武闘祭編 七星を懸けて後半
午前の光が白く尖って、訓練庭園の芝をまぶしく塗っていた。
わたしは結界の縁を一周して歩く。境界線に靴底を半分だけ重ね、戻る力を足先で確かめる。
ヴァイオラ教授が短く言う。
「縁は“押し返す”。感じた通りに使いなさい」
「はい」
鐘が鳴る。
準々決勝 QF2 スノア・アルシエル vs サイラス・グレン。
サイラスは教科書のような構えだった。肘が浮かない。足が割れない。
結界の真ん中に針を立てたみたいな姿勢で、呼吸だけが静かに揺れる。
開始の合図。
サイラスの詠唱は短い。冷たい鋼の音色。
前に出た瞬間、風ではなく重みが押し寄せる――氷でも炎でもない、純粋な圧力の一歩。
わたしは逃げない。薄膜を爪ほどの幅で足先に置き、霜路を一本、縁へ向けて引く。
「押し返す力を、借りる」
サイラスの間合いにわたしが踏み込む。
すれ違い、肩がかすめるほどの距離で、わたしは半歩だけ縁へ寄った。
戻りたくなる――人の身体はそうできている。
その一瞬の補正のために、サイラスの踵がわずかに浮く。
わたしはそこへ氷縛を膝丈だけ、やさしく絡めた。
主審旗が跳ねる。
「制圧点、アルシエルに一点!」
拍手の間もなく、サイラスは氷を割り、今度は縁を怖れずに中央へ戻った。
慎重な修正。嫌いじゃない。
だから、次はわたしが縁を捨てる番。
二合目。
サイラスは型を崩さない。ならば、崩させない。
薄膜をほとんど見えない角度で斜行に張り、視線で右へ誘う。
誘われたふりをして、わたしは左へ踏み――足裏を素足で止める。
滑らないのは、氷を置かなかったから。
置いたのは相手の足元、ほんのコイン一枚ぶんの、味のない滑り。
「武器落下、一回」
サイラスの指が柄の位置を一瞬外し、鞘の金具が結界に“からん”と触れる。
主審がカウントする間に、わたしは薄膜を解いて身体の力を抜く。
二点目は焦らず取る。
縁を巡り、中央を見失わせ、戻りたい力を少しだけ遅らせる。
戻るより先に、わたしの指が空気の冷えを滑らせる。
「ダウン、カウント――」
三つ目の鐘の前に、サイラスは体幹で起き上がった。強い。
それでも、旗は上がる。二点目。
三合目。決めにいく。
結界の縁をあえて遠くにし、中央で完結させる仕上げ。
縁が使えないなら、縁を“作る”。
薄膜を半径の小さな輪にして、自分の足首の“外側”に沿わせる。ここに乗らない。乗りたくなる形だけ、置く。
サイラスが踏み込む。
輪に触れないのに、触れた気がして、補正が一瞬遅れる。
そのわずかの空白に、わたしは氷針をただ一本、地に縫った。
――つまずきではない。姿勢のほどけ。
主審旗が高く振られる。
「制圧点、三。勝者、スノア・アルシエル!」
歓声がひときわ大きく跳ねた。
サイラスは眉をひそめ、そして、ぽつりと言う。
「縁は、結界だけじゃないのか」
「はい。足首の、内側にもあります」
意味が通じたのか、サイラスは短く笑い、掌を差し出してきた。手のひらは温かかった。
*
同時刻、QF1 ライオネル・グレイは、いつも通りに強かった。
風が剣より先に相手の影を斬り、一呼吸で二点。
三点目だけは、ゆっくり取った。
「客の目が覚める速度の方が、祭りらしい」
そう言ったかどうかは聞き取れない。けれど、彼の横顔は、わたしの方をまっすぐ通り抜ける角度で退場していった。予告は、もう確定だ。
QF3 ベルテナ vs サラサは拮抗した。
サラサの結界は二手で組み上がる。ベルテナの圧は、弓なりにしなる。
最後の最後、サラサは結界札を一枚、“置かずに”置いた。
札は宙に浮いたまま、結界の仮想面だけが立った。
ベルテナの武器が“空”に弾かれ、主審旗が揺れる――
勝者、サラサ・ブルーミア。
彼女は戻ってくると、こっそりと掌を見せた。汗で濡れた指。震えていない。
「二手のまま、行けた」
「行けたね」
QF4 ミリエル vs ハルベルトは……熱戦だった。
ミリエルは速さで先手を取るが、ハルベルトの一歩が重い。
二度取られた制圧点を、ミリエルは一度取り返した。
最後は、武器の柄に汗が滑って――ミリエル、敗退。
彼女は泣かなかった。泣く代わりに、観客席へ手を振り、わたしたちの方へ向き直って、笑った。
「次、応援する側も楽しいから!」
掲示板の札が掛け替えられる。
SF1:ライオネル・グレイ vs スノア・アルシエル
SF2:サラサ・ブルーミア vs ハルベルト・クロウ
心臓が静かに跳ねる。
ヴァイオラ教授が言う。
「霜は要らない。薄膜と縁だけで十分。風は散らすから、張る前に張られてはいけない」
「はい」
来賓席の上段。ノアトが紙コップを両手で持って、こっちを見ている。
王女アメリアは、膝の上で手を組んで、わたしたちを見ている。
王子アルトリウスは、微動だにせず座っている。視線の重みは、刀の背のように鈍く優しい。
*
午後。空気が少しやわらぎ、薄い雲が日差しを割った。
準決勝 SF1 ライオネル・グレイ vs スノア・アルシエル。
開幕の合図と同時に、風がわたしの髪を後ろへ撫でる。
速い。けれど、見える。
わたしは霜を使わない。霧も使わない。
薄膜を爪先の向きで切り出し、縁を足首の内側に作る。
滑るのは相手の靴底。わたしの足は止まる。
一合目。
ライオネルの風が面で迫り、わたしは線で避ける。
外へ逃げず、内へ折れる――折れる先に、戻る力がわずかに働く。
抱きかかえるように重心を戻した瞬間、氷縛を“指一本”だけ、空気に刺した。
見えないはずの、引っかかり。
彼の肩が、ほんの刹那だけ遅れた。
主審旗が揺れる。
制圧点、わたしに一点。
観客席がざわめく。
実況が、小さく笑った声で言う。
「講師のお告げ、“縁に注意”だそうですが――おっと、これは本当に縁が効いているのか?」
二合目。
ライオネルの目が、笑う。
「面白い」
一言。すべてが速くなる。
風が縦でも横でもなく、斜めに差してくる。
わたしは足の縁を内側に作って、薄膜の角度を合わせ――
間に合わない、と判断して受ける。
胸の前で氷盾を一枚、息ほどの薄さで。
衝撃は減衰され、結界に吸われる。それでも、視界が白く跳ねた。
制圧点、ライオネルに一点。
三合目。
互いに真ん中へ戻り、今度は縁を見せない。
わたしは足裏の感覚だけを信じ、薄膜を軌跡としてではなく向きとして纏う。
風が来る方向へ、わたしは自分の摩擦を“合わせる”。
滑らない。
滑らないまま、相手の風だけが空振りする。
わたしは一歩入って、肩の横を冷やす。姿勢が、ほどける。
二点目が入る。
四合目。
ライオネルの風が地を這う。
足音を消す風だ。
視線で拾えない接近。
わたしは予備の薄膜を解き、耳で風の“途切れ”を聞く。
途切れた先に、彼がいる。
そこへ、氷針を一本だけ――
ふっと、風が針を拾い上げた。
拾って、わたしの足の外へ“置いた”。
ライオネルは風で縁を作る。
わたしの足が、わずかに戻りたくなった。
その補正の一瞬、肩が浮く。
二点目を許す。
五合目。最終。
観客席の空気が重くなる。
わたしは息を吸う。夏の空気。氷の匂い。風の匂い。
縁は互いに使える。
ならば、縁を“消す”。
結界の中央に一本、見えない柱を立てるつもりで、薄膜を自分の背骨沿いに纏った。
内側の縁を“背骨”に固定する。戻りたい力は、もう“真ん中”ではなく、自分の中心へ返ってくる。
ライオネルが踏み込む。
風が肩を撫で、わたしの髪が遅れて揺れる。
戻らない。
戻らず、前へ。
薄膜の向きを、風に合わせるのでなく、風を跨ぐ向きに切り替える。
肩から入って、彼の肘の外へ回る。
氷縛は使わない。触れない。
触れずに、姿勢の供え物だけを、足もとに置く。
「――」
ライオネルの靴底が、一瞬だけ空を踏む。
主審の旗が――揺れかけて、止まった。
風がわずかにわたしの足首をさらい、縁が結界の外側で生まれる。
戻りたい力が、外へ働いた。
白い光。
「場外――! 制圧点、ライオネル!」
沈黙。
それから、遅れて大きな拍手。
勝者、ライオネル・グレイ。
わたしは肩で息をしていた。
ライオネルが近づき、わたしの耳元でささやく。
「君は“縁”を内に持ち込んだ。次は、風の中に芯を持ち込め」
意味はすぐにはわからない。けれど、言葉は氷より鮮明に胸に刺さった。
「……はい。次は、勝ちます」
「楽しみにしている」
退場の通路で、ヴァイオラ教授が短く頷いた。
「十分。星は、もう君の肩に乗っている」
わたしは深く頭を下げる。
SF2でサラサは善戦したが、ハルベルトの重さに押し切られた。
それでも彼女の結界は最後まで“二手”だった。
観客はその美しさに拍手を送る。ミリエルは声が枯れるほど応援して、最後は笑いながら泣いた。
決勝。
ライオネルは優勝した。風が王冠の紐を揺らすほど近くを通って、しかし誰も傷つけなかった。
王子アルトリウスが立ち上がり、王女アメリアが拍手を重ねる。
来賓席のノアトはきれいに手を叩いていた。
実況が言う。
「本年度《七星武闘祭》、星冠はライオネル・グレイへ――そして、観客が選ぶ**“星見の一番”**は、準決勝の“縁なき勝負”、スノア・アルシエル!」
会場がほんの少し、わたしの名で沸いた。
*
夜。
風が涼しい。家のテーブルには星が乗ったアイス。氷の器に盛ったら、スミレが目を丸くした。
「きれい……」
「キラキラしてるねー」
スミレは腕輪――**共鳴腕輪**を撫でる。
「……ギルド、許可。条件付き、出た」
「お、やったじゃん。おめでとう」
「……うん」
わたしは一切れ口に運び、冷たさが舌でほどけるのを味わった。
今日、わたしは優勝しなかった。でも、少し届いた。
窓の外で、王都の夜がゆっくり巡る。
七つの星は、今夜も全部は掴めない。
それでも、ひとつぶんの光は、確かにわたしの掌に残っていた。




