第十一章 クロニカの騎士
朝のブレストン支部は、いつも通りざわめいていた。
冒険者たちの談笑、依頼票の紙音、遠くで鳴る鍛冶の槌。フェリス・ハートリーは眼鏡を人差し指で持ち上げ、カウンターの端に積んだ申請書に受付印を淡々と落としていく。
「――おはようございます。現場調査班、セリア・コードウェル、参りました」
澄んだ声に顔を上げると、黒がよく似合う少女がきっちり背筋を伸ばして立っていた。
紺の監査コート、膝丈の黒スカート。胸元の黒革メモホルダーには金の細いペンが差してある。黒の長髪は大きな黒いリボンでまとめられ、黄色い瞳がまっすぐにこちらを見ていた。背中には、どこからどう見ても扱いづらそうな黒い大剣。
フェリスは内心でため息をひとつだけつく。今日も元気に重そうね、セリア。
「おはようございます。“《律火》”のセリアさん。……その大剣、やはり今日も」
「はい。理由は一点、格好いいから」
即答。迷いゼロ。
カウンターの内側で、フェリスの手が小さく止まる。これ以上ないほど単純明快なのに、反論の糸口が見つからない回答だ。
(……記録上は“士気上昇効果(推定)”にしておこう)
事務の思考が自動でまとめに入るあたりが、フェリスという女の実務力である。
「それで本題です。確認、二点」
セリアは黒いリボンを揺らし、手元の紙を差し出した。
「一点目、依頼申請。二点目、調査許可の可否」
フェリスは受け取って目を通す。走り書きの少ない、むしろ几帳面すぎるほどの申請文だ。
『黒いマスクを見つけました。
マスクと言っても仮面ではなく、口元を覆うマスクです。
危険はありません。
効果が分かりませんので、遺物調査に行かせてください。
依頼者 セリア・コードウェル』
“依頼者”の欄を見た瞬間、フェリスはまた内心でため息をつく。
(黒いものが好きだから、ただ行きたいだけ――でしょうね、これは)
だがセリアはGR-4。現場調査の基礎は叩き込まれており、戦闘も堅実。放っておいても大事には至らない、その実績もフェリスは知っている。
「場所は?」
「貴族街の外れの無人屋敷。長年使用されていないと聞きました。つまり――低危険度」
「“低危険度”の根拠は?」
「入口に貼られた管理札が白紙でした。なるほど、危険なら赤や黄が使われるはず。そういうことか」
(その判断、半分は合っていて半分は危ない)
セリアはよく観ている。だが、いつも最後の一枚――裏面の注意書きや“例外”の一文まで視線が届かない。フェリスは視線を紙から少女へ戻す。
「……許可します。ただし単独行動は禁止。装備と道具を整え、連絡手段を確保し、まずライラの工房で必要品を揃えてから。いいですね?」
「了解。迅速に準備します」
セリアの黄色い瞳が少しだけ輝く。期待で背筋がさらに伸び、黒い大剣の影が床に濃く落ちた。
フェリスは受付印をコトリと落とし、申請を正式に受理する。
「――ああ、それとセリア」
「はい」
「仮にそれが装飾品型の遺物だった場合、効果判明までは絶対に口元に装着しないこと。検体は袋詰め、封蝋。手順はわかっていますね?」
「封蝋刻、つまり――安全管理。承知しました」
よし、とフェリスは頷く。
セリアは踵を返し、黒いコートの裾を翻して歩き出す。
見送った後、眼鏡のブリッジを押し上げ、ふうと短く息を吐く。
(単独は避けさせた。あとは――誰か、目を配れる人がいれば理想だけれど)
そんなことを考えながら、フェリスは次の申請書に手を伸ばした。
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昼前、ノアト・アルシエルは、いつもの歩幅でギルド《クロニカ》の扉を押した。
スミレが一歩後ろを歩き、その前髪の影から静かな視線だけが覗く。二人分の靴音が石床に乾いて響いた。
重い金属音が一つ、近くを横切っていく。
黒い監査コート、黒い大剣。漆黒を纏った誰かが、すれ違いざまに短く会釈した。リボンも黒い。ここまで徹底すると清々しい。
ノアトは「あ、おはよう」と自然に返し、通り過ぎる。
隣を見ると、スミレが珍しく口を半開きにしている。黒い影に目を奪われていたらしい。
「……格好いい、お姉さん」
ぽつり。正直な感想。
ノアトは頷いた。
「だね。――フェリスのとこ行こっか」
受付では、フェリスがちょうど印を片付けていた。
ノアトがカウンターに肘をつき、いつもの調子で声をかける。
「フェリス、なんか面白い遺物、来てない?」
フェリスは眼鏡を押し上げ、ノアトの肘を視線だけで払い落とした。
「あいにく面白い遺物はありません。それと、ノアトさんは難しい依頼を受けられません」
「スミレも一緒だよ? 二人なら――」
「二人でも、です。規律は規律」
言い切る口調に、スミレが小さく肩をすくめる。ノアトは苦笑して肘を引っ込めた。
「さっきの黒い騎士さん、誰なの?」
ふと思い出し、ノアトは尋ねる。
「《律火》のセリア・コードウェル。ギルドの現場調査班、見習い騎士。冒険者ランクはGR-4。
……ただ、今日は単独申請で、少し心配です」
フェリスの視線は自然と受理済みの申請書に落ちる。ノアトは首を傾げる。
「単独で、どこに?」
「貴族街の外れの無人屋敷。長年使われていません。戦闘は……おそらく起きないでしょうけれど、セリアは時々下調べを省略しますから」
「省略、ね」
ノアトは曖昧に笑い、視線を横へ流す。そこにいるスミレと目が合う。
「…?」
スミレは飴を口に含みながら、視線を受けて首を傾げる。
――そういえば、さっきフェリスが紙に視線を落としたとき“黒いマスク”って単語が見えたような、見えないような。
「フェリス。セリアさんの依頼って、黒いマスクって書いてなかった?」
フェリスはきょとんとして、次いで観念したように頷いた。
「装飾品型の可能性が高い口元用のマスクらしいですね。効果不明、危険性不明。彼女は“危険はありません”と書いていましたが、期待は禁物です」
「なるほど。口元を覆える遺物…か」
ノアトはもう一度、スミレを見る。
ただし目線は主に口元。
彼女はさっきから、どこか落ち着かない様子で口もとに手を当てていた。ノアトの目線とぶつかると、更に指先で口元を隠す。
(口元、か……)
彼女はノアトに見られているのを自覚して、前髪の奥で頬を染めた。かすかに目をそらし、手が口元に留まったまま動かない。
「口元を隠せるし、保湿もできる。スミレに、合うかも」
ぽつりと出た言葉に、スミレの肩がわずかに跳ねる。
フェリスがすかさず事務的に続けた。
「不意を打つ意味でも有効かもしれません。口元の動きが読めなくなりますから。……ただ、スミレさんは前髪が長いので、顔のほとんどが隠れてしまいますけど」
二人の視線が正面から降り注ぐ。
スミレは耐えきれず、俯いてしまった。前髪がさらりと落ち、白い頬まで影が覆う。
「ノアトさん」
フェリスが咳払いをひとつ。
「あまり女の子の口元を見てはダメですよ」
「え?あっ、ごめん」
スミレは余計に俯いてしまい、耳まで赤くなっている。
フェリスは眼鏡のブリッジを押し上げ、事務口調に戻った。
「――心配なら、様子を見に行ってください。ただし、依頼は受けられません。あくまで見学と連絡。いいですね?」
ノアトは表情を引き締めた。
「了解。見に行ってくる。何かあったらすぐ戻るよ」
「セリアはまずライラの工房へ向かいました。道具の準備をすると言っていましたから。二人もそこから行くといいでしょう」
「ライラ……あの元気な子の店?」
ノアトの脳内に、赤髪で後ろ髪を束ね、客が来れば「いらっしゃーい!」と伸びやかに叫ぶ、男前な見習い店主の笑顔が浮かぶ。
フェリスは小さく頷く。
「そう、そのライラです。変な道具をたまに仕入れるので、セリアと相性が良いのか悪いのか……」
ノアトはスミレの方へ向き直る。
「行こう、スミレ」
スミレは小さく頷いた。前髪の陰から上目づかいが覗く。
「……うん」
そしてさらに二人の背中を見送った。
フェリスは「全く……」とだけ呟いて、カウンター脇の書類を揃えた。
ギルドの重い扉が開き、昼の光が差し込んだ。
街路にはパン屋の香り、遠くでカモメが鳴き、路地の向こうからは鍛冶の火花がちらりと見えた。
「……**こんなのがあるよ!**って、言うかな…?」
スミレが小さく真似をする。ノアトは笑った。
「言うね、たぶん」
二人は石畳を踏み、赤髪の見習い工房主が待つ通りへと歩いていく。
背後で、ギルドの扉が静かに閉まった。
――そして、黒を好む見習い騎士《律火》は、その少し先で道具店の扉を押し、威勢の良い声を迎えているはずだった。
*
ブレストンの市場通りから一本外れた路地に、小さな看板がぶら下がっている。
《ライラ工房》――ギルド御用達の魔道具店だ。
扉を押した瞬間、金属と油と香草が混ざったような、不思議に落ち着く匂いが鼻をくすぐる。
「いらっしゃーい!」
カウンター奥から、ぱっと花が咲くみたいな声。
赤髪を後ろでざっくり束ねた少女が、油染みのついたエプロン姿で顔を出した。
明るい茶色の瞳が、黒い監査コートと大剣を一瞬で捉える。
「お、クロニカの黒騎士さんじゃん。《律火》の!」
「現場調査班、セリア・コードウェル。確認、二点」
セリアは背筋を伸ばし、胸元の黒革メモホルダーを軽く叩く。
「一点目、検品屋敷での安全確保用道具の購入。二点目、黒いマスク遺物の検体回収準備」
「はいはい、今日もカタいねぇ。なるほど、安全と黒マスクね」
ライラはカウンターから身を乗り出し、セリアの背中の大剣をちらりと見た。
「その大剣、やっぱ重そうだよね。なんでそんなの使ってんの?」
セリアは即答した。
「格好いいから」
「……そっか!」
ライラはあっさり納得して笑う。
「理由、シンプルで好き。じゃ、格好よくて安全なやつ、こんなのがあるよ!」
カウンターの下をごそごそと漁り、いくつかの品をどさっと並べる。
「まず、導光粉。光線センサーを浮かび上がらせる粉。撒くだけでほら、このとおり――」
小瓶を軽く振ると、店内のランプの光を受けて粉がきらきらと舞い、棚の角に見えない筋を一瞬だけ白く縁取った。
「次に、密封証拠袋。遺物の一時保管用。匂いも瘴気も通しにくい優れもの!」
透明な袋をひらひら振ってみせる。
「あとこれ、封蝋セット。クロニカ印に合わせた汎用刻印。白炎で温めれば、セリアちゃんでも綺麗に押せるはず」
「つまり――導光粉で線を見て、密封袋で検体を守り、封蝋で正式回収。……必要十分。採用」
セリアは一つ一つを手に取り、重量と質感を確かめてから頷く。
ライラはさらに、黒い布製の手袋を取り出した。
「で、滑り止めの黒手袋。大剣、素手で握ってると絶対そのうちすっぽ抜けるからね。これはどうかな?」
「……黒」
セリアの黄色い瞳が一瞬だけきらりと光る。
ライラはセリアの手を取って、その場で手袋をはめさせる。黒地に黒いコート、黒い大剣。
遠目には、もはや“黒しか見えない”。
「格好いい。…採用」
短い言葉に、セリアの満足が凝縮されていた。
「で、件の黒いマスクってのは?」
ライラがカウンターに肘をつき、興味深そうに身を乗り出す。
「貴族街外れの検品用屋敷。廃屋化していますが、内部は綺麗。そこで黒いマスクを見ました。仮面ではなく、口元を覆うタイプ。危険は不明、でも黒です」
「黒です、って情報が一番強いなぁ」
ライラは笑いながら、引き出しのさらに奥を探る。
「マスク遺物かあ。もし瘴気系なら、フィルター用の布も持って行きなよ。黒で三層構造のやつ。外見もいいし、検証用にもなるし」
黒い布の束をぽんと置く。
「どうかな?サンプルとして持ってって、現場の黒マスクと比べるんだ」
「なるほど。比較検証……つまり、美しさの採点基準にもなる。採用」
セリアが真顔で言うと、ライラは吹き出した。
「美しさで採点するの、騎士の仕事だったっけ?」
「格好よさは、士気に直結」
「そういうことか。納得しちゃった自分が悔しい」
二人のやり取りが一段落したタイミングで、店の扉ががらりと開いた。
「いらっしゃーい!」
ライラの声が自動的に跳ねる。
入ってきたのは、ゆるい笑みを浮かべた青年と、その少し後ろで前髪の影から様子を窺っている少女。
ノアトと、スミレだ。
「お、ノアトじゃん。今日は何、面白いもの探し?」
「うん、そんなとこ。あと、黒い騎士さんの様子見に」
ノアトは店内を見回し、黒尽くめのセリアに目を留める。さっきギルドですれ違った姿だ。
「さっきぶり。……準備、してたんだ」
「確認、三点に増えました」
セリアが真面目な顔で言う。
「一点目、安全確保。二点目、黒マスク検体回収。三点目、同行者の確認」
「いつ増えたの、その三点目」
ノアトが苦笑すると、ライラがカウンター越しに身を乗り出した。
「ノアト、ノアト。今日はこんなのがあるよ!」
彼女は楽しそうに、小さな瓶を一本取り出す。
中身は淡い緑色の液体。
「即効回復瓶!飲んだらすぐ体が軽くなるけど――数分後にどっと疲れるやつ!」
「それ、実質ツケ払いじゃない?使いどころ難しそうだなぁ」
ノアトが即ツッコミを入れる。
ライラが胸を張って説明し、セリアの方を見て勧める。
「でもでも、ここぞって場面で“無茶できる”って意味では優秀でしょ?セリアちゃんどう?」
「なるほど。一時的な出力強化。つまり――“格好よく決めたい瞬間”用。一本だけ、予備として」
「買うんだ……」
ノアトとライラが同時に心の中で突っ込んだ。
そのとき、ライラがふとスミレに目を向ける。
前髪に隠れた赤みがかった瞳と、控えめに結んだ髪。どこか儚げな雰囲気。
「スミレちゃん、ちょっとこっち来て」
「……?」
おずおずとカウンターに近づくスミレに、ライラは黒い布マスク――先ほど取り出した比較用フィルター布を、さっと持ち上げた。
「これどうかな? 検証用の黒マスク。遺物じゃないけど、雰囲気は近いと思うんだよね」
「えっ、あの……」
「ちょっとだけ。はい、耳ひっかけて――」
ライラは手慣れた動きでスミレの耳に紐をかけ、口元を黒で覆う。
前髪、黒布、白い頬。構図が一気に整う。
「いいね、似合ってる!」
ライラの声に、スミレの耳まで赤く染まる。
「……そう、ですか?」
ノアトは数歩離れて、まじまじと眺めた。
「うん。似合ってるね。なんか、秘密の魔術師って感じ」
「……」
スミレは目を伏せ、指先でマスクの端をきゅっと摘んだ。
少し照れているのが、前髪越しにも伝わる。
セリアが一歩前に出る。
「観察結果。黒、似合う。将来の黒マスク候補者として、有望」
道具が一通り揃ったところで、カウンターの上には小さな山ができていた。
導光粉、密封証拠袋、封蝋セット、滑り止め黒手袋、比較用の黒マスク布、即効回復瓶一本。
ノアトはその山を見て、肩をすくめる。
「あれ、以外と多いな…」
「よーし、準備完了!検品屋敷だっけ?光線センサーとかミミックとか、いかにもって感じのとこだから、気をつけてね」
セリアが頷く。
「三点目に“ちゃんと帰ってくる”も足しておいて」
ライラが苦笑混じりに言うと、セリアは「そういうことか」と真面目にメモに書き足した。
扉の前で、ノアトがライラに手を振る。
「じゃ、また後で結果報告に来るよ。面白い遺物が本物だったら、ライラにも見せたいし」
「楽しみにしとく!またきてねー!」
軽快な声に見送られながら、三人は工房を後にした。
黒を纏った見習い騎士と、観察眼の少年と、前髪の奥で泡を温める少女。
これから向かうのは、線引きだらけの静かな屋敷――そして、“黒いマスク”の待つ検品の現場だった。




