クロニカの騎士 — 検品屋敷編
ライラの工房で必要な道具を揃え、封蝋用の印章も確認したあと――三人は貴族街の外れにある“無人の検品屋敷”へと向かった。
門柱には、色褪せた札が一枚ぶら下がっている。
《検品中》。何年も前のそれが、いまも風に小さく揺れていた。錆びない鉄門は、油が切れているわけでもないのに、滑らかに開く。
「到着。確認、二点――安全確保と、格好よさ」
黒い監査コートの裾を揺らし、セリアが背負い大剣の柄に手を置く。黄色い瞳が正面を射るや、剣縁に白い火がふっと灯った。
白炎は音もなくのび、門内の石畳にまっすぐ“線”を描く。前庭の細い導線石畳に、セリアの白線が重なった。
「ここが安全帯。足音センサーの死角になっている導線です。つまり――ここだけ踏む」
「おぉ…」
ノアトは線上に片足を載せ、軽くバランスを取る。
「細いけど、歩けるね」
スミレは前髪の奥から白い頬をのぞかせ、こくりと頷いた。黒手袋をはめ直すセリアの手つきは、相変わらず無駄がない。
三人は“白線の上だけ”を渡って前庭を抜け、玄関ホールへ。天井は高く、磨かれた床は誰もいないのに不自然なほど清潔だ。
「導光粉を使います」
セリアがライラ印の小瓶を振り、天井へさらりと粉を撒く。粉は空中でほどけ、見えない“光の網”を白く縁取った。
「うわ……」ノアトが思わず見上げる。
「綺麗だけど、これは綺麗なだけじゃないってやつだね」
「光線センサーです。跨げばOK」
セリアは白炎で床にもう一本、緩やかな“安全の弧”を描いた。
「白律斬――簡易誘導」
ノアトは迷いなく、一番狭い“隙間”を選んだ。膝を少し曲げ、すっと身を滑らせる。
「……正解ルート」
セリアの目が丸くなる。
「これが観察眼」
スミレも続く。小柄な体は線の上を音もなく過ぎた。
セリアは最後に、すっと白炎を引いて安全帯を固定すると、三人でホールを抜ける。
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ギャラリー廊下には、静かな絵画が並んでいた。風景、人物、寓意。だがそのどれも、目だけが動く。視線が通ると、カチリと遠いどこかで微かなチャイム音がした。
「視線センサー。見られると鳴る」
セリアが短く説明する。ノアトは訝しげに一枚の風景画へ近づいた。波打つ草原の中で、羊飼いの少年の瞳だけが、ノアトの動きに合わせて滑る。
「……見られてる感じ、雰囲気によってはホラーになるな。イリスは苦手そう」
「スミレさん、試験。泡でベルだけ消音、できますか」
スミレは小さく頷くと、指先でふうっと息を吹く。透明な泡が生まれ、天井の角に漂っていた小さな金属ベルをそっと包んだ。
次の瞬間、ノアトが絵の前で手を振る。――カチリ、の音がしない。
「成功。つまり――秘術“単体消音”」
セリアが感嘆の息を漏らしかけた、その時。
――廊下の奥で、がしゃん。
三人が振り返る。
続けて、かすれた小声。「いってぇ……」
防犯ブザーの澄んだ音が、廊下に二度三度、短く跳ねた。
ノアトが首を傾げる。
「……泥棒?」
「素人のシーフですね。練習中でしょう。よく、います」
セリアは言い切ってから、なぜか自信ありげに指をさした。だが――
「そっちじゃなくて、たぶんこっち」
ノアトが反対側の壁の燭台に触れた。
カタン、と軽い音。壁が滑り、隠し扉が口を開く。
「…………」
セリアは自分が指していた反対方向を見て、それからノアトを見て、ゆっくりと頷いた。
「最初から気づいていた……」
「いや――」
「観察眼」
セリアは言葉を食い気味に断言した。
三人は隠し扉の中へ。短い通路の先は応接と書斎になっていた。壁際には鍵付きの資料箱がいくつも並び、そのひとつが――
「……え?」
ノアトが眉を上げる。
箱が、こちらへ小走りで寄ってきた。
角で一瞬止まり、次の瞬間、ばふっと音を立ててノアトの腰に抱きつく。
「ちょ――!?」
「ノアト……食べられる」
スミレの顔が真剣になる。彼女は泡笛を口元へ持ち上げ――ふと止まった。ゆっくり、泡に小さく声を乗せる。
『大人しくしろ』
泡がぱちんと弾ける瞬間、箱の蓋がぴたりと閉じた。抱きついたまま、まるで命令に従うように、きゅっと身を固める。
ノアトはそっと箱を外し、床に置いた。箱は――じっとしている。
「なにこの箱……」
ノアトが目を瞬く。
「これは……魔法ではなく、魔泡……!? 神秘だ……」
セリアは瞳を輝かせ、黒革のメモホルダーに走り書きを始めた。
奥の方で、また別の物音。「うわっ」「ピンポン」
どうやら素人シーフは、まだ練習を続けているらしい。
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書斎を抜けると、地下へ降りる階段。空気がわずかに冷え、弱い瘴気の気配が肺に刺さる。
格子の内は、棚が整然と並ぶ地下保管庫だった。
そこだけ黒い布が掛けられ、封の切られていない箱が一つ。セリアが封蝋痕を確かめ、慎重に蓋を開ける。
中には、黒い布製の口元マスク。目の細かいフィルターが何層にも重ねられ、耳紐はしなやかな黒。見た目は実直で、無駄がない。
「被検体、黒マスク。封蝋回収します」
セリアは白炎で自らの印章を温め、封蝋刻を打つ。袋の口を閉じ、印の蝋が艶を帯びて固まると、小さく息をついた。
「……合格、見た目」
彼女は珍しく素直に笑った。
三人は階段を引き返す。帰り際、廊下の向こうを黒ずくめの小柄な影が全力疾走で横切り、遠くで「ピンポンピンポン」と軽やかなブザーを連打させていた。
セリアは一度だけそちらへ指を伸ばして――やはり逆方向の絵画を指し、きっぱり言った。
「無害。訓練中」
ノアトとスミレは、顔を見合わせて笑う。
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ギルドに戻ると、フェリスがカウンターの内側で出迎えた。
セリアは報告書の書式を迷わず取り出し、簡潔に口頭報告から始める。
「検品屋敷、低危険度。光線網は導光粉で可視化、白律斬で安全帯を引き、通過。視線センサーは単体消音で無効化。資料箱ミミックは抱きつき型、泡による沈静化を確認。地下保管庫にて、装飾品型遺物黒マスクを確保、封蝋回収済み」
フェリスは手早くメモを取り、頷く。
「よく戻りました。……黒マスク、効果検証を」
セリアは封蝋袋を開き、黒いマスクを取り出した。
「試験。名称は未定。装着」
まずは自分で耳にかけ、軽く口を開く。
「――――」
声帯は震えているのに、音が出ない。
セリアは一度目を瞬かせ、マスクを外した。
「消音。話しても声が漏れない。人以外にも使用可――推定」
フェリスが引き出しから訓練用の笛を出す。
セリアはマスクで笛の吹き口を覆い、ノアトが吹いてみる。空気は通るが、音はまったく鳴らない。
「確認。断声機能」
セリアが静かに頷く。マスクを見つめ、少しだけ口角を上げた。
「合格、見た目。しかし、話せないのは不便。――よって譲渡する」
彼女は黒マスクを両手で持ち、スミレの前に差し出した。
「似合うは重要。あなたに、似合う」
スミレは目を瞬き、そっと受け取る。
耳にかけてみると、黒が前髪と馴染み、白い頬が際立った。
マスクを指で顎にズラし、スミレはお礼を言う。
「……ありがとう」
フェリスは眼鏡を押し上げ、事務的にまとめた。
「敵に口元を読まれません。奇襲前の移動、接近、不意をつく場面で有用です。ただし、スミレさん――言霊を使うときは外すこと。良いですね?」
スミレは真面目に頷く。
「……うん」
「名称を決めます」
セリアがメモにさらさらとペンを走らせる。
「断声黒布」
フェリスは小さく笑った。
「命名、受理します。断声黒布」
報告はそのまま文書化され、受付印が落ちる音がカウンターに響いた。
紙片の端には、セリアの几帳面な文字が並ぶ。
・現場で泡による単体沈静を確認。
・術式ではなく魔泡(仮称)。
・観察眼による最短動線確保。
・断声黒布の運用:隠密・不意打ち時。
カウンターの外、通りがかりの口の軽い警備兵が報告書の端をちらりと見て、にやりと笑う。
「お、魔泡使いか。すごいなぁ」
その一言が、夕方の酒場で、夜には市場で、翌朝には遠くの工房で――噂になっていくのに、そう時間はかからなかった。




