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第九章 神託の影



 朝の光が、薄い幕のように家の窓を透っていた。

 ノアトは身を起こすと、机に置いていた羊皮紙をそっと確かめる。そこには、この前――偶然の会話から生まれた新設パーティ名が、フェリスの筆致で記されている。


 偶然の誉れ《アーナー・オブラック》。


 胸の内に小さな火が灯る。誰かに自慢したいような、こそばゆいような――そして、まず最初に驚かせたい顔は、決まってる。


「スミレ。ギルド、行こっか。朝の空気、気持ちいいよ」


 リビングの椅子にちょこんと座って、湯気の消えたスープを両手で包む少女が顔を上げる。青みを帯びた黒髪が光にほどけ、左右で色の違う瞳が瞬いた。


「……うん」


 いつも通りの、短い返事。

ノアトはまるで何でもない散歩のふうを装って、玄関を出た。


 道すがら、二人は市場へ寄り道する。早朝のブレストンはいつも賑やかだ。パン屋の釜から甘い香りが溢れ、果物の山に朝露が光り、物売りの声が石畳に跳ねる。


「朝ごはん、たべる?」

「……甘いの」


「なら、はちみつパンだね」


 ノアトが焼き立てのそれを二つ受け取ると、スミレは紙袋に鼻先を寄せて、ふぅ、と小さく息を漏らした。彼女の頬が、珍しく緩む。


 ――その時だった。


 市場の奥、露店と露店の隙間に、空気の縫い目が生じた。目に見えないはずの境界が、きしりと音を立てて開く。

 人混みの向こうで、黒い外套の男が片膝をつき、石畳に奇妙な碑石を押し当てている。碑面に刻まれた古代の紋は、青白い光を帯びて、見る者の視界を勝手に引き寄せる。


ノアトは光る方を見て「なんかしてるあそこ」と、屈む男を眺める。

「……?」と振り向く視線の先、スミレは本能的になぜか恐怖を感じた。


 石畳が薄く波打ち、市場の風景が折り畳まれていく。露店の天幕が凍った水面のように裏返り、神殿の柱がまるで生えるように周囲へ拡張していく。

市場にいた市民と店主は一目散に逃げていった。


 外套の男が碑石の上に掌を置き、低く呟いた。


神殿投影碑テンプルキャスト――起動」


 瞬間、空間が裏返った。


神殿のような建物、入口が目の前に誕生――顕現した。



「はえ〜……すっごいねぇ、この建物。まるで神様が居そうな――」

立派な建造物を見上げて感心するように言うノアト。


危険だと悟ったスミレがノアトを連れて離れようと手を伸ばす。

ノアトの手を掴む――つもりだった。指先は空を切った。ノアトが視界から消えた。


     ◇


 転移の直後。足下は黒曜石の床、周囲は水のように澄んだ蒼。天井も壁もないのに、ここは間違いなく境内だった。風の音が消え、代わりに祈りの残響が空間の隅々に染み込んでいる。


「あれ…市場は?はちみつパンは…無事か」


 手に残ったぬくもりを確かめ、安堵の息を吐く。外套の男――市場で碑石を押していた人物が、こちらにちらりと視線を投げた。右頬に古い傷。目が乾いている。


「誰だ、てめぇ。……まぁいい。神殿を呼び出したのは俺だ。巫女を目覚めさせて、願いを叶えてもらう」


「巫女?なに願うの?」


「黙ってろ。……出てこい、神話級」


 黒曜石の床の中心に、水面のような渦が開く。そこから、音もなく彼女が現れた。

 銀髪を高く結い、青の瞳を持つ巫女。衣は雫のように淡く、足首で揺れる鈴の音が、静かな神域に輪を描く。


「用は、何か?」


 透き通る声。だが、冷ややかでもある。外套の男は、胸を反らして笑った。


「力だ。金だ。永遠の加護だ。……全部よこせ。俺は――」


 言葉はそこまでだった。

 巫女の瞳がほんのわずか細められ、青が一段濃くなった。その視線が男の欲を秤にかけ、軽いと判じたのがわかった。


「汚れた願いは、神殿を濁す」


「は、はぁ?」


 空間が一滴、垂れた。

 世界の端をひと撫でして消すように、男は痕跡ごと掻き消えた。

 黒い外套も、碑石も、足跡すら残らなかった。あるはずの質量が消えた空間に、遅れて風の穴が鳴る。


 ノアトは、はちみつパンを落とさないように、指先に力を込めた。


(……一瞬で、消えた? 魔法とか、そういう次元じゃないよねこれ。やば)


「あなたは?」


「敵じゃないよ」


 ノアトは両手をゆっくり挙げ、警戒させないよう、一歩だけ近づく。巫女の青が、揺れない。

 彼は躊躇した末に、紙袋から一つ取り出して差し出した。


「朝ごはん、食べる? はちみつパン。市場の、うまいお店の出来たて」


 巫女は目を瞬かせ、掌を広げる。ノアトはそっと載せる。

 巫女は一口かじり、微かに、ほんの微かに、口元がほどけた。


「……甘い。やさしい」


「でしょ。朝の市場、はちみつのいい匂いがする時は、これ食べるといいよ」


 神殿の空気が、いくぶん柔らぐ。

 巫女はもう一口食べると、ノアトをまっすぐ見た。


「名は?」


「ノアト・アルシエル。えっと……新人で、なんというか冒険者で―」


 彼が言いよどむと、巫女の視線だけが軽く笑った。


「強くは、ない。でも良い目をしている」


 ノアトは困ったように頬を掻いた。

「警備のおじさんも似たようなこと言ってるね…。

あの、さっきの人は―」


「己の欲に呑まれた。リナゲイト。呼び出しに用いた碑は禁制。街の外では――守りが、ほどける」


 巫女の視線が、神殿の外側――世界の膜の向こうを指す。

 ノアトは反射的に振り向いた。ブレストンの空に、神殿の影が透けて見える。そこから、守護の天使と水霊が、外界へ零れていた。白金の翼が陽光を切り、半透明の獣が屋根の上を駆ける。


     ◇


 ブレストンは、たちまち大騒ぎになった。

 鐘が鳴り、冒険者が武器を取り、騎士団の馬が石畳を打つ。支部の受付で、フェリスは一度だけ深く息を吐いて呼吸を整える。


「黒星等級、五――裏走者リナゲイト……」


 彼女は手際よく書類を束ね、支部長室に滑り込ませる。エリオットは眼鏡を外し、額を指で押さえた。


「神殿投影……なんてものを。王都へ連絡。**天地万雷てんちばんらい**にも――いや、もうじきに来る」


 雷鳴が、遠くで吠えた。

 次の瞬間、四人の影が天幕から降りてきた。名乗りはない。

 一人は大地を踏んだ足跡に砂を散らし、

 一人は空気を熱で燃やし、焔の刃を重ね、

 一人は指先を鳴らして空に細い雷の縫い目を走らせ、

 一人は静かに、鞄の紐を解いていく。


 白金の翼の天使を、雷が貫く。

 半透明の水獣を、石柱の囲いが絡め取る。

 倒壊した屋根の下から人が救い出され、まばゆい光が遠目に揺れる。

上空で光の刃が守護の矢を叩き落としていた。


 王都の紋章を付けた軽装の若者が壁影から跳び出し、泥を蹴って別の路地へ駆ける。煌めくその背は、どこか王子の薫りがする。


「ここは任せました。妹と反対側に行きます」

「あぁ、被害報告は後だ。今は、守るぞ!」


 誰かが叫び、誰かが吠え、誰もが動いた。


     ◇


「……外、騒がしいね」


「呼び出したのは、彼。責は、彼。あなたではない」


 巫女が静かに告げる。ノアトは緊張を飲み下し、それでも微笑を崩さなかった。


「敵対するつもりは、ほんとにない。市場でさ、はちみつパン買って……ギルドに行く予定だったんだ。サプライズがあって」


「サプライズ?」


「内緒。うまくいったら、誰かがちょっと笑うやつ」


 巫女の瞳に、微かな波紋が走る。


「ノアト――勝負を」


「えっ」


「食後は、身体を動かすとよい。あなたに魔力を貸す。私の水と、あなたの……氷。試す」


 ノアトは瞬きをした。

 自分が氷を、と言いかけ、言葉を飲む。胸の奥に、古い記憶の光がかすめる。幼い頃、誰にも見せなかった、短い季節のような光。


「……満足してくれたら、帰してくれる?」


「うん」


「わかった。じゃあ、よろしく」


 巫女が指をすっと伸ばす。ノアトの胸元に触れず、けれど確かに届く距離。

 水が、入ってきた。冷たく、澄んで、ひどく優しい圧力。

 ノアトの視界が、少しだけ高くなる。世界の縁が輪郭を持ち、音が立体になる。


(借り物だ。昂ぶるな。見る。測る。足場、距離、彼我の間合い――)


「始めよう」


 巫女が掌を返す。床が波打ち、水の鞭が走った。

 ノアトは反射で左に滑る。氷盾が腕の外側に走り、鞭の先端を鈍らせる。

 巫女の口元が、わずかに上がった。


「よい反応」


 次は氷槍。ノアトは指を鳴らし、床の水分を掬いあげて、三本の槍に凝らす。投げる、ではない。滑らせて走らせる。

 巫女は手首をひと振り――水輪が槍先を包み、まるで花びらのように解体していった。


(通らないか。これが食後の、運動って…)


 巫女の足元に水が集まる。地面から湧いた水柱が二重螺旋を描き、彼女の周囲に天蓋を作る。

 ノアトは呼吸を整え、己の足元へ視線を落とす。黒曜の床。微細な亀裂。水が溜まりやすい凹み――


「――」


 彼は一歩踏み出し、氷の剣を手に形作った。剣というより、棒に近い。巫女の水輪が触れればすぐ融ける、はかない刃。

 それでも、構えた。


 巫女の視界が、細くなる。

 水鞭が再び走り――ノアトは床を叩いた。亀裂に流れていた水が跳ね、瞬間凍結する。

 巫女の膝元が、半歩だけ止まった。

 ノアトはそこに距離を入れる。横へ滑り、剣の柄で水輪の縁を叩く。氷と水の境界に小さな乱流が生じ、巫女の視線がほんのわずか、愉快そうに揺れた。


 しかし、やはり防戦が多い。魔力の厚みが違いすぎる。

 ノアトは肩で息をつき、剣を捨てた。両掌を胸の前に重ねる。


「……一つだけ、とっておきがある」


 空気が温度を失う。神殿の光が一段階淡くなり、音が遠のく。

 半径百メートルに満たない世界の呼吸が、氷の静寂に呑まれていく。

 床の水分、壁の見えない霧、天蓋の湿り――それらが同時に結晶の構えを取った。


氷霧爆発ミスト・エクスプロージョン――」


 静かな詠唱。

 次の瞬間、白が爆ぜた。

 氷の粉塵が、空間の四方に舞う。無数の微結晶が巫女の水輪へ降り注ぎ、互いの形を削り合い、融け合い、再結晶する。

 巫女の瞼が、初めて、少し驚きに開いた。水輪のうち外で層が入れ替わり、彼女の頬に冷気が触れる。


 ――と、そこで。

 巫女が指を軽く弾いた。

 ノアトの氷が霧になってほどける。彼の足元の凍結が静かに溶け、呼吸が正常に戻る。


「……満足」


 巫女は短く言い、手を胸元へと運んだ。耳に揺れる小さな飾りを一つ外す。

 それは控えめな白金の輪に、ほんの小さな青の宝珠が嵌めこまれた、耳飾。


神託耳飾オラクルピアス。ひとつ、あげる」


「え、いいの?」


「うん。効果は――」


 巫女はそこで、言葉を切って微笑んだ。

 その微笑は、秘密を大事に包む者のそれに似ていた。


「起きたら、わかる。たぶん、ちょっとだけよいことが起きて、ちょっとだけよくないことも起きる」


「……なんか、プラマイゼロじゃない?」


 巫女はうなずいた。鈴が微かに鳴る。

 神殿の空気が緩む。重なった世界の膜がほどけ、光が元の色を取り戻していく。


「帰す」


「ありがとう。えっと――」


「また、甘いのを持ってきて」


「いいよ」


 ノアトが笑うと、視界がふっと傾いだ。借りた魔力が穏やかに離れ、身体の芯が遅れて軽くなる。

 床が遠ざかり、世界が反転した。


     ◇


 市場は、さっきの喧噪が嘘みたいに、静かになっていた。

 神殿の影は消え、天使と水霊の群れも昇華の霞だけを残して散っている。屋根は傷み、露店は破れ、しかし人々は立っていた。

 ノアトは石畳の上で気を失っていた。片手には、しっかりと耳飾を握ったまま。


「……ノアトっ」


 スミレが駆け寄る。膝をつき、彼の肩を抱く。彼の少し氷が付いた睫毛が震え、ゆっくりと瞼が上がった。


「……あ、スミレ。よかった。はちみつパンは――」


「……ううん。けがは?」


「無傷、かな」


 スミレの喉が、かすかに震えた。彼女は頷きかけ――ふと耳飾に目を止めた。


「……それ、は」


「ああ、これね。もらったんだ。神託耳飾オラクルピアス。効果は……内緒、らしい」


「神秘的…」

 スミレはそう言って、小さく笑った。


「行こう、ギルドに」といってノアトは立ち上がる。


「…うん」




ブレストン防衛戦 ――相位顕現の時



 焼き立ての匂いが、朝の石畳にやわらかく降りていた。

 ノアトがパン屋の台に身を乗り出し、「はちみつパン二つ」と指で合図をする。わたしはその背を後ろから見ていた。


 そのとき、露店の並びで黒い外套の男が、地面に碑石を押し当てた。

 紋が光る。空気の縫い目がほどける音――祈りの残響が耳の奥に落ちた。


 光。

 目の前に柱が立ち、回廊が連なり、天蓋が空を覆う――けれど誰もぶつからない。手を伸ばした少年が柱をすり抜けて転び、笑い声がすぐ凍る。

 見えているのに、触れられない。市場はそのまま。二つの世界が重なってしまったみたいに。


 「神殿……?」


 呟いた瞬間、入口から近いノアトの周囲の空気が歪んだ。

 咄嗟にわたしは手を伸ばした。

 「あっ……」――指先は空を掴み、ノアトの姿が消えた。


 呼吸が止まる。わたしは握ろうとした自分の手を、しばらく見つめていた。


「おーい嬢ちゃん! こんなとこで何して――って、こ、これは!?」


 警備兵のおじさんが駆け寄る。わたしは喉を押し開く。


「神殿……に、ノア、ト…が。くろ、の……冒険者、が……遺物、を……」


「遺物だと!? ならギルドだ、すぐ報告だ。……例の兄ちゃんも絡んでるなら尚更だ、さすが動きが早い!」


 おじさんは顔をしかめつつ、でも力強く頷いた。


「ひとまず避難だ、嬢ちゃん。物陰に隠れてろ、いいな!」


 走り去る背中。

 わたしは足が震えるのを押さえて、近くの物置小屋に身を滑り込ませた。


 振り返る。

 天蓋の向こうから、冷たい風が降りてくる。羽の生えた人のかたちが、光の粒を零しながら顕れた。

 鐘が鳴る。警報が、街中を駆ける。

 わたしは両膝を抱え込み、ノアトを待つ。待つから――早くもどって。



---



 走る、走る、走る。

 露店の人らが「何だ何だ」と見上げる視線の合流を裂いて、クロニカの扉を肩で開く。


「た、た、た、大変だフェリスさん! 街に神殿が現れた!!」



---



 書類束を揃える手が、ぴたりと止まる。

 窓の向こう――朝靄の上に薄青の回廊。柱。天蓋。そして漂う祈り波形。遠くからでもそれは視えた。

 背筋に冷たい針。わたしは一度、深く吸って、吐く。


「……相位顕現フェイズ・キャスト。市場構造は置換されていない。投影よ」


 それでも守護天使と水精霊は実害を出す。

 わたしはカウンターに両手を置き、声を張った。


「ギルドにいる皆さん、全員、聞いてください!」


 ざわめきが止む。視線が集まる。


「何者かが禁制遺物を使用、神殿を街に顕現させました! 相位顕現です。市場は残っていますが、守護体が実害を出しています!

 至急、市街防衛に当たってください! 単独接触は禁止、隊列で!」


「まじかよ……」「神殿って何だよ……」「かわいい天使はいますか!?」


 舌を噛みそうな若い声が混じる。わたしは最短の語で釘を打つ。


「神殿投影を行った者は裏走者リナゲイト、黒星……★5相当。討伐指定。当事者の特定が取れ次第、拘束!」



 そこへ、重たい足音。


「丁度いい時に戻れたと言うべきか、天地万雷が今、支部に――」


 支部長エリオット。眼鏡越しの視線が外の青を一瞥して、戻る。


「――いや、もう出ているな。よし。フェリス、王都との回線はこちらで繋ぐ」


「了解しました」


 乾いた音が、わたしの鼓動にリズムを与えた。



---


――ブレストン市中


 鐘と祈りが交ざり合う空の下、白い矢が降る。

 王都の紋章を羽織る青年――アルトリウスは、双剣を交差させて光条を弾いた。

 金属の鳴き声。火花ではなく、白花が散る。


「……照準は悪を選ばない。範囲内の存在を一括で――」


 言い切る前に、路地の石像が音もなく消えた。

 彼の横で、アメリアが瞳を見張る。


「お兄様、範囲審断……。ピンポイントではありませんが、無差別でもありません」


「やるしかない。俺が受ける、アメリアは通せ」


「承知」


 レイピアが鳴る。魔法が刃に絡む。

 火、水、氷、風――聖ではない魔力が薄羽のように刃を包む。


 守護天使が羽ばたき、審断弓に白い弦を張る。

 間。

 アルトリウスは一歩前へ。双剣が十字を描く。矢は割れ、光沫だけが頬を打つ。

 

 開いた瞬間に、アメリアのレイピアが翼の付け根を刺す。

 兄の剣は通らない。聖へ聖は響かない。



「次、右上!」


 兄の声。妹の刃が雷に変わる。痺れだけが天使の翼骨を鈍らせ、石屋根への落下軌道を半歩ずらす。



---


【GR8・天地万雷】


「おいおいおい、朝っぱらから派手だな!」


 焔剣が唸る。男が笑い、斜め振りの軌跡に熱の線が走る。

 水精霊の鬣が一瞬で蒸発し、爆裂霧が路地を覆う。


「視界悪化。雷、行くわよ」


 ボブヘアの杖が一閃、落雷が霧を縫う。

 導電した水霊が麻痺し、螺旋を描いて痙攣。

 鞄を背負った女が、瓶を投げる。銀色の糸のような封じ紋が水の首に絡む。


「サンプル捕捉……は、不可。分解が早い。組成が神域寄り」


「諦めろ。研究は帰ってからだ」



 犬が言った。低い声。スムースコートの小さい外見に似合わない落ち着いた指揮。


「西側二番路地、天使二、水精三。住民退避は完了。中央へ前進」と、片方の前足を前に向けて言う。


「了解」


 焔剣がアーチを描き、雷杖が縫い、癒やしの風が吹く。

 足並みが美しい。GR8の手は、戦線を固めることに迷いがない。



---


【通信断片】


【通信:西門小隊】天使を視認、矢の間隔は二拍。

【通信:中央通】水霊群、石屋根を走行。住民退避完了。

【通信:北斜街】天地万雷が投入、戦線安定。

【支部】王都回線、確立。単独接触禁止を再通達。




 わたしは黒縁紙を掲示板に貼る。

 銀文字が、朝の光で静かに光る。


【黒星警告:裏走者リナゲイト

等級:黒★5(暫定)

罪状:禁制遺物**神殿投影碑テンプルキャスト**の不法起動/市街混乱誘発

対応:討伐指定。単独接触禁止。




---


――市場


 物置の影は狭くて、埃っぽい。

 外で白が弾け、青が走るたび、胸の中も波立つ。



 物置の扉の隙間から、薄い柱が透けて見える。回廊の陰影が、市場の天幕に花みたいに重なる。

 実体はない。だけど、風と温度は変わる。聖露が空中に浮かび、路面が滑る。

 足音。

 さっきの警備兵が戻ってきて、わたしを見つける。


「嬢ちゃん、無事か! 王族と天地万雷が入った、持ちこたえてる! あと少し――」


 言いかけて、空気が静かになった。

 フィルムが一枚、剥がれ落ちるような静けさ。


 天使の羽音が途切れる。

 水霊の爪音が止む。

 柱も回廊も、天蓋も、朝露に溶けるみたいに淡くなって――消えた。


「……終わった、のか?」


 おじさんの声が、やっと自分の耳に届いた。

 わたしは立ち上がり、足元の震えを数えるのをやめた。



---


市中――王族/天地万雷


 白い矢は、もう降らない。

 双剣の刃先から、聖花がこぼれて消えた。アルトリウスは一度、空を見上げてから、隣の妹に頷く。


「……誰かが止めたか」


「……兄様、戻りましょう。被害確認と住民の安否が先です」


 雷杖の女が、杖先で石畳を小さくつつく。「……消え方が綺麗すぎるわね。顕現の核で何かが起きた」

 焔剣の男が肩を回す。「ま、生きてりゃ細けぇことは研究勢に任せるさ」

 子犬が短く一言、「撤収」と告げる。



---


――クロニカ支部


 通信が落ち着く。鐘の音だけが、街に残る。

 わたしは黒印の隣に小さく追記する。


備考:顕現解除確認。発動者消滅の可能性。核側で事象収束が発生。




 紙端を揃え、書類束を抱えた後に視線を外へ。

 薄い雲の切れ間から、朝日が差し込む。黒縁紙の銀文字が一度だけ光った。


「事後報告を整えます。――相位顕現、SSS。そして、黒★5」


 朝は、ようやく昼へ歩き出した。

 はちみつの、微かな匂いだけが、まだどこかに残っていた。

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