡がある」
サラが一歩寄り、眼鏡の奥で見た。
「位置、流路の出口。足跡、複数。……自然ではありませんね」
フィンが頷き、言いかけて止まる。
そして、また“言い忘れ”かけた顔をした。
「……縄の擦れもある。杭に巻いた跡」
サラが静かに刺す。
「結論から」
「結論。追い込みの“柵”か“囲い”作ってた。逃げ道を――海側に絞るやつ」
セリアの黄色い瞳が細くなる。
「確認。人為。つまり――影は“迷い込んだ”だけではない」
レインが短く言った。
「推測は持つ。証拠も拾う」
“拾う”。
ここで、サラが静かに頷いた。
*
板道の下、潮だまりの縁。泡猫が泡を残して逃げていったあたりで、サラがしゃがみ込む。
目線だけで位置を決め、先に写影水晶を掲げた。
「記録」
淡い光が瞬く。
水面、板道の継ぎ目、砂の沈み、そして濡れた糸の切れ端。
サラは細い木片でそれをすくい上げ、持っていた小さな封緘袋へ落とした。
袋の口を整え、口元だけを軽く閉じる。
「これは検体ではなく付随物ですが、同様に封緘します」
セリアが頷く。
「確認。封緘」
フィンが結び目を覗き込み、眉をひそめた。
「この結び、雑。急いで張ったやつ。……湿地の下請けが使ってたのと似てる」
サラは一拍置いて、言葉を整える。
「“似ている”は推測。事実は、網が存在した痕跡。結びは粗い。砂と潮を噛んでいる。以上」
レインが短く頷く。
「良い。次。影が寄った“痕”を探す」
*
潮だまりの水面に、薄い膜が張っていた。
光の角度で、油膜のように揺らぐ。
ミナが小さく言った。
「……ここ、滑る。水面に薄い膜」
セリアが反射で一歩出そうとして、止まる。
「確認。転倒リスク。つまり――近づかない」
フィンが潮だまりを覗き込む。
「粘い。……ウナギっぽい。底をなぞって通った時の膜かも」
サラが即座に返す。
「“ウナギ”は推測。事実は、薄い膜。転倒要因」
そのときだった。
潮だまりの小魚が一斉に散った。
割れるように、一方向へ。静かな水面が、ひとつだけ“逃げる”形に歪む。
フィンが指先で方向を示す。
「逃げ方が変。でかいのが“下”を通った」
レインが短く命じた。
「退く」
全員の足が止まる。
距離を取る。視線を揃える。
サラが写影水晶を掲げた。
「記録します」
淡い光が、朝より鋭く瞬く。
水面直下を、長い影が滑った。
黒い帯がほどけるように、S字の波を刻む。影だけが先に動き、胴が一拍遅れて追う。
波紋だけが遅れて浜へ届く。
セリアが境界線チョークを取り出し、板道の先へもう一本、白い線を引いた。
「線、追加。ここから先は近づかない」
レインが頷く。
「良い」
影は水面の下で一度だけ身をひねり、波がきらめいた。
次の瞬間、影は沖へ戻っていく。まるで“ここは違う”と言うように。
浜には何も起きない。
被害もない。
ただ、確かに見えた。
――大きな影。
レインが短く言った。
「結論。大型水棲。浜へ寄った理由に人為が混じってる」
セリアが真顔で頷く。
「確認。黒蔦の線で当たる」
サラが小さく息を吐き、淡々と続けた。
「事実:網の痕跡、杭痕、薄い膜、魚群の散り。影を写影で記録。推測:追い込みの可能性」
ミナが、足元の泡をそっと避けながら言う。
「……滑る場所、増えてる。採取の人、危ない」
「そうだな」
レインが言う。短く、決めるように。
「セリア、危険域の仮設定。ミナ、注意札の文言を。サラ、記録を整える。フィン、湿地の件と照合」
全員が動く。
若い班でも、仕事の歯車は噛み合う。
セリアが追加の線を引き、現場印の位置を写影に残す。
ミナが木札に短い注意を記し、板道の入口に結ぶ。
サラは写影水晶をもう一度掲げ、危険域の“見え方”を残す。
フィンは流路を見て、結び目の癖を指でなぞった。
最後にレインが言った。
「帰還する」
*
帰り道、浜の鏡は静かだった。
泡猫は何事もないように潮だまりで泡を弾かせ、板道の影に丸まっている。
支部へ戻る頃、レインは連絡石を手に取った。
「フェリス。現場調査班、帰還。結論――人為の痕あり。作戦会議が必要」
短い言葉で、次章の扉が開く。
セリアは黒いリボンに指を触れ、いつもの口調で頷いた。
「確認。次は――会議」
サラが静かに言う。
「事実が揃いました。あとは、選択です」
ミナが小さく息を吐いた。
「……帰せると、いいね」
フィンは軽く笑って、でも目は海の方を見ていた。
「裏、でかいぞ。これ」
レインは歩調を変えない。
「整える。――《調律》の仕事だ」
白縁の腕章が、支部の扉へ吸い込まれていった。
*
作戦会議
ギルド《クロニカ》ブレストン支部の奥。
受付の喧噪が嘘のように遠い、支部長室。
室内は整っていた。壁際には背丈ほどの書棚が並び、革表紙の報告書と封緘箱が几帳面に分類されている。机上には黒綴じの手順書が重なり、その横でクロニカ登録端末の半透明スクリーンが淡く光っていた。
机の前に、一列。
レイン、セリア、フィン、サラ、ミナ。紺の監査コートの色だけが静かに揃う。
その向かいで、フェリス・ハートリーが眼鏡を押し上げ、紙束を整えた。
そして窓際に、ひとり。
細身の体躯を学者風の外套が静かに支えている。
腕章の縁は――金。
支部長エリオット・アウレリウス。現場案件として、この会議を“決裁”の線まで引き上げた印だった。
「……報告を。結論からで結構」
低く艶のある落ち着いた声。
レインが一歩前に出る。声は短い。
「蒼鏡浜。大きな影を確認。被害なし。接触なし。――ただし、人為の痕あり」
「ふむ。人為とは?」
「杭痕。網糸。結びが雑。追い込みの可能性」
レインは必要十分だけ言う。
続いて、サラが静かに一枚の記録紙を差し出した。写影水晶の写し絵が添えられている。
「事実を整理します。
一、湿地側流路出口に杭痕と縄擦れ。
二、板道下に網糸の切れ端。封緘済み。
三、潮だまりに薄膜。転倒要因。
四、魚群が一方向に散る現象。
五、水面直下に長い影。S字の移動。大型水棲の可能性が高い。以上」
淡々としているのに、情報だけが鋭い。
エリオットは顎に手を添え、少しだけ目を細めた。
「実に結構。……“事実”と“推測”が分かれているのが良い」
サラは小さく頷くだけで返す。
フェリスが眼鏡越しに一行だけ刺した。
「付随物証(網糸)の封緘は適切です。受領番号もレジストリエに記録済みです」
「なるほど。では――“影”そのものは、まだ触れていない、と」
「触れていません」
レインが即答する。
「接触禁止、遵守」
エリオットは満足げに息を吐いた。
「ええ。賢明だ。未知を相手にする際、まず整えるべきは“線”と“退路”ですからね」
その言葉に、セリアが背筋を伸ばす。
「線は引きました。現場印も設置。危険域は仮設定済みです」
「素晴らしい。……《律火》、君の線引きは――美しい」
セリアの顔が、ほんの少しだけ赤くなる。
「ありがとうございます」
エリオットは机上の資料に視線を落とし、ふと独白調に声を低くした。
「……しかし、興味深い」
レインは表情を変えない。
「蒼鏡湿地で捕縛された“黒蔦の下請け”――あの件。
まさか、蒼鏡浜の影へ連なっていたとは」
空気が一段、重くなる。
「観察眼の青年――彼が“点”を押さえたことで、我々の線がここまで伸びた……実に興味深い」
エリオットは小さく笑って、取り繕うように頷いた。
「ともあれ。問題はここからです」
エリオットは指を一本立てた。
「選択肢は三つ。
一、住処へ帰す――誘導と監視。
二、経過観察――浜の一部封鎖と巡回強化。
三、討伐――最終手段としての手順確定」
フェリスが即座に追記する。
「加えて“密猟対策”が必要です。人為の痕が出た以上、再発します」
レインが短く言う。
「討伐は今じゃない。接触してない。実力も不明。水上戦は不利」
セリアが真顔で頷いた。
「確認。浜は滑る。泡猫も事故要因。つまり――撤退線が生命線」
「……泡猫を“事故要因”と言い切るの、やめてください」
ミナが小声で言い、セリアが一拍遅れて頷く。
「確認。言い方を調整します」
サラが淡々と補う。
「経過観察だけでは、密猟に情報を与える可能性があります。目撃情報が増えるほど、売られます」
エリオットはゆっくり頷き、決裁者として結論を落とす声になった。
「よろしい。まずは――“帰す”を第一案としましょう。
同時に、経過観察ではなく“封鎖と監視”。浜の線引きと情報の封鎖を行います」
フェリスが頷く。
「掲示は“危険域のみ”に限定し、理由はぼかします。採取導線は迂回で、事務方で回覧を回します」
レインが短く言う。
「次の現場の巡回は夜間にする」
「ええ。責任は私が持ちます。討伐については、条件付きで手順のみ確定する。
――人身被害、居座り、あるいは遺物汚染の兆候が出た場合。
それまでは、手順を整え、帰路を作り、密猟者の線を断つ」
レインが短く頷く。
「了解」
サラが静かに言う。
「議事、記録します」
ミナが小声で付け足す。
「……みんな、怪我しないように」
フィンが軽口で笑い、空気を少しだけ戻した。
「大丈夫大丈夫。……裏、でかいけど」
セリアが真顔で締める。
「確認。格好よく帰還が主」
「それは感想です」
サラが静かに刺す。
エリオットは小さく息を吐き、穏やかな声に戻った。
「実に結構。では――閉会」
レジストリエの表示面が淡く揺れ、蒼鏡浜の区画図に白い線が一本、引かれた。




