灰の公国ヴァルカデス編 到着、ブレストン街
帰路三日目
灰の街の乾いた空気が嘘みたいに、風は柔らかかった。
道の先、見張塔を越えた丘の上に、馬車の列がゆっくり動いている。
荷を積んだ行商人の一団だった。
「行商か。情報が拾えるかもしれん。寄ってくぞ」
「吾輩、買い食い希望っていう!」
「買い食い禁止だ」
ヴァレンが先頭に立ち、声を落としながら行商人へと声をかけた。
年配の男が振り返り、手綱を引く。
「ああ、旅人さんかい。黒蔦の連中に絡まれてねぇだろうな」
「あんたらも遭ったのか?」
「いや、あれはもう商売抜きだ。王都じゃ“遺物絡みの取引制限”が始まったらしい。」
ヴァレンとノアトが短く目を合わせる。
後ろで珍ドラが、露店の籠を覗き込み、じっと輝く瓶を見つめていた。
「吾輩、これ欲しいっていう!」
「こら。勝手に触るな」
ヴァレンが尻尾を引っ張る。
「いいんだよ、ちょっとくらい。これからブレストン行くんだろ? あそこじゃ今、“歌うガラス師”の展示会をやってるって話だ」
「……歌う、ガラス師?」ノアトが聞き返す。
「ああ。遺物細工とガラス細工を組み合わせた“道具や楽器”を作るって評判だ。王都から招かれた職人らしいが、今はブレストンにいるとか」
ヴァレンの眉がわずかに上がる。
スミレが泡笛の紐を指で撫で、視線を下げた。
ノアトが微笑む。
「もしかして、音が出るおやつっていう?」
「食うな。飾るんだ。」
「残念っていう!」
行商人が手を振りながら去っていく。馬車の鈴の音が山風に溶けた。
---
午後、森の小道に入る。
木漏れ日が柔らかく差し込み、ブレストンの街道へ続く石畳が姿を現す。
長い旅の緊張が少しずつほどけ、珍ドラの足取りも軽くなる。
ノアトは後ろを振り返る。
スミレがゆっくりと歩いていた。
紫の瞳と灰の瞳。両方に、確かな光が戻りつつあった。
「……ブレストン、もうすぐだ」
「(こくり)」
スミレは小さく頷いた。
ヴァレンが街についた後の話をする。
「街に入ったらすぐにギルドへ報告だ」
しばらく朝靄が薄れた山道を歩いていた。
空は雲ひとつなく、森の向こうにブレストンの屋根群が見える。
街門前。石畳の先にブレストンの屋根が並ぶ。
珍ドラが門前で振り返って言う。
「ここで解散っていう! 今日で護衛は完了っていう!」
珍ドラが胸を張る。
「おう、おつかれさん。報酬は、いんのか?」
ヴァレンが半目。
「パン二個と煮込み三杯と、心の充足っていう!」
「貨幣経済を学べば食えるぞ」
「珍ドラ、助かったよ。君がいたから抜けられた。
そのリープブーツ、よかったらそのまま使って」
「いいのっていう! じゃあ毎日跳ぶっていう!」
喜んでいる珍ドラにノアトは「ほどほどに」と苦笑した。
「……ありが、と」スミレが小さく頭を下げる。
「ふふん。吾輩、また腹が減ったら会いに来るっていう!」
「動機が弱ぇな」ヴァレンのツッコミに、珍ドラは尻尾を振った。
「じゃ、達者でな」ヴァレンが手を振る。
「吾輩、伝説になるっていう!」くるっと向きを変え、跳ねるように去っていった。
――
クロニカ支部。フェリスは書類の山に囲まれていた。
入口の扉が開かれ、ヴァレンを先頭に受付へ向かってくる一行。彼らの無事な姿に安堵し、フェリスは先に声をかける。
「おかえりなさい。報告をどうぞ」
ヴァレンがカウンターに肘をつく。
「目的地はヴァルカデス。荷は“魔力追跡装置”の名目。だが実際は“人獣の売り物”。闇市の地下へ案内され、黒蔦と暴走騒ぎ。その最中に監禁されてた少女を保護。以上」
フェリスはこの数日間の情報を、すらりと短く話したヴァレンにメガネを押し上げながら言う。
「とても…簡潔ですね?」
「簡単に事実だけをな。感想は高くつく」
フェリスの視線がノアトへ、そして横の少女に滑る。
「……ノアトさん。連れて帰ってきたのですか?」
「……放っておけなかったので?」とノアトは視線を逸らして耳を掻く。
フェリスはため息をついた。
「まぁ…人助けは良いことですけど…」
「報告は完了。じゃ、俺は先に失礼するぜ」
ヴァレンが伸びをする。
ノアトは報酬も貰わず、さっさと立ち去ろうとするヴァレンを気遣う。
「早いね。いいの?」
「後でまたくる。睡眠も報酬だ。金になる依頼があればまた呼んでくれ」ひらひらと手を振って扉へ。
フェリスは小さく息を吐く。
「……腕は確かなので、そういう時はお願いします」
ノアトがふと一歩前へ出る。
「フェリスさん、お願いがあるんだけど。
彼女とパーティを組もうと思って。正式に冒険者として登録してくれないかな」
おや、とフェリスが反応。名簿帳を取り出す。
「前回の時を思い出しますね……適当に“シーフでいいですか”と私が言って、あなたが適当に“いいよ”と言ったあの日を」
「……あったねー、そんな適当な事が…」
シーフの知識なんて一つもないのにノアトはシーフになってしまった。組んだ人には口が裂けても言えない。
フェリスとノアトは少し沈黙したあと、スミレに視線を移す。
「念のため確認します。スミレさん、得意なことは?」
スミレは泡笛の紐を指でつまみ、恥ずかしそうに。
「……あの、泡を……吹くのが……」
なんですかそれは…と言いたげな表情を一瞬。
しかしフェリスは我慢して平常を装った。偉い私。
「あ、泡?…ですか。しかし…」
フェリスは一拍置いて帳簿を確認し、こめかみに手。
「そのような職業、一般職の枠にはありません。なので特殊職扱いになります」
「じゃあ、提案してもいい? “泡詠士”なんてどう?」ノアトが手を上げる。
「……“泡詠士”。――わかりました。特殊職として登録できます。では、後日ノアトさんとスミレさんはパーティ登録も併せて進めます。帰ったばかりで疲れているでしょうし、先に休んでください」
カシャ、と印章の音。「はい、冒険者登録は完了です」
よしっとノアトは喜び、フェリスにお礼を言った。
「ありがとう」
ノアトは深く頭を下げ、隣の少女へ向き直る。
「帰ろっか。案内するよ。小さい家だけど」
「……うん」
ノアトはスミレと肩を並べ、アルシエル家への道を歩き出した。
玄関前で立ち止まり、ノアトが鍵を回す。
扉を押す直前、後ろでスミレが小さく深呼吸をした。
少しの緊張後…
ふわり――香草を焼いた匂い、鶏の脂が鍋で溶けるあまい香りが廊下へ流れ出す。
「……いい匂い、ね」
「うん。今日は当たりだ!」
スミレは数歩遅れて続いた。靴を揃え、目線を上げて廊下の絵皿や磨かれた手すりを見る。
(え……ノアトって、貴族だったの)
普段の口調と動きが普通すぎて、ずっと気づけなかった。胸が少しだけ固くなる。
「行こうか」
ノアトがそっと手を差し出す。彼に導かれ、深い色の絨毯を踏み、明るいリビングへ。
母は台所で木べらを回していた。大鍋の中、鶏肉と根菜、香草がくつくつ踊る。父はテーブルで新聞を横に置き、湯呑を手であたためている。ソファではスノアが分厚い本に指を差したまま顔を上げた。
「ただいまー」
「おかえり、お兄ちゃん」スノアが笑う。
「おかえりなさい。手を洗ってきてね、もうすぐ夕飯よ」と母は手際よく皿を重ねながら振り返る。
視線がノアトの背後――スミレへ移った。
ノアトは小さくうなずき、彼女の肩を押し出すように前へ。
「紹介するよ。名はスミレ。ヴァルカデスの闇市の地下で……監禁されてたのを保護して、連れて一緒に帰ってきた。この腕輪の呪いで、まだ声は強く出せないんだけど…」
言葉を選びながら、短く、要点だけを。
鍋の湯気が、話の重さをやわらげるように立ちのぼる。
「しばらく……ここに泊めてもいいかな。帰る場所がないんだ」
「大丈夫よ〜。部屋は空いてるもの」母は即答。
「同い年くらい? 姉妹ができたみたい」スノアがぱっと立ち上がる。
父は湯呑を持ったまま固まった。「……お、おお……ノアトが、女の子を……しかも年頃の……え、これが、えっと、その……」
父の意味不明な発言に母が反応する。
「なんでお父さんが緊張してるの」
スノアが様子のおかしくなった父を訝しげに見る。
「お父さん?」
「け、結婚は、まだ早――いや、父さんはいつでも味方だぞ」
「誰もそんな話してないから」ノアトが、小声で妄想を始めた父に突っ込む。
スミレは緊張を飲み込み、深く頭を下げた。
「……お世話……に、なり…ます」
ノアトの食前行動は速い。
「じゃ、俺は皿を出すよ。スミレは、ここに座って」
「……うん」
椅子を引いたノアトに手を引かれ、席へ誘導されたスミレ。
ノアトが食器棚から皿を並べるあいだ、母は鍋を傾けて香草煮込みをよそう。鶏の照りが灯りに揺れ、ハーブの香りが一段濃くなる。
スノアはすっとスミレの隣に座った。「前髪、長いね。ヘアピン貸してあげる、ちょっと待ってて」
小走りで部屋に消え、すぐ戻ってくると、スミレの前髪をやさしく留めた。
「似合う。お風呂上がりの服も用意しとくから、あとでサイズ見ながらね」
「……ありが、と」頬にやわらかい色が差す。
食卓が整い、いただきます。
鶏の香草煮込みは、外がふわりと香ばしく、中がしっとり。スミレは一口ごとに目を瞬き、顔がほどけていく。
父は終始、何かをぼそぼそ呟いていた。「……結納はまだ早……いや、式場は……」「お父さん、はやく食べて」と母が皿を追加で置く。
食べ終えると、母が浴室の支度をする。「スミレちゃん、お風呂どうぞ」
「……うん。おかり、します」
スミレが湯気の廊下に消える。
「じゃ、俺達は部屋を用意しようか」
ノアトとスノアは客間の布団を引き、枕元に小さなランプと水差し、タオルを置く。窓辺のレースを整え、ノアトは机の引き出しから自作の木の簪を取り出し、そっと小皿に添えた。
「バッチリだ」
「これ、あの簪?」
「うん。前に道中で作ったやつ。気に入ってくれるといいけど」
リビングに戻ると、スノアが目を輝かせる。「ねえねえ、お兄ちゃん! 今回の冒険話!なにしてたの?」
「ほどほどにね」母が笑って台拭きでテーブルを磨く。
「クロニカで、知らない人から護送依頼を受けたんだ。
紹介でヴァレンっていうガントレットの遺物使いの人と一緒に行くことになって。
で、途中の休憩中に珍種のドラコニアンに会って――」
「え、珍種の?」
「うん。この珍ドラ、食い意地がすごくて。でも犬みたいに鼻が利いて……道中で荷物から“獣の匂いがする”ってさ。着いたヴァルカデス公国の灰色の市場は――人にも値をつけるような場所。正直、いい気分じゃなかったかな」
空気が少しだけしんとする。
「そのあとは闇市の地下まで荷物を下ろすことになったけど…積荷がまさかの狼の女の子だったんだ。そのあとは黒蔦の男たちと魔狼の戦闘が始まって――」
「……うん」
スノアは真剣にノアトの話を聞きうなずいていた。
ちょうどその時、浴室の扉が開く音。
スミレが髪を拭きながら戻ってくる。前髪はスノアのピンで留まり、灰の瞳にかかる影が少し上がっていた。
ノアトは立ち上がり、スノアの頭に軽く手を乗せる。
「冒険話はこのへんにしようか。俺も少し眠いから。スミレの部屋、用意してあるから――案内するよ」
「……うん」
三人は廊下を静かに歩く。客間の戸を開け、ノアトがランプに火を入れる。
「何かあったら呼んで。多分寝てるから」
「……えっ?」
きょとんとしたスミレ。
「おやすみー」とノアトはすぐ浴室へ。
スノアは自分の部屋へ跳ねるように戻っていく。「明日、髪結んであげるからねー!」
父はまだ「……式は春が…いや…まずは同棲…?」と小声が漏れて、母の「寝なさい」が続いた。
浴室から戻ったノアトは最後に居間の灯を落とし、すぐに深い眠りに落ちた。




