表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/25

灰の公国ヴァルカデス編 ―スミレの言葉―



 刺客を振り切った一行は、門前通りの少し良い宿に部屋を取った。厚い扉、二重錠、窓には鉄格子。廊下には夜番が立ち、酒場の喧噪もここまでは届かない。

 スミレは寝台の縁に腰を下ろし、胸元で泡笛を握りしめていた。初めての言霊――泡に込めたたった一言が、思った以上に魔力を吸ったのだろう。頬に微かな熱が残り、息は浅い。


(言葉は、届く。……でも、傷つけることもできる)

(声が戻ったら――気をつけて話そう。ひとつひとつ、選ぶように)


 そんな決意を胸の奥でそっと結ぶ。


 ノアトは荷ほどきをしながら、珍ドラに包みを差し出した。

「ほら、これ。靴型遺物、跳躍靴リープブーツ

蹴れば前に飛ぶ。護衛も少しは“戦える”に変わるんじゃない?」


 珍ドラは目をまん丸にして、ちょこんと履く。

「おお……なんだか足に馴染むっていう! なんか、使い方分かるっていう!」


「それ使いにくいのに…もしかして天性のセンスある?」

 ノアトが苦笑する横で、ヴァレンが肩をすくめた。

「夕飯の支度、材料が足りねぇ。買い出し行ってくる。――おい珍ドラ、荷持て」

「任せろっていう! 帰りにおやつも買うっていう!」

「却下だ」

「ひどいっていう!」


 珍ドラとヴァレンはわいわいと出て行った。扉が閉まると、部屋に静けさが戻る。

 残されたのはノアトとスミレだけ。灯りの炎が、壁に柔らかな影を揺らす。


 ノアトは椅子を引き、スミレの正面に腰を下ろした。

「……さっきは助かった。おかげで誰も倒れずに済んだよ」

 スミレは小さく首を振る。――いいえ、と。

「でも、無理はしないで。泡に乗せた言葉、同時に魔力も削ってるみたい。限界はあるんだね」


 スミレの指が、毛布の端をぎゅっと摘む。

 ノアトは少しだけ身を屈め、前髪の影に隠れた彼女の顔を覗き込んだ。

 右の瞳は、深い紫。左は、色彩を奪われた灰。


「……こっち、見えてる?」

 ノアトの指先が、ごくわずかに空を指す。

 スミレは一瞬だけ迷って、それからこくりと頷いた。

 見えている――でも、色はない。そう言うように、灰の瞳が静かに瞬く。


「そっか」

(これも呪われたせいなのかな…)

ノアトは妹に接するみたいに微笑む。


 

 ノアトの声は、驚くほど優しかった。

 言葉が、ふっと胸の奥に沁みる。

 どうしてだろう、怖くない。

 この人の声だけは、刃にならないと分かる。


(……少し、開けてもいいのかな。心を)


 スミレはそっと泡笛を外套の下にしまい、両手を膝の上で重ねた。

 喉の奥――長く閉ざされていた扉に。

 出ないことを知っている。痛むことも。

 それでも、たった一言だけなら。


「…………」

 唇が、かすかに震えた。

 ノアトは急かさない。ただ、待つ。


 灯りが細く揺れ、夜風が窓の鉄格子を撫でる。

 スミレは息をひとつだけ集め、祈るように放した。


「……ノ、アト……」


 ほんの、針の先ほどの声。

 それでも確かに、音が空気をわたった。


 ノアトの目が丸くなり、次の瞬間には柔らかく細まる。

「――うん、聞こえるよ」

 彼は立ち上がらず、ただそこから、届く距離で応える。


 スミレの胸の奥が、温かく溶けた。

 腕輪の冷たさが、少し遠のく。



「……ありが、と」

 もう一度、すべるような声が落ちた。


 言い切れない響きを、ノアトは笑みで受け止める。



 やがて、遠くから珍ドラの甲高い声と、ヴァレンのため息が近づいてくる。

「おやつは正義っていう!」

「会計の“正義”を学べ」


 扉の向こうのやりとりに、ノアトは肩をすくめ、スミレは目を細めた。



 言葉は刃にもなる――でも、守りにもなる。

 



 台所つきの部屋に灯がともる。

 卓上には、ヴァレンが抱えて帰ってきた紙包みがいくつも広がっていた。根菜、乾いた豆、角切りの塩漬け肉、香草、そして灰の国特有の苦みのある小粒の野菜。



「任せた。俺と珍ドラは“食べる担当”だ」

「吾輩、“二回おかわり担当”っていう!」



 どっちも担当から降ろしたい――とノアトはため息をつきつつ、腰に手ぬぐいを巻く。

 包丁がまな板に落ち、コトン、と軽い音。スミレが静かに隣へ立った。袖口を少し上げ、こちらを見上げて――動かない。指示待ちだ。


「じゃあ、俺が切るから……スミレは、これを鍋に入れていって」

(こくん)


 角切りの肉、玉ねぎ、根菜。ノアトが一定のリズムで刻み、スミレが両手の小さな器に受け取っては、傾ける。鍋に落ちた瞬間、油がやわらかく鳴く。

 スミレが香草をちぎる手も、ぎこちないながら真剣だ。鍋から温かい湯気が上がる。

 鍋に水と豆を足し、灰の国の野菜を遅らせて投入。塩をひとつまみ、黒胡椒を砕いて、最後に香草をひと呼吸だけ焦がして落とす。

 部屋いっぱいに、温かい匂いがひろがった。



---


 湯気の向こうで、木の匙がぶつかる小さな音が続く。

 珍ドラは皿を抱え、尻尾を忙しく揺らし、ヴァレンは「熱いからゆっくり」と口では言いながら速度は落ちない。

 スミレは両手で器を抱え、ふっと冷ましてから口をつけた。頬にうっすら色が戻る。


「じゃ、明日の話だ」ヴァレンが匙を置く。

「任務は達成。後は帰るだけ――だが、馬車は目立つ。足もつく」

「徒歩で?」とノアトが問う。


「ああ。日の出と同時に出る。表道は避けて、北西の採掘道をつなぐ。半日歩いて廃坑の前で一度休む。二日目の夕方には国境の見張塔、そのまま森道に入ればブレストンは近い」




 ヴァレンは指を三本立てる。


「注意点、三つ。

 一、黒蔦の索敵は早い。町はずれで姿を消す。

 二、交代で仮眠。先頭ノアト、殿は俺。

 三、スミレは温存。珍ドラは鼻と耳、あと“跳躍靴”の偵察」

「跳んで見張るっていう! おかわり後でも跳べるっていう!」

「なんだその腹は。禁止だ、おかわり前に跳べ」

「ひどいっていう!」



 笑いが湯気に混ざって上がった。

 スミレは器を持つ手を少しだけ緩め、ノアトを見た。紫の瞳が静かに光る。

 ノアトは、うん、と短く頷き返す。「無理はさせない」の意味を込めて。


「……今日は早めに寝るぞ。灯は最小、荷は枕元」


 皿が空になり、鍋の底が見える。

 いつもより早く、灯が落とされた。毛布の音、呼吸の音。窓の外で灰の風が小さく擦れる。


 ノアトは横になり、目を閉じる。

 鍋の温もりだけが、夜の底で長く残っていた。



 スミレは部屋で静かに座っていた。

 外の音を聞きながら、

 ふと自分の左腕――《共鳴腕輪》に触れる。


 黒い腕輪は冷たい。

 最近はほんの少し“温かさ”を感じるようになっていた。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ