浜の守り手
風向きが変わった。
さっきまで頬をなでていたやわらかい風が、浜の上で一度よどみ、沖の方へ吸い込まれていく。
澄晶砂の鏡が、遠くの一角だけ、じわりと暗く沈んだ。
「……?」
スノアは、思わず視線を上げた。
けれど、その違和感を言葉にする前に、別の声が浜を叩いた。
「――全員、いったん集合地点へ戻れ!」
バルト教諭の低い声。
そのすぐ後ろで、灰マントのセドリックが、海の方を射抜くように見ていた。
「ヴァイオラ、潮の模様が違う。……揺れ方が“単独”だ」
「確認したわ」
ヴァイオラは一度だけ頷き、すぐに一年生たちへ向き直る。
「予定を繰り上げます。これから行うのは“訓練”ではなく、“本番のつもりの撤退”です」
浜にざわめきが走った。
「いい? 今の時点で、危険度は“兆候”レベル。
だが、外海から何かが迷い込んでいる可能性がある。
この浜で一年生がやることはひとつ――『見ないで、帰る』」
ミリエルがごくりと唾を飲む気配が隣でした。
スノアは、光靄外套の裾を、無意識に握りしめる。
「隊列はさっき練習した通り。波打ち際側から順に、砂丘側へ下がる。
前列、バルト教諭の号令で二列に転じて」
「前列、聞いたな!」
バルトが、いつもよりも少し大きな声を出す。
「俺より海側に立つな。俺より前に出たら減点どころじゃ済まさん!」
怒鳴り口調に変わったことで、逆に生徒たちの足が揃った。
戦場慣れした声の出し方だ、とスノアはどこか他人事のように思う。
「観測班と記録班は中央列に。救護補助班はリュミエール教諭の周囲に集まれ」
「一年生の皆さん、落ち着いて歩いてくださいね。転ばないように」
リュミエール教諭の声は、いつも通り柔らかかった。
その足元には、すでに簡易結界で囲まれた救護スペースが薄く光っている。
スノアたちも、指示通りに隊列の中央へ移動した。
足元の澄晶砂はまだ静かだ。だが、さっき空を撫でていた風は、明らかに“どこかへ急いでいる”。
(……水の、重さ)
胸の内で、さっき観測した感覚をなぞる。
さざ波より深いところで、水の層が一部だけ“落ちている”気配。
そのときだった。
「うわっ――!」
別の班の列の端で、短い悲鳴が上がる。
ミリエルと同じクラスの男子が、波打ち際ぎりぎりの“景色のいい位置”を選んでしまっていた。
彼の足元の澄晶砂が、じわり、と沈む。
ちょうどその瞬間、沖側で水面が盛り上がった。
――何か大きなものが、通り抜けている。
水まだらの影が、浜からでも分かる速度で横切っていく。
波がそれに引きずられ、いつもより一段深く、浜へ吸い込まれる。
「前列、砂丘側へ二歩、下がれと言っただろうが!」
バルトが吠えるように叫ぶ。
だが、引き波の起こるタイミングは早かった。沈みかけた足場に、少年の脚が取られる。
「――!」
ミリエルが条件反射でそちらへ飛び出しかけた。
「ミリエル、待って!」
スノアの手が先に彼女の手首を掴む。
代わりに自分が一歩、前へ出た。
(間に合え)
足元の砂に魔力を落とす。
氷を作るのではない。水を“固くする”。
引き波で崩れそうになっている層だけを、一瞬だけ凍らせるイメージ。
冷気よりも、“動きを止める”方を優先する。
「――凍れ」
小さく呟き、杖の先で砂を突いた。
ぱき、と鈍い音がして、少年の足元の砂が薄い氷膜をまとった。
引き波が、その上を滑っていく。
だが、力を逃がしきれず、氷膜ごと少しだけ剥がされ――少年の体が、今度は前ではなく横へ持っていかれた。
(間接的には、守れた……けど、このままじゃ)
崩れた澄晶砂の上に、彼の体が倒れ込む。
その先は、そのまま水の落ち込みだ。引き波と戻り波が重なれば、足がつかない。
「伏せろ!」
バルトの叫びに反応するより早く、“別のもの”が動いた。
砂丘の陰から、ふわりと影が飛び出す。
さっき、スノアの外套をくんくんしていた子泡猫だ。それに続いて、もう二匹。さらに、その背後から――一回り大きな影。
母泡猫だった。
半透明のからだが、光靄外套の黒と重なって、ふわりときらめく。
彼女は一度だけスノアの方を見た。丸い瞳に、一瞬だけ“確認”の色が宿る。
次の瞬間、浜の上に、泡の帯が走った。
引き波と浜の境目にそって、分厚い泡の壁が生まれる。
さっきまでただ可愛かった泡が、今はしっかりとした“弾力の膜”に変わっている。
倒れかけた少年の身体が、その泡にぶつかる。
ばふっ、と鈍い音。泡が衝撃を飲み込み、彼を跳ね返すように砂丘側へ押し戻した。
「……っ!」
スノアも、とっさに魔力を乗せた。
泡の内側の水分に、自分の氷の層を薄く重ねる。凍らせるというより、“形が崩れないように支える”程度に。
泡猫たちは、その変化を嫌がらなかった。
むしろ、尾を揃えて泡の縁を撫で、膜の張り具合を調整しているように見える。
沖の方で、水面が一度だけ大きく盛り上がった。
黒い背びれのようなものが、ほんの一瞬だけ顔を出し、すぐにまた沈む。
巨大な何かが、浜のすぐ手前を“通過した”だけ。
それでも、その重さは、波の揺れと空気の匂いに刻まれていた。
「――セドリック!」
「分かっている」
セドリック教諭が、すでに杖を構えていた。
短い詠唱とともに、浜と海の境界に透明な壁が立ち上がる。水の飛沫がぶつかって砕けても、こちら側へはほとんど届かない。
「オルフェウス、魔力の揺れを抑えろ。煽れば寄ってくる」
「了解」
オルフェウス教諭が、静かな低音で術式を重ねる。
浜全体を覆う魔力の“音”が、すっと静まった。
泡のクッションに弾かれた少年は、その場で咳き込みながら起き上がる。
バルトが駆け寄り、肩を掴んだ。
「立てるか」
「は、はいっ……すみません……!」
「謝るのはあとだ。今は、砂丘側へ走れ。――“列の中”へ戻るまでが撤退だ」
少年は顔を紅くしながら、指示された方向へ駆けていった。
✳
浜に、徐々に静けさが戻ってきた。
沖の水面は、もうさっきまでの“重さ”を見せていない。ただ、遠くで波が低くうねっているだけだ。
母泡猫は、泡の帯をすっと薄めると、スノアの方へ近づいてきた。
丸い目が、彼女の胸元――光靄外套と、その下の制服をじっと見る。
「……さっきは、その」
スノアは、自分でも何を言いたいのか分からないまま口を開いた。
「助けて、くれて……ありがとう」
母泡猫は、小さく「ぷるる」と喉を鳴らした。
その頬を、スノアの手の甲に一瞬だけすり寄せる。
ふわ、と柔らかい感触。
母泡猫は満足したように目を細め、子どもたちを呼ぶように短く鳴く。
子泡猫たちが「にゃふ」と返事をし、列の端からこちらをちらちら振り返りながら、砂丘の陰へと消えていった。
✳
「――全員、点呼!」
ヴァイオラの声が、浜に再び秩序を戻す。
名簿を持った上級生が、ひとりひとりの名を確認していく。
「負傷者、軽傷二。打撲と擦り傷のみ。溺水なし」
リュミエール教諭が手短に報告した。
治癒魔法の淡い光が、打撲のあたりを撫でるように走る。
「魔力消耗、目立つのは?」
「氷系統、一名。……スノアさん、ですね」
オルフェウス教諭が視線を向ける。
スノアはびくりと肩を揺らした。
「は、はい……」
「氷の“止め方”は悪くなかった。ただし、あの距離なら杖ではなく足場への事前マーキングでも対応できた。
次は、“最小魔力”で同じ結果を出す方法を考えなさい」
「……はい」
叱責ではなく、課題の提示。
それがかえって重く感じられたが、スノアは素直に頷いた。
「でも、今のはかっこよかったよ!」
ミリエルが、小声で横から囁いてくる。
「“止まれ”って感じで、ぎゅって。氷の床、すごかった」
「……氷は、ちょっとだけ。
本当は、泡の方が――浜の守り手が、ちゃんと見ててくれた」
そんなふうに言うと、ミリエルが目を丸くしてから、にっと笑った。
「じゃあ、スノアは“浜の守り手に選ばれし少女”ってことで!」
「ミリエルさん。そういう勝手な二つ名を広めないように」
ヴァイオラの冷静なツッコミが飛ぶ。
だが、その口元は、わずかにほころんでいた。
✳
撤退手順の確認は、その後、淡々と行われた。
さっきの“ほぼ本番”のおかげで、生徒たちの動きはむしろ洗練されている。
砂丘の陰に移動したあと、バルトが短く講評した。
「今日のは、運がよかった。
あれがもう半刻早い時間帯だったら、澄晶砂の層がもっと脆くて、今の倍は足を取られていた」
彼は、さっき少年が滑りかけた地点を指で示す。
「“景色のいい場所”は、だいたい危ない。
フィールドで写真や記録を撮るときは、自分の足元と、逃げ道があるかどうかを確認してからだ」
「泡猫については、ギルドにも報告する。
今日の件で一つ分かったのは――“浜が本気で荒れる前に、連中は先に動く”ってことだ。
守り手である可能性は、これでだいぶ高くなったな」
バルトの言葉に、生徒たちの表情がわずかに緩む。
「ただし、お前たちが勝手にそれを当てにするのは筋違いだ。
“守ってもらえたら幸運、守られなくても自力で立つ”――それくらいのつもりでいろ」
「……はい!」
声が揃った。
スノアも、喉の奥からじわりと湧いた返事を、そのまま乗せる。
✳
馬車に戻る前、蒼鏡浜を振り返る時間が少しだけ与えられた。
生徒たちは列になり、一定の距離から浜を眺める。
澄晶砂の鏡は、もう朝の“完璧な静けさ”を失っている。
それでも、さっきの騒ぎを飲み込んだとは思えないほど、穏やかに光を返していた。
(……また、来たいな)
スノアは胸の内で呟いた。
馬車へ戻る号令がかかる。
光靄外套の裾が、秋風の中で静かに揺れた。
蒼鏡浜の守り手は、砂丘の陰からその様子を見送っていた。
母泡猫が一度だけ「ぷるる」と鳴き、子どもたちが「にゃふ」と返事をする。
――また来い。
そんな声が、波の音に紛れて、浜全体に薄く溶けていった。
✳
帰りの馬車は、行きのときより少しだけ重かった。
疲労と安堵と、さっきの泡の感触と――いろいろなものが座席の上に積もっている。
揺れが落ち着いたころ、向かいに座るバルト教諭が、腕を組んだままぽつりと言った。
さっき浜で怒鳴っていた声より、半歩だけ柔らかい。
「予定外の“見学”もあったが……撤退手順は、おおむね合格点だ」
ミリエルが小さくガッツポーズをする。
スノアは光靄外套の裾を指先で摘み、膝の上に視線を落としていた。
バルトは一度、窓の外を見た。
馬車は浜を離れ、ゆっくりと森の斜面を登っていくところだ。低い木々のあいだから、遠くに湿地帯の白い靄がかすかにのぞいていた。
「そういえば――」
思い出したような口調で、バルトが続ける。
「この浜の奥、蒼鏡湿地の向こうでな。
つい先日、黒星等級★1の密採取者が捕まったそうだ」
馬車の中の空気が、すこしだけきゅっと締まる。
「黒星……?」
ミリエルが小声で繰り返す。
ギルドの帳簿に載る“裏走者”や犯罪者の危険等級だということくらいは、座学で聞いている。
「ギルドと連携して、君たちの実地演習範囲は少し狭めてある。
今日、浜の手前側しか使わなかったのは、そのせいもある」
バルトの声には、淡い苛立ちが混じっていた。
生徒に向けたものではなく、“どこか遠くの誰か”に向けた種類のそれ。
「……覚えておきなさい」
彼は腕を組み直し、視線を一人ひとりに走らせる。
「自然を壊す者が出れば、君たちが踏める地面も狭くなる。
密採取も、無茶な狩りも、人の身勝手も――全部、“行ける場所”を削っていく」
サラサのペン先が、そこでぴたりと止まった。
何かを書き留めようとして、うまい言葉が見つからなかったのかもしれない。
「ギルドは、その線を少しでも押し戻そうとしている。
学院も、そこに少しは手を貸しているつもりだ」
スノアは、胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。
ギルド。
密採取者。
黒星等級★1――どこかで聞いたような言葉の並び。
(……ノアト、お兄ちゃんも)
あの人も、どこかで“線”を押したり、結び直したりしている。
そんな気がする。どこまでが本当で、どこからが自分の想像なのかは分からないけれど。
バルトは、それ以上は踏み込まなかった。
ただ「今日はそれだけ覚えておけ」とだけ言い、窓の外の森に視線を戻す。
✳
馬車の揺れが少しずつ緩やかになる。
王都の城壁が遠くに見え始め、塔の先端が秋の空を小さく切り取っていた。
「……ねえ、スノア」
ミリエルが、少し声を落として囁く。
「もしさ、その黒星★1、捕まえたのが――」
「ミリエル」
スノアは、首を横に振った。
はっきりと否定するわけでも、肯定するわけでもなく。
「誰が、どうしたかは、きっと“仕事”の話だから。
わたしたちは、今日見たことをちゃんと覚えて、……話す」
「……そっか。うん」
ミリエルはあっさり頷き、すぐに窓の外へ目を向ける。
サラサは、小さな文字で「黒星」「地面が狭くなる」とだけノートに書き足した。
あの湿地の向こうで、誰かが“線”を一本止めてくれたから――自分たちは、今日この浜に立てたのかもしれない。
(帰ったら、ちゃんと話そう)
浜のことも。
泡猫のことも。
撤退の“本番”が、少しだけ怖くて、でも、面白かったことも。
同じ頃。
ブレストンのどこかで、ノアト・アルシエルもまた、ギルドのどこかの机か路地かで、新しい依頼の紙を覗き込んでいるかもしれない。
互いの姿は見えない。声も届かない。
けれど、その足元に広がる“踏める地面”は、どこかで細く繋がっていた。
馬車が、王立の門をくぐる。
秋の空の下で、学院とブレストン、兄と妹の一日が、それぞれの場所で静かに折り返していく。




