スノアの記録
馬車が石畳に乗り上げる感触が伝わり、速度が落ちていく。
王立の東門が近づき、尖塔と旗が秋空の下に戻ってきた。
「到着する。荷物の確認を」
ヴァイオラの声に、生徒たちは半ば反射で腰のポーチと杖に手をやる。
光靄外套の裾を、スノアもそっと握り直した。
門をくぐると同時に、学院内の空気が変わる。
外の冷えた風から、石と本とインクの匂いのする“内側”の空気へ。
「一年生はこのまま中庭に再集合。簡易講評を行う」
馬車から降りたところで、ヴァイオラが振り返った。
スノアたちは列を組み直し、行きと同じ広場へ戻る。
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中庭中央。先ほどと同じ場所に、教師たちが並んだ。
「――まず」
ヴァイオラが一歩前に出る。
「全員が自力で戻ってきたことを、評価します。
撤退時の隊列維持、指示の伝達、負傷者の搬送。初回としては、よくできていました」
ささやかな、けれど確かな“合格”の言葉。
生徒たちの肩が、わずかに緩むのが分かる。
「ただし。
さきほども浜で言いましたが――“景色のいい場所”に甘い罠は多い。
足場の確認を怠った者は、今夜、自分のノートに『何を見落としたのか』を書き出しておくこと。
それが次への準備です」
何人かの視線が、さっき滑りかけた少年に集まる。
少年は顔を赤くしながらも、「はい」とはっきり返事をした。
「戦闘・対応課題について」
バルトが腕を組んだまま、短く補足する。
「今回は“見せるだけ”で終わったが――あのクラスの魔獣を前に、勝手に構えても意味がない。
戦うか、見送るか、退くか。決めるのはいつも“現場の大人”だ。
お前たちの役目は、“決まった方向に素早く動ける”こと」
「はい!」
声が重なる。
「救護・撤退訓練については――」
リュミエールが柔らかく微笑んだ。
「さっきの浜で、わたしのところに“自分から”来てくれた人たち、いましたね。
痛みや違和感を誤魔化さずに、正直に言えたのは、とても大事なことです。
明日以降も、もし何かあったら、早めに来てください。
“我慢できるから我慢する”は、医務室では減点です」
ミリエルが、どきっとしたようにスノアを見る。
「魔力の冷えと、喉の方は――どう?」
リュミエールの視線が、スノアの胸元あたりで止まった。
「氷の魔法を使ったでしょう? あの系統は、慣れないうちは
気道まで一緒に冷やしてしまうことがあるの。違和感は?」
「……少し、冷たい感じはしたけど、今は平気です」
「ならいいわ。ただ、今夜になってから痛むこともあるから――
寮に戻ったら温かいものを少し飲んで、早めに休むこと。
それから、その外套、とてもいいものね。今日は風からずいぶん守ってもらったでしょう」
光靄外套の裾が、褒められたみたいに揺れた」
「……はい」
スノアは小さく頷いた。
「全体として」
最後に、ヴァイオラが締めくくる。
「今日の実地演習は、“運が良かった”面と、“準備が効いた”面が混ざっています。
泡猫は、浜の守り手としてこちらに手を貸してくれた。
ギルドは密採取者を捕まえ、実習範囲を整えてくれた。
だが、その幸運を、君たちが“無駄にしなかった”こともまた事実です」
視線がゆっくりと、列の端から端まで滑っていく。
「今日、蒼鏡浜で見たこと、感じたこと、怖かったこと、面白かったこと。
全部まとめて、“それぞれのことば”で記録しなさい。
それが、次に外へ出るときの、君たち自身の盾になります」
「解散。班ごとに寮へ戻りなさい」
✳
女子寮の廊下は、夕方の光できんいろに染まっていた。
窓の外では、尖塔の影が長く伸びる。遠くで鐘の音が転がった。
スノアの部屋は、二人部屋の片側。
同室の子は今日は別班だったので、まだ戻ってきていないらしい。
扉を閉めると、静けさが降りた。
外套を脱ぎ、ゆっくりとハンガーに掛ける。
光靄外套の布地が、窓から差す夕陽を受けて、うっすらと光を弾いた。
近づいて、そっと鼻先を近づける。
潮の匂い。
砂の匂い。
泡猫の淡い、甘い匂い。
そして何より――家の匂い。
ブレストンの、パンとスープと古い本の匂いが、薄くしみ込んでいる。
(ちゃんと、返さないと)
そう思うのと同時に、胸の奥がきゅっと温かくなる。
“借りている”ということが、今は心強い。
机の上に、ノートとペンを広げる。
ヴァイオラに言われた通り、今日のことを書くためだ。
「蒼鏡浜。
澄晶砂。
泡猫。
大きい何か」
単語を並べていくだけでも、胸の中にまた“凪の一刻”が戻ってくる気がした。
ノートの端に新しい行を作る。
『帰ったら話すこと』
そう書いてから、その下に短く箇条書きを始めた。
・海の色
・澄晶砂が二重の鏡だったこと
・泡猫が、匂いで“友達印”をくれたこと
・大きい何かが通ったけど、みんなでちゃんと戻ったこと
ペン先が止まる。
「……それから」
迷って、それでも一本だけ線を足した。
・“守る側”に、少しだけ足を踏み入れた感じがしたこと
書いてみると、思ったより大げさだった気もする。
けれど、消さずにそのまま残した。
✳
寮の窓の外で、空が少しずつ濃い藍に変わっていく。
尖塔の先に、早い星がひとつだけ瞬いた。
光靄外套が、ハンガーの上で静かに揺れた。
兄から借りている外套と、
今日見た海の色と。
それらを全部抱えたまま、スノア・アルシエルの一日は、ゆっくりと夜へ折り返していく。




