灰の公国ヴァルカデス編 帰路一日目 ―灰を抜ける朝―
夜明け、街はまだ半分眠っていた。
灰色の空に鈍い光が滲み、煤の匂いが薄まる。
宿を出たノアトたちは裏手の階段を下り、洗濯路地から革なめしの小径へ――人目の少ない帯を縫い、城壁の灰運び口へ向かった。
「夜明けは、ここの見張りが緩んでるから。こっちから行くよ」
「了解」ヴァレンが短く言う。
ノアトの光靄外套が淡く揺れ、朝靄に溶けるように輪郭を曖昧にした。
眠たげな下役の衛兵が欠伸を噛み、荷車を通す隙をつくる。三人と一匹はその影をすり抜け、壁外へ出た。
踏みしめる土は乾き、遠くに黒い坑口群が連なる。
ヴァレンが指で地図を弾いた。
「表道は使わない。北西の採掘道へ。半日で廃坑に入る」
珍ドラが小さくパタパタと跳ねる。
足元の**跳躍靴**が“トン”と鳴り、体がふわりと浮いた。
「……おい、跳び過ぎるな。視線を集める」
「吾輩、忍び足で跳ぶっていう!」
灰の野を切るように歩を速める。振り返れば城壁の上で小さく旗が揺れた。
まだ追っ手の影はない――が、油断はしない。
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午前、スラグ丘(鉱滓の盛り土)を越える。
錆びた手押し車、折れた枕木。風が鳴り、砂利が小さく流れる。
「前方、坑夫の小屋。犬がいるよ」ノアトが囁く。
廃屋の陰で、やせた犬がこちらを見つめ、喉の奥で声をためていた。吠えれば、音は斜面に反響して広がる。
スミレがノアトの袖をそっと摘む。
うなずき合うと、彼女は首からぶらさげた小瓶と吹き棒を取り出す。
息をひと匙、泡をひと粒――囁泡が犬の鼻先で弾ける。
『……ほえるな』
犬の耳が伏せ、目がとろんと和らいだ。尻尾が一度だけ小さく振られ、やがて土の上に丸くなって目を閉じる。
犬が落ち着いたのを見て、「ナイス」とノアトはスミレに囁く。
(こくん)とスミレは頷いて返事をする。
「まぁ、無茶はするなよ」ヴァレンが囁き、先に立つ。
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日が中天にかかる頃、乾いた沢筋で短い休憩を取る。
水袋を回し、干し果実をひとかけ。珍ドラは岩の上で“トン、トン”と控えめに跳んで視界を確かめる。
「前方、二百――三百。灰の舞い上がり、三騎」ヴァレンの目が細くなる。
「え、黒蔦?」
「恐らくな。こっちの足を読む前に、影に入るぞ」
再び歩く。採掘道は細く、片側は崖。
崩れた桟橋の前で足が止まった。板は落ち、向こう岸まで三間ほどの裂け目。
「縄をかけるから。先に行くよ」ノアトが言い、身を沈める。
「吾輩が行くっていう!」珍ドラが一歩下がり、一歩踏み込む。リープブーツが響き、体がふわりと空へ――
「おわあっ」
高く飛んだはず、なのに前にはなぜか全然進んでいなかった。
「へ……平気だったっていう!」
「今のは“平気”じゃなくて“幸運”だ」ヴァレンがロープを渡しながらため息を混ぜる。
ロープが張られ、全員が向こうへ渡った。
狭い切通しを駆け抜け、鉱石を積み出していた枝道に滑り込む。
息がそろい、足音だけが流れる。
速さの中で、スミレの指が小さく震えた。泡笛に触れ――けれど、やめる。温存。
代わりに、ノアトの背へ視線で合図を送る。
ノアトは短く頷き、手の高さで右左の角を指し示す。
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午後、風向きが変わる。土と鉄の匂いに、遠い煙の匂いが混じる。
ヴァレンが最後尾で一瞬だけ立ち止まり、爆符を一枚、崩れやすい岩棚に差し込んだ。
「遅延用。誰もいない時にだけ使う」
「やり過ぎないようにね」
「分かってる」
そのまま稜線を回り、影の帯へ。
やがて、沈みかけた日が黒い横穴を縁取った。軌条が千切れ、風が抜ける古い坑道――今日の宿だ。
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坑内は浅い枝で閉じ、灯を一つだけ。
ヴァレンが入口に細い鈴線とワイヤーを張る。珍ドラは石を集め、火床を作る“食べる担当の前職”に精を出す。
ノアトは外で拾った細い樹枝を削り、短い木の簪に仕立てた。
戻ってくると、スミレは布片で鍋と器を拭いていた。肩越しに声をかける。
鍋がコトコトと鳴り、三人と一匹が輪になる。
外では風が坑口を撫で、遠くで岩がひとつ落ちた音がした――が、鈴は鳴らない。
「明日の夜明け、見張塔まで抜ける」ヴァレンが短く告げる。
「交代で寝ろ。合図は指笛――おい、珍ドラ、口で」
「練習するっていう……ふ、ふぃ……ふんす!」
ボフッと珍ドラの鼻から煙が出た。
「それは笛じゃなくてブレスの準備だ」
ノアトは横になる。
息は深く、体は軽い。灰の街の重さが、少しずつ遠のいていく。
坑道の闇は冷たく、しかし今夜はやさしかった。
誰も来ないことを告げるかのように、鈴は終いまで鳴らなかった。
◆灰の公国ヴァルカデス編 帰路二日目
朝の冷えが残るうちに坑道を発ち、見張塔の影を回り込んで、灰の街の支配圏を抜けた。
正午前、崖下の小さな泉で足を止める。風が乾いていて、喉にやさしい水の匂いがした。
「ここで一息。追っ手の気配は薄い」ヴァレンが耳を澄ます。
「吾輩、休憩賛成っていう!」珍ドラは尻尾をぶんぶん振る。
ノアトが水を汲む間、スミレは岩陰に腰を下ろし、泡笛の紐を指でなぞった。
そんな時、ヴァレンの視線が珍ドラの**肩掛けポーチ**に吸い寄せられた。
「なぁ、それ。ずっと気になってたんだが」
「吾輩の宝っていう!」
「中身、見たことあるのか?」
「ないっていう!」
「なぜ胸を張る」
ヴァレンが額を押さえ、ポーチの口金を指で弾いた。
珍ドラはむっとして、得意げに顎を上げる。
「これは昔、冒険者のお兄さんにもらったっていう! “役に立つ”って言ってたっていう!」
「ほう。じゃあ今から役に立てよう」
「なっ、勝手に触らないでっていう!」
言いつつも、珍ドラの手は短い。
ヴァレンは《メカニカルガントレット》の細工指で器用に口金を押し広げ、暗い内側へ指を潜らせた。
――と、腕が肘までずぶりと沈む。
「ほう、空間拡張。 魔法鞄か? いいもん持ってんじゃねぇか」
「吾輩のセンスっていう!」
「もらい物だろ」
からん、と小さな瓶の音。ヴァレンが引き上げたのは、掌サイズの透明な筒だった。
ラベルに青い文字で、こう書かれている。
AQUA PELLET/アクアペレット
中には、水滴のように透明な丸い粒がいくつも詰まっている。瓶を傾けると、光が中で跳ねた。
製造元の欄は擦れて読めない。封蝋には意味の分からない刻印。
「製造方法、入手経路……不明。とりあえず怪しい」ヴァレンが鼻を鳴らす。
「でも、涼しそう」ノアトが笑い、瓶を受け取った。
「吾輩の宝から出たやつは美味いはずっていう!」
「根拠が胃袋…。開けて見るよ?」
ノアトが封を切り、丸い粒をひとつ掌に転がす。
スミレがじっと見つめる。光を飲み込んだ小さな水玉――水玉ラムネだ。
「まずは俺から」ノアトは歯でそっと割った。
ぷちん、と薄膜が壊れ、ひんやりした炭酸の水が舌に弾ける。
「……っ! ……これ、目が覚める。喉が潤う、すごいねこれ」
「貸せ」ヴァレンも一粒。
ぷち。
「――ッ! なるほど、炭酸。ミントか? 頭が冴える。疲労も少し飛ぶな」
「吾輩も! 吾輩もっていう!」珍ドラが一粒を丸呑み――
ぼこっ。
「鼻から泡出たっていう!! すごいっていう!!」
「食べ方に個性を出すな」
スミレは小さく指を伸ばし、ノアトから一粒受け取った。
掌の上で転がる水玉が、彼女の紫の瞳を映す。
そっと唇に触れさせる――ぷち。
冷たい水が喉を撫でる。
驚いたように瞬いて、スミレは小さな声で呟いた。
「……おいし」
ヴァレンがポーチを軽く持ち上げる。
「で、これは宝の袋ってことでいいのか?」
「吾輩の宝袋っていう!」
「試しに、外の物を入れてみるか」
ヴァレンは自分のスパナをつまみ、ポーチの口へ“ちょい”と差し入れた。
次の瞬間、ぴょんっとスパナが飛び出す。
きれいに弾かれて、地面にくるくる回転して落ちた。
「……おい」
「拒否反応?選り好みの強い胃袋なんだ」
「じゃあ小石」ノアトが拾った石を入れてみる。
ぴょこん。石は跳ね返ってノアトの額に――
「いって…」
命中した。
「吾輩の宝袋、選ぶっていう!」珍ドラが胸を張る。
「食い物専用か、初期登録品のみか……いずれにせよ、妙だな」ヴァレンが口角を上げる。
「便利っていう!」
「便利“だけど”謎。製造方法不明、入手経路不明。お前、ほんとにどこで貰った」
「昔、道で会った冒険者のお兄さんが“似合う”って言って渡してくれたっていう!」
「似合う……(ため息)まあ、確かにお前にしか似合わねぇ」
ポーチの口は、食料とアクアペレットだけを素直に飲み込み、他の小物は“自販機の不正コイン”みたいに突き返してくる。
ノアトが肩をすくめた。
「用途が明確で助かるね。腹が減っても安心だこれは」
「吾輩、いつでも安心っていう!」
「お前はいつでも腹が減ってるだろ」
軽口が風に流れ、泉のきらめきが頬を冷やす。
スミレは瓶のラベルをもう一度見つめた。
AQUA PELLET――
製法も、由来も分からない。
ヴァレンが立ち上がる。
「よし、行くか」
「了解」とノアトが頷き、スミレは小さくこくりと頷いた。
返事をするように、わあっと変な声で鳴く珍ドラ。
「吾輩、跳びながら行くっていう!」
ヴァレンは短い尻尾を掴んだ。
「跳ぶな。歩け」
「ひどいっていう!」
笑いながら一行は再び歩き出す。
灰の国は遠ざかり、風は少しだけやさしくなっていた。




