第十章 歌う硝子細工師 詩人エルフの依頼
執務室の窓は閉まっているのに、机上の紙束だけが微かに鳴った。
遺物鑑定課から回ってきた報告書――封蝋を切ったばかりの、新しいインクの匂い。
神託耳飾。
入手経路、神託巫女より譲渡。保有者はノアト・アルシエル。
鑑定不能、反応安定。
RCL-1(暫定)、要観察遺物。
エリオット・アウレリウス支部長は、最後の一行に指を止めた。
神話級由来の品が、低危険度で“静かに”棚に収まる――そんな都合の良い話は、世界には滅多にない。
「……沈黙しているからといって、眠っているとは限らない」
声は低く、独り言というには硬かった。
机の上にあるのは、耳飾ひとつの報告書だけ。けれど彼の視線は、書面の向こう側――“贈り主”に向いている。
「神託は……贈り物の形を借りて、当人の手元に残る。
そして残ったものは、いつか必ず――帳尻を合わせる」
ペン先が紙面の上で止まる。
……出来ることなら、その帳尻が、あの少年ひとりの勘定にならなければいいが。
そこまで考えて、エリオットは小さく息を吐いた。
報告書を閉じかけ――指先が止まる。
扉の向こうで、廊下が騒がしい。
次の瞬間、ノックも待たずに扉が開いた。
「し、支部長! 未鑑定が、また未鑑定が――っ! 今度は“鍋”です! 鍋が増えてます!」
鑑定官が息を切らし、紙束を抱えて飛び込んでくる。
髪は乱れ、眼鏡はずれて、書類は今にも床に散らばりそうだ。
「……落ち着け。まず深呼吸だ」
「む、無理です! 深呼吸すると走り出したくなるんです!」
先月から生活遺物の鍋ばかり持ち込まれている。
エリオットは一瞬だけ頭を抱えた。神託耳飾よりも、現場にとっては鍋の方がよほど切実らしい。
その背後から、フェリスが半歩遅れて入室し、淡々と言った。
「支部長、失礼します。
鑑定官、鍋は“増えた”のではなく“追加搬入”です。用語を正確に」
「そ、そうでした! 追加搬入でした! でも増えているのは事実で――!」
エリオットは一度だけ目を閉じ、さっきまでの“意味深な空気”を、何事もなかったように引き出しへしまい込む。
「……よろしい。鍋から処理する。生活遺物は現場に直結する」
「は、はいっ!」
神託耳飾の報告書は、机の端に静かに伏せられた。
――こうして、神話級の不穏さは、いつもの業務に飲み込まれていった。
✳
――トライアド・カウンシルの翌日、朝。
市場の喧噪がまだ上がりきらない街路を、ノアトとスミレは並んで歩いた。
昨夜の騒ぎの名残りか、門番のおじさんは欠伸混じりに「今日こそは平和だといいな」と笑っている。
ノアトは頬を掻きながら、ふと考え事に沈んだ。
(そういえば……硝子細工師の人は、まだブレストンにいるかな)
隣を歩くスミレは、小さな歩幅でついてくる。
考え込むノアトの横顔を、灰色の左目を隠す前髪の下から、不思議そうに見上げていた。
クロニカの木扉を押し開けると、朝いちばんの受付にフェリスがいた。
磨かれた眼鏡が光り、帳簿を捲る指の動きは相変わらず無駄がない。
「おはようございます、フェリスさん」
「おはようございます、ノアトさん。スミレさんも」
挨拶もそこそこに、ノアトは本題を切り出した。
スミレの手から借りた、子供向けのシャボン玉セットを掲げる。色褪せた小さな吹き輪。
(あの子には、せめて“遊び”くらいは、何も考えずに笑っててほしいし)
「これの、ちゃんとしたやつ。泡をふわっと吹ける道具、作ってもらおうと思って。精密なやつ、どこで頼めばいい?」
フェリスは一瞬だけシャボン玉セットに視線を落とし、すぐに納得したように頷いた。
「市場に出ている詩人エルフの工房が、今なら良いかもしれません。吹きガラスも楽器も一級品。口は……とても軽いですけど」
「よかった。まだいたみたい、行こう」
「……うん」
ノアトはシャボン玉おもちゃをポケットにしまって、スミレと市場へ出た。
朝陽が露店の帆布に跳ね、香草と焼きパンの匂いが混じる。
楽器の音色が細く流れてくる方へ歩くと、遠目にも分かる亜麻色の髪。
小さなステージの前で、青年エルフが客の女性に流暢に微笑みかけていた。
「麗しき方、あなたの瞳は今日の空より――」
「すみません、その、ちょっといいですか」
女性客は助かったとばかりに会釈して去り、エルフは肩をすくめて振り向いた。
「製作かい? それとも楽器を探しに?」
「頼みたい物があって」
ノアトは例の吹き輪を見せる。
「泡を吹ける道具。もっと、こう……精密で、きれいに丸くなるやつが欲しいんだけど」
エルフは吹き輪を手にとると、軽く息を吹きかけて泡を一つ作った。陽光の中で虹色に揺れる。
ちらりと、ノアトの横にいる女の子に視線をやる。
長い黒髪が、朝日に照らされていた。淡い紫のグラデーションが黒に混ざる。
とても綺麗だった。
「ふむ。扱うのは女性かい?」
浮いていた泡が、パチッと弾けた。
「はい。隣にいる女の子です」
スミレは少しだけ肩をすくめ、ノアトの袖の端をつまんだ。
なにかを思いついたのか、エルフの青年に真面目なスイッチが入った。
「それは美しいねぇ。
僕はね、綺麗なものが好きなんだ。硝子も、音も、人の目も――どれもよく光る」
軽口めいた言い回しとは裏腹に、その目は飾る価値のある“素材”を量る職人のそれだった。
エルフは表情を引き締め、真剣な職人の顔に切り替わる。
「作れるよ。ただ、材料が二つ足りない。
上物の“澄晶砂”と、“泡綴草”の抽出液」
「どこにあります?」
「澄晶砂は“蒼鏡浜”。街から北東、風の穏やかな入り江だ。泡綴草は
“蒼鏡湿地”の木陰。朝露の残る時間帯なら採りやすい。僕の名はエリオン、依頼はクロニカに出しておくよ。受けてくれたら、特注で“多孔吹輪”を作ってあげよう。音も立たず、息の圧で泡が“綴じる”やつだ」
「助かります、歌う硝子細工師さん!」
「僕の名はエリオンだよ。
将来、きっと綺麗な女の子になる。今のうちから、その首元に似合うものを覚えさせておかないとね」
冗談めかしながら、彼はスミレの喉元に視線を落とす。
「首元っていうのはね、声と心に一番近い場所なんだ。そこにぶらさげる硝子は、いい加減には選べない」
「……はい、エリオンさん!」
ノアトはぺこりと頭を下げ、足早にギルドへ引き返した。
その後ろで、エリオンは別の客に向き直りながら、ひとりごとのように呟く。
「歌う道具が似合いそうだな――あの子の首元には、特に」
✳
クロニカへ戻ったノアトとスミレは、そのまま受付へ向かった。
「職人、見つけたよ。詩人エルフのエリオンさん。材料が二つ必要で、依頼を出してくれるって」
フェリスは卓上の伝票を一枚取り上げる。早い。もう届いていた。
「“特注吹口用素材採取”。
目的地は二か所――“蒼鏡浜”と“蒼鏡湿地”。
納品は“澄晶砂・上選一袋”“泡綴草の抽出液・小瓶二”。危険予告……“浜に泡猫が出ることがある。見た目は可愛いが、滑るので注意”」
手書きで描かれた獣のような絵が載っていた。
手足が短く、耳があって尻尾も生えている。丸っこい身体から、もこもこと泡がこぼれ落ちている。
「これが泡猫……? 可愛い……!」
ノアトの目が輝く。
スミレも“可愛い”という単語にだけ小さく反応して、こくこくと頷いた。
フェリスはというと……やけに一か所、特に泡猫の絵のところを凝視していた。
「……見た目に騙されて近づきすぎないように。こういう“可愛い系”は、転倒事故の温床ですから」
(……それにしても、かわいい……)
ふと我に返ったフェリスは、ペン先で依頼票の端をとんとんと叩く。
「スミレさんは無理な連戦は避けること。そして――現時点で“登録上の”リーダー、ノアトさん」
「はい。ちゃんと背中で……じゃなくて前で守ります」
「……ノアトさん? あなた、リーダーですよね? 先に試験、受けられては?」
「別にいいかな。面倒……パス。権限譲渡しようか?」
「全く堂々と……」
言われたスミレは、困ったようにノアトを見上げる。
ノアトは慌てて両手を振った。
「いやあ、その……ほら、リーダーって、忙しいから……」
フェリスはジト目でノアトを見て、溜息をひとつ落とした。
「先日、スミレさんはアプレイザでの診察と検査を受け、正式にGR-6と認定されています。
その事実を知るのは、支部長と私、それから立ち会ったごく少数だけですが……」
さらりと言いながら、フェリスは手元の書類にさらさらと何かを書き込む。
「今回の依頼はスミレさんが受領したことにしますね。条件は満たしていますので。……その方が、余計な書類を増やさずに済みます」
「了解。がんばろうな、スミレ」
スミレは胸の前で小さく親指を立て、ノアトに張り切った様子で返事をした。
「……ん」
「なんか最近、親指立てるのにハマってない?」
ノアトはなぜか頭の中で、警備のおっちゃんの姿を思い浮かべた。
『今日も元気してるかい? 嬢ちゃん!』
ピシッと親指をスミレに向けて、まばゆい白い歯がキラリ。
受領印が押される。紙の匂いと朱の色が、始まりの合図みたいに鮮やかだ。
ノアトは立ち上がり、スミレに手を差し出す。
「行こう。風が出る前に浜へ」
スミレは差し出された手を両手で包み、小さく頷く。手首の《エモーションリンク》がかすかにきらめいた。
「……あ、スミレさん。少々お待ちを」
扉へ向かいかけたところで、フェリスが思い出したように声をかける。
引き出しから、小さな六角形の水晶片を一つ取り出した。内部に微かな光の筋が揺れている。
「遺物調査班も使用している写影水晶です。危険のない範囲で結構ですので、現場の地形か、魔物の“姿”を一枚だけ記録してきてください。……報告書に添付しますから」
そう言いながら、フェリスの視線は一瞬だけ、依頼票の泡猫の絵にそれた。
(……泡猫……実物は、もっと可愛いんでしょうね)
スミレはこくりと頷き、そっとそれを受け取る。
フェリスはすぐに表情を引き締め直した。
「写影は一回きりですから、無駄撃ちは禁止です。……本当に危険なものを見かけた時か、資料価値の高い対象に限ってくださいね」
(……できれば、資料価値の高い“泡猫”であってほしいところですが)
フェリスの口元が、誰にも気づかれないほど僅かに緩んだ。
扉を開けると、秋の陽射しが一段明るい。
通りの向こうで、鐘が一度だけ鳴った。
――蒼鏡浜と蒼鏡湿地へ向かう、最初の一歩だった。




