武闘祭編 七星を懸けて 前半
夏の朝。
水面みたいに揺れる空気が窓から入りこみ、洗面器の水までぬるく感じた。顔を冷やしてから、わたしはタオルで頬を押さえ、リビングへ向かう。
床に、お兄ちゃんがいた。
むしろ“床に沈んでいる”と言った方が正確かもしれない。畳と一体化する勢いで伸びている背中。薄い息。
「……待ってたよ、スノア」
「待ち伏せの姿勢が最低なんだけど」
呆れながら、わたしは掌に冷気を集める。青白い霧がじんわりと広がって、部屋の暑さが一段落した。
「全く、ちゃんとして。今は――」
廊下から小さな足音。
スミレが、控えめに扉の隙間から顔を出す。
「……おはよ、う?」
ノアトは目を瞑りながら挨拶を返す。
「おはよう、スミレ」
スミレはお兄ちゃんを見て、ほんの少し首を傾ける。そして、何のためらいもなく隣に“ぱたん”と横になった。
「涼しい……」
「真似しないの!」
わたしはため息をひとつ。スミレはこくんと頷くが、頷きながら涼しいと言ってた。きっと聞いてない。
空気を切り替えるため、わたしは話題を掴む。
「そうだ。来週から七星武闘祭が始まるの。開会式、今日、リハーサルもあるから……、見学に――く、くるの?」
語尾が少し跳ねてしまって、心臓がこそばゆい。
お兄ちゃんは床と同化したまま、かすかに親指を立てる。
「暇だったら、行くよ」
“暇だったら”。この曖昧な逃げ道。いつものやつ。でも、わたしは知っている。こういう時のお兄ちゃんは、だいたい来る。
「スミレも一緒に行く?」
お兄ちゃんが訊くと、スミレは左手の腕輪を押さえ、細い声で首を振る。
「……ううん。腕輪の、許可……ギルドに」
「今日は審査か。じゃ、今夜、涼しいアイス買って帰るよ」
「……うん」
氷気は十分に流した。わたしは二人を起こし、お兄ちゃんの髪をわしゃっと整えてから、学院へ向かった。
*
王都の高台、星見ヶ丘。
アストロラーニアの尖塔が夏の陽にぎらりと光る。校門前では学生放送局の係が忙しく動き、掲示板には**《七星武闘祭:組み合わせ決定》の大きな紙。隅に、期中の星等級(★)**が小さく添えられている。
――ライオネル・グレイ(★6)、サイラス・グレン(★5)、ハルベルト・クロウ(★5)……
――スノア・アルシエル(★4)
胸の奥が、熱ではなく緊張で焼ける。
わたしは深呼吸を一度。気道にひんやりした空気が通るよう、微弱な冷気を自分の周囲だけに流す。
「スノアー!」
ミリエルが手を振りながら駆けてきた。眩しい笑顔。
「見た? 組み合わせ! あたし、ロイとだって。ね、これ勝てるかな、いや勝つけど!」
「勢いは十分。間合い管理、忘れないで」
「了解! サラサは?」
「ネラさんと。……結界の張り直し、二手で済ませる練習をしてきたから、やってみる」
サラサは胸元の襟章を指先で整え、小さく頷く。眼鏡の奥の瞳は、緊張していて、でも静かに燃えていた。
放送塔の鐘が鳴り、教員の号令が響く。
リハーサルのために訓練庭園《オルビス闘技庭》へ向かう通路は、いつもより人が多い。観客席の上段には、式典用の青い天幕が張られていた。王家の紋章。――つまり、あの席に、今日は王族が座る。
わたしは見た。
案内係の学生が慌ただしく走り、門の前で立ち止まった。
「来賓の方、こちらのバッジを胸に……って、え?」
来賓者用の白いバッジを斜めに付けて、全然似合わない涼しい顔で立っている青年が一人。
係の子が狼狽するより速く、校門のところで見回りをしていた警備兵のおじさんが、お兄ちゃんに握手を求めた。市場で顔を合わせる、いつもの人だ。
「おお、アンタ、曇りなき眼の兄ちゃんじゃないか! 今日も頼むよ、外部講師!」
「講師?……え、ちが」
訂正する間もなく、周囲にいた学生が“外部講師”の二文字にざわつく。
「外部講師の人だって」
「この前、魔力を打ち消したって噂の…」
「ノアト様、席はこちらです」
案内係がぺこぺこと頭を下げ、半ば引きずるように来賓席へ。
青い天幕の向こう、王子アルトリウスと王女アメリアの席が見える。ノアトは気まずそうに会釈し、アメリアの視線を受けて、ほんの少し困った笑顔を返した。
胸の鼓動が騒がしくなる。
見ないふりをしているが、きっと王族の前で倒れたくはない。倒れたくないし、勝ちたい。喉の奥がからからに乾いているのに、手のひらはうっすら冷たい。
「スノア、行こうか」
ヴァイオラ教授の静かな声が背後から落ちる。
「はい」
闘技庭の結界が、薄い氷膜みたいに光った。
主審席にはトリスタン教官。彼の横で、学生放送局の音声のスイッチがカチリと入る音がした。
「――七星武闘祭、開会前リハーサルを開始。選手は所定の位置に」
わたしは足元に、うっすらと霜路を描く。自分のための、足運びのレール。
深い息をひとつ吸って、吐く。霧が短く生まれて、夏の光で消える。
視線の先、対戦表の札に自分の名前。
R1-③ スノア・アルシエル vs ディエゴ・ヴァント
ディエゴは土の術者だ。射線を遮る土壁、足場を荒らす盛り上がり。わたしは霧で視界を削らず、薄膜で摩擦を落とし、足を止める。練習した通りに。視線誘導で、相手の重心を半歩ずらす――
来賓席の方から、遠く、軽いどよめきが聞こえた。
ノアトが、風見旗の揺れを見て、何かを言ったらしい。
「今日の上段有利」
実況が拾って、広がる。外部講師。
いい。
わたしは、わたしの氷で勝つ。
「スノア、手短に。初動の冷却――」
「教授、わかっています」
わたしは手袋を締め直し、闘技庭の白い境界線を、片足でそっと跨いだ。
氷の気配が、夏の匂いにまざっていく。
観客席のざわめきが、海鳴りみたいに遠のく。
七つの星のうち、わたしに届く光が、きっとある。
その一筋を掴むために、まずは第一歩。
――合図の鐘が、鳴る。
◆武闘祭編 七星を懸けて(第2クール)
合図の鐘が鋼を震わせ、闘技庭の結界に薄い波紋が走った。
対面に立つディエゴ・ヴァントは、肩幅に足を開き、掌を地へ。土の匂いが一瞬、夏の熱気より濃くなる。
「――来い、氷」
相手の低い呟きと同時に、足元が“盛り上がる”。
土の舌。射線を遮る壁がわたしの視界を切り分け、砂と小石が弾丸みたいに跳ねた。
わたしは走らない。
霜路を細く引き、足裏だけを滑らせる。視界を奪う濃霧は使わない。今日は薄膜――透明な氷を地肌になでるように張り、摩擦をほんの少し落とす。三歩で十分。
土の舌が噛みつく瞬間に、わたしの重心は“外”へ逃げている。
「視線、左」
ディエゴが壁から覗き込むその刹那、視線の端で“空き”を見せる。狙ってほしい場所を、ほんの指先で示す。
土杭が立つ。狙い通り、強い。
杭が地面を穿つ瞬間、わたしは氷縛を膝のみで短く、怯えない程度の強さで絡めた。
足を止めるための、最小限の拘束。
「制圧点、アルシエルに一点!」
主審旗が上がる。観客席がわずかにどよめく。
ディエゴは即座に氷を砕き、土の壁で距離を取った。体幹が強い。嫌いじゃない。
次は、もっと短く。
薄膜→視線→足運びの崩し。三拍子を、二拍に詰める。
「はっ!」
ディエゴの掛け声とともに地面が呼吸する。土の隆起が波のように押し寄せる。
わたしは波の“谷”にだけ薄膜を引いた。踏み込みは素足のまま。氷で守らない。守らないから、足は滑らず、相手だけが滑る。
二手目の視線誘導は指先ではなく、肩の傾きで。
つられた重心が前に乗る――わたしはその肩を見ない。足首だけを見る。
「ダウン、カウント――!」
主審の声が一拍早くなる。
三つ目のカウントが落ちるより前に、わたしは氷を解いた。負担を残さないために。
制圧点、二。
あと一つ。
観客席の上段から「上段有利!」という声。
あの人の言葉が、もう伝染している。実況が拾って、笑いが浮かぶ。
終わらせる。
土の壁が再び立ち上がる瞬間、その影の“縁”にだけ白い縫い目を付けた。
薄い、薄い氷の糸。視界でなく、靴底の感覚に触れる糸。
ディエゴの右足が半歩もつれ、左足が自分の影を踏む。
わたしは踏み込まない。肩越しに、そっと押すように、冷気で姿勢を後ろへ滑らせた。
「――場外!」
結界の縁で光が跳ね、主審旗が高く振られる。
制圧点、三。勝者、スノア・アルシエル。
拍手は大きくはない。
ディエゴは悔しそうに笑い、手を差し出してくる。わたしも笑い返し、その手を取る。
「いい薄膜だ。見えねえのに、存在感がある」
「あなたの土壁も。厚すぎず、怖すぎず。ありがとう」
退場の通路で、ヴァイオラ教授が小さく頷く。
「初動、よかった。二手目を一手に詰めた判断は合格。疲労の配分を、後で見直す」
「はい」
来賓席を見上げるのは一瞬だけ。
ノアトは、座り方が変だった。来賓席にいるのに庶民みたいに座っている。王女アメリアが横目でちらっと見て、すぐに視線を正面に戻す。
王子アルトリウスは、武人の目で試合場だけを見ていた。
*
午後。R1-⑥ サラサ・ブルーミア vs ネラ・コーエン。
リングの外で、サラサが小さく深呼吸をしている。眼鏡の位置を二度直して、指先で結界札を確かめる。
わたしは短く声をかけた。
「“張り直し”は二手。迷ったら最初に戻す」
「……うん」
開始の合図と同時に、ネラが速度で押し込んだ。
サラサの結界は最初の一枚で受け、二枚目を斜めに立てる。
この“斜め”が、練習してきた新しい角度。
直角ではない。力がすべる角度。
打撃が面でなく線に散り、ネラの踏み込みが半歩遅れた。
「結界再配置――二手」
トリスタン教官が小さく呟く。実況は気づかない。
サラサは追い詰められたふりで下がり、足元に薄い輪を置く。結界の“置き土産”。
ネラが踏み込む。線で受ける。
ほんの少しだけ、靴の縁が輪に触れて、ハの字に足が開く。
サラサは、そこでようやく詠唱を伸ばした。
伸ばして伸ばして、焦らず、押し返す。
「場外!」
主審旗が上がる。
サラサ、勝利。
彼女は一度だけ深く頭を下げ、退場の通路で、眼鏡の奥をにこっと緩めた。
「二手で、できた」
「見てた。綺麗だったよ」
わたしは、心から言えた。サラサは、胸の前で拳を小さく握った。
*
続けて、R1-⑦ ミリエル・カンデラ vs ロイ・バスカ。
相手は堅実な近接。ミリエルは軽いフェイントを繋いで、先手だけを取りに行く。
「距離! 大事なのは、距離だ!」
観客席の上段――実況が反射的に拾ってしまい、会場が少し笑う。
「来賓席からのアドバイス、ありがとうございます。“外部講師”の……」
「講師じゃないのに……」とわたしは口に出さず、肩の力を抜く。
ミリエルは、笑いも力に変えるタイプだ。
ロイの踏み込みが重くなったのを見て、左右の小刻みで足を回し、ロイの得意な直線を消す。
一度、詠唱がもつれた。
一度、足がもつれた。
でも、二度目は修正した。
ロイの武器が結界に弾かれて、手から“こつん”と落ちる。
「武器落下、二回。制圧点、三――勝者、ミリエル・カンデラ!」
跳ねる歓声。ミリエルがこちらに親指を立てたので、わたしは同じ角度で返した。
サラサは拍手しながら、ぽつりと言う。
「ミリエル、実況に笑ってもらうの、うまい」
「才能だね」
*
その合間、R1-① ライオネル・グレイは、風圧だけで相手を遠ざけた。
剣は抜かない。鞘に風がまとわりつき、軽く振っただけで砂が走り、相手の膝が折れる。
制圧点が三つ、ほとんど一呼吸。
拍手と、少しの息を呑む音。
ライオネルはこちらを見ない。見ないくせに、わたしのほう“だけ”に横顔を向ける角度で、退場した。
挑発、というより予告。
――準々決勝、またはその先で会おう、と。
来賓席。ノアトは相変わらず妙な座り方で、王女アメリアは視線を泳がせまいと努力しているように見えた。
王子アルトリウスは、わたしの退場のときだけ僅かに頷いた。礼を返すべきか迷って、結局、わたしは小さく頭を下げた。
夕方。闘技庭の赤い光が長く伸びる頃、予選日程はすべて終了。
掲示板に準々決勝の札が掛かる。
QF1:ライオネル・グレイ vs ユリウス・フェーン
QF2:スノア・アルシエル vs サイラス・グレン
QF3:ベルテナ・ローズ vs サラサ・ブルーミア
QF4:ミリエル・カンデラ vs ハルベルト・クロウ
「やっぱり、サイラスと当たるか」
わたしは札の前で、深く息を吐いた。サイラスは堅い。教科書みたいに堅い。
摩擦だけの勝負では崩れないだろう。別の入口が要る。
「外部講師、明日も頼みますっ!」
ミリエルがふざけて敬礼し、サラサが小さく笑う。
ノアトは困った顔で頭をかき、わざとらしく咳払いをした。
「え?あー、明日は…『上段より、縁に注意』して」
「縁?」
「結界の、縁。人は縁に寄ると、勝手に身体が真ん中に戻ろうとする。戻る力は、利用できる」
さらりと言う。
薄膜より薄いヒント。わたしの術では触れにくい領域――感覚の補正。
でも、明日の勝ち筋は、わたしの中で形を持ち始めていた。
遠くで王都の鐘。夏の空気が、少しだけやさしくなる。
夜の風が出る前に、冷導工房へ寄って、縁の感覚を身体に覚え込ませる。
明日は、わたしの薄膜だけじゃ足りない。
もう一つ、踏み込みのための線を引く。
七星は届く場所にある。
届かせるのは、手の形と足の角度――そして、視線の置き場。




