蒼鏡浜の実地演習
王立の東門前には、小ぶりな四輪馬車が三台並んでいた。
学院紋章入りの帆布が張られ、側面には簡易防御陣が薄く光っている。
「一年生、出発班――乗車前点呼!」
ヴァイオラの声が響き、名簿を持った上級生が順に名を読み上げていく。
スノアたち三人は、観測・記録寄りの班として同じ馬車にまとめられていた。
「アルシエル・スノア」
「……はい」
「カンデラ・ミリエル」
「はーい!」
「ブルーミア・サラサ」
「……はい」
三人が返事をすると、前方でヴァイオラがちらとこちらを見た。
そのすぐ横、灰色のマントを羽織ったセドリック教諭が、門の外の通りを一瞥する。視線は鋭いが動きは少ない。
「では、乗車。
蒼鏡浜まではおよそ一刻。馬車の中では、不要な魔法の使用は禁止。聞き取りと事前説明を行います」
ヴァイオラが淡々と告げると、スノアたち一年はぞろぞろと指定された馬車へ乗り込んだ。
✳
馬車の中は、思ったより静かだった。
革の座席に揺れが伝わり、窓の外には王都の石畳が流れていく。
「本日、蒼鏡浜で行う主な課題は三つ」
向かいの席で、ヴァイオラが短く区切りながら説明を続ける。
「一つ。浜の地形と魔力分布の観測・記録。
二つ。低危険度素材の採取と、それに伴う足場・潮位の確認。
三つ。撤退手順の確認――これは、模擬でも本番でも、同じ動きを身につけてもらいます」
サラサのペンが、また忙しく動いた。
ミリエルは窓の外を見ながら、時々うんうん頷いている……が、どこまで聞いているかは怪しい。
「スノアさん」
「……はい」
「あなたの魔力適性は水・氷寄り。
観測課題では、“水の流れの違和感”に注意を向けなさい。数値の前に、感覚の違いを覚えること」
「……分かりました」
名指しで言われ、スノアは少しだけ背筋を伸ばした。
膝の上で、光靄外套の裾を指先で摘む。布地は軽く、指にかかる重みは心地よかった。
「泡猫については?」
ミリエルが遠慮なく手を挙げる。
「近くで見てもいいのかなって」
「許可があれば」
ヴァイオラは即答した。
「一定距離を保って観察する分には構いません。ただし、足場の安全確認を優先。
“踏んでいる地面”が安定してから、“見たいもの”を見ること」
「……はい」
ミリエルの返事に、スノアも小さく合わせる。
窓の外で、石畳が土道に変わった。
王都の城壁を抜けると、空が一気に広くなる。遠くに森の稜線、さらにその先に、かすかな光の帯――海だ。
(海)
スノアは、あらためて胸の内で言葉をなぞった。
まだ見たことのない景色。
今日から、自分の足で立つ場所。
✳
――蒼鏡浜は、朝になると世界の境目を薄くする。
森を抜ける小径を馬車で下りきると、視界が突然開けた。
入り江は風を忘れ、浜の砂は鏡のように青銀に光り、空の薄桃をそのまま映している。
「……きれい」
ミリエルが最初に声を漏らした。そのあとで、サラサの小さな「……すごい」が続く。
スノアは言葉を失っていた。
足を馬車から降ろし、砂に乗せる。ふかふかでも、固くもない、不思議な抵抗。
澄晶砂が薄い膜のように表面を覆い、斜めの陽に目を細めると、距離感がふっと狂う。
「全員、隊列を組んで」
先頭でバルト教諭の低い声が響いた。
濃い茶髪に筋肉質な体躯、胸元には古い傷跡を模した装飾が走っている。足元は、浜用の頑丈なブーツだ。
「まずは地形と潮の確認からいく。
ここは凪の一刻――“波が止まって見える時間帯”を持つ浜だ。だが、止まっているのは見かけだけだ。気を抜くな」
バルトはそう言いながら、砂に簡単な線を描く。
「潮の高さ。引き波の方向。足場の硬さ。
この三つを常に意識しろ。お前たちの魔法より、まずこっちの方が命に直結する」
そう言って、自分のブーツの踵で砂を踏みしめる。
ぎゅ、と鈍い音がして、澄晶砂の鏡が少しだけひび割れ、下の素の砂が覗いた。
「ここ。今はまだ浅い。が――」
バルトは一歩、浜の奥へ進めた。そこは見た目には何も変わらないのに、踏んだ瞬間、靴がじわりと沈む。
「こっちは、“見かけは同じで中身が違う”場所。
澄晶砂が薄い分、波が来た時に崩れやすい。マーキングの魔法を使っていい。記録班は印を残せ」
オルフェウス教諭が横から軽く杖を振ると、足元に小さな光点が灯った。
サラサがすかさず、その位置をノートに記す。
「観測・記録班」
ヴァイオラの視線が、スノアたち三人を捉えた。
「この一帯で、風と光と水の流れを感じなさい。
スノアさんは水の“重さ”、ミリエルさんは風向き、サラサさんは“光の揺れ”を。
あとで、それぞれの言葉で説明してもらうわ」
「はい!」
「……了解」
「う、うん……!」
三人は並んで、少し波打ち際から離れた位置に膝をついた。
スノアは目を閉じ、掌を砂に置く。じんわりと、冷たいものが伝わってくる。
(ここは……動いているけど、静か)
水は押したり引いたりしているのに、表面は滑らかに整えられている。
澄晶砂が、音と魔力に揃って並んでいる――昨日、ノアトから聞いた冒険話を思い出す。
「……波の“音”、上からじゃなくて、下から返ってる」
ぽつりと呟くと、隣でサラサがこくんと頷いた。
「光も、下から返ってきてる。
“水面の鏡”と、“砂の鏡”が二層になってる感じ」
「風は……なんか、途中で曲がってる感じ? まっすぐじゃなくて、浜の真ん中で一回“なでられて”る」
ミリエルなりの言い方に、スノアはくすっと笑った。
「……なでられてる。分かる」
言葉は稚拙でも、感覚は間違っていない。
それを聞いているヴァイオラの目が、ほんの少しだけ和らいだ。
✳
観測と記録の時間がしばらく続いたあと、生徒たちは少し広く散開して浜を歩き始めた。
澄晶砂の採取許可の出た範囲では、小さなスコップと瓶を持った班が、慎重に砂面を削っている。
「……泡猫、まだかな」
ミリエルが、砂丘の方をちらちら見ながらぼやく。
「ミリエル。先生の言ってたこと」
「分かってるって。“足場見てから可愛い方”でしょ?」
返事の内容は妙だが、本質は合っている。
スノアは苦笑し、風下側に出た髪を外套の中へそっと収めた。
(浜の守り手、か)
朝の玄関でノアトが言った冗談めいた言葉を思い出す。
海の方に転べ、と言った兄の顔は、冗談半分、本気半分だった。
「……スノア?」
「ううん、なんでもない」
その時だった。
砂丘の陰から、ふわりと影が増えた。
半透明の、青とも桃ともつかない毛並み。
短い足に、ゼリーのような肉球。極細の繊毛でできた尾。
「あっ……!」
ミリエルが声を上げるより先に、スノアの胸のあたりがきゅっと鳴ったような気がした。
泡猫だ。
子どもが三匹。いや、四匹。いや、見れば見るほど数が揺れる。不思議な“群れ”。
彼らは、最初は少し離れたところで生徒たちを観察していた。
しかし、そのうちの一匹が、ぴたりと動きを止める。
丸い目が、スノアの方を見た。
光靄外套の裾が、浜風に揺れる。
「……?」
その子泡猫は、とてとて……ではなく、ふわ、と滑るように近づいてきた。
砂の上に足跡はほとんど残らない。
「スノア、来た来た来た……!」
「……声、小さく」
自分でも緊張しているのが分かった。喉を絞って囁く。
子泡猫は、スノアのすぐ目の前で止まると――
くん、と外套の裾に鼻先を押し当てた。
ひとつ、ふたつ、確かめるように匂いを嗅ぎ、それから外套の前をぐるりと回る。
胸元近くに顔を寄せ、またくんくんと匂いを辿った。
(……匂い?)
スノアは、息を止めた。
家の匂い。兄の匂い。浜の潮の匂い。それらが混じった布地を、泡猫は丁寧に“読んでいる”。
くるり、と子泡猫が振り返った。
丸い目が、今度は真正面からスノアを見る。
――“知っている”と言いたげな目だった。
「……こんにちは」
スノアは、できるだけ小さな声で挨拶をした。
手を伸ばさない。触ろうともしない。ただ、そこにいることだけを伝える。
子泡猫は、小さく「にゃふ」と鳴いた。
次の瞬間、その尾がふわりと揺れて、小さな泡がひとつ、スノアの胸元に貼りついた。
「わっ」
泡は冷たくない。
服に染み込むでもなく、すぐにぱちんと弾けて消えた。
「今の、なに……? 印、みたいな……」
ミリエルが目を丸くする。
サラサはノートを抱えたまま、真剣に見つめていた。
「“友達印”……とか?」
ミリエルの適当な命名に、スノアは小さく笑った。
「……そうだと、いいな」
子泡猫は満足したのか、「にゃふ」ともう一度鳴いてから、砂丘の方へ跳ねていった。
他の子たちも、その後を追うようにふわふわと浮かんでいく。
少し離れた場所で見ていたバルトが、大きく手を叩いた。
「――そこまで! 泡猫については、今日はここまでの距離で十分だ。
足元を見ろ。今、お前たち、自分の足場を意識してなかっただろう」
「……すみません」
スノアたちは慌てて視線を落とす。
幸い、足元の澄晶砂はまだ安定していた。だが、ほんの少し、波が高くなり始めている。
「凪の一刻は、もう半分以上すぎた。
観測班は記録をまとめろ。採取班は一度集合地点に戻る。――そのあとで、撤退訓練に移る」
バルトの声が、浜にしっかりと響いた。
風向きが、わずかに変わる。
沖の方で、水面の色が一箇所だけ、ほんの少しだけ“重たく”見えた。
その変化に、一番早く気づいたのは、砂丘の上に戻っていた子泡猫だった。
丸い目が海の方を向き、その尾が、警告のように細く揺れる。
(……?)
スノアはまだ、その意味を知らない。
だが、胸元には、さっき弾けた泡の残像と、光靄外套の心強い重みがあった。




