灰の公国ヴァルカデス編 ―スミレの言葉―
刺客を振り切った一行は、門前通りの少し良い宿に部屋を取った。厚い扉、二重錠、窓には鉄格子。廊下には夜番が立ち、酒場の喧噪もここまでは届かない。
スミレは寝台の縁に腰を下ろし、胸元で泡笛を握りしめていた。初めての言霊――泡に込めたたった一言が、思った以上に魔力を吸ったのだろう。頬に微かな熱が残り、息は浅い。
(言葉は、届く。……でも、傷つけることもできる)
(声が戻ったら――気をつけて話そう。ひとつひとつ、選ぶように)
そんな決意を胸の奥でそっと結ぶ。
ノアトは荷ほどきをしながら、珍ドラに包みを差し出した。
「ほら、これ。靴型遺物、跳躍靴。
蹴れば前に飛ぶ。護衛も少しは“戦える”に変わるんじゃない?」
珍ドラは目をまん丸にして、ちょこんと履く。
「おお……なんだか足に馴染むっていう! なんか、使い方分かるっていう!」
「それ使いにくいのに…もしかして天性のセンスある?」
ノアトが苦笑する横で、ヴァレンが肩をすくめた。
「夕飯の支度、材料が足りねぇ。買い出し行ってくる。――おい珍ドラ、荷持て」
「任せろっていう! 帰りにおやつも買うっていう!」
「却下だ」
「ひどいっていう!」
珍ドラとヴァレンはわいわいと出て行った。扉が閉まると、部屋に静けさが戻る。
残されたのはノアトとスミレだけ。灯りの炎が、壁に柔らかな影を揺らす。
ノアトは椅子を引き、スミレの正面に腰を下ろした。
「……さっきは助かった。おかげで誰も倒れずに済んだよ」
スミレは小さく首を振る。――いいえ、と。
「でも、無理はしないで。泡に乗せた言葉、同時に魔力も削ってるみたい。限界はあるんだね」
スミレの指が、毛布の端をぎゅっと摘む。
ノアトは少しだけ身を屈め、前髪の影に隠れた彼女の顔を覗き込んだ。
右の瞳は、深い紫。左は、色彩を奪われた灰。
「……こっち、見えてる?」
ノアトの指先が、ごくわずかに空を指す。
スミレは一瞬だけ迷って、それからこくりと頷いた。
見えている――でも、色はない。そう言うように、灰の瞳が静かに瞬く。
「そっか」
(これも呪われたせいなのかな…)
ノアトは妹に接するみたいに微笑む。
ノアトの声は、驚くほど優しかった。
言葉が、ふっと胸の奥に沁みる。
どうしてだろう、怖くない。
この人の声だけは、刃にならないと分かる。
(……少し、開けてもいいのかな。心を)
スミレはそっと泡笛を外套の下にしまい、両手を膝の上で重ねた。
喉の奥――長く閉ざされていた扉に。
出ないことを知っている。痛むことも。
それでも、たった一言だけなら。
「…………」
唇が、かすかに震えた。
ノアトは急かさない。ただ、待つ。
灯りが細く揺れ、夜風が窓の鉄格子を撫でる。
スミレは息をひとつだけ集め、祈るように放した。
「……ノ、アト……」
ほんの、針の先ほどの声。
それでも確かに、音が空気をわたった。
ノアトの目が丸くなり、次の瞬間には柔らかく細まる。
「――うん、聞こえるよ」
彼は立ち上がらず、ただそこから、届く距離で応える。
スミレの胸の奥が、温かく溶けた。
腕輪の冷たさが、少し遠のく。
「……ありが、と」
もう一度、すべるような声が落ちた。
言い切れない響きを、ノアトは笑みで受け止める。
やがて、遠くから珍ドラの甲高い声と、ヴァレンのため息が近づいてくる。
「おやつは正義っていう!」
「会計の“正義”を学べ」
扉の向こうのやりとりに、ノアトは肩をすくめ、スミレは目を細めた。
言葉は刃にもなる――でも、守りにもなる。
台所つきの部屋に灯がともる。
卓上には、ヴァレンが抱えて帰ってきた紙包みがいくつも広がっていた。根菜、乾いた豆、角切りの塩漬け肉、香草、そして灰の国特有の苦みのある小粒の野菜。
「任せた。俺と珍ドラは“食べる担当”だ」
「吾輩、“二回おかわり担当”っていう!」
どっちも担当から降ろしたい――とノアトはため息をつきつつ、腰に手ぬぐいを巻く。
包丁がまな板に落ち、コトン、と軽い音。スミレが静かに隣へ立った。袖口を少し上げ、こちらを見上げて――動かない。指示待ちだ。
「じゃあ、俺が切るから……スミレは、これを鍋に入れていって」
(こくん)
角切りの肉、玉ねぎ、根菜。ノアトが一定のリズムで刻み、スミレが両手の小さな器に受け取っては、傾ける。鍋に落ちた瞬間、油がやわらかく鳴く。
スミレが香草をちぎる手も、ぎこちないながら真剣だ。鍋から温かい湯気が上がる。
鍋に水と豆を足し、灰の国の野菜を遅らせて投入。塩をひとつまみ、黒胡椒を砕いて、最後に香草をひと呼吸だけ焦がして落とす。
部屋いっぱいに、温かい匂いがひろがった。
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湯気の向こうで、木の匙がぶつかる小さな音が続く。
珍ドラは皿を抱え、尻尾を忙しく揺らし、ヴァレンは「熱いからゆっくり」と口では言いながら速度は落ちない。
スミレは両手で器を抱え、ふっと冷ましてから口をつけた。頬にうっすら色が戻る。
「じゃ、明日の話だ」ヴァレンが匙を置く。
「任務は達成。後は帰るだけ――だが、馬車は目立つ。足もつく」
「徒歩で?」とノアトが問う。
「ああ。日の出と同時に出る。表道は避けて、北西の採掘道をつなぐ。半日歩いて廃坑の前で一度休む。二日目の夕方には国境の見張塔、そのまま森道に入ればブレストンは近い」
ヴァレンは指を三本立てる。
「注意点、三つ。
一、黒蔦の索敵は早い。町はずれで姿を消す。
二、交代で仮眠。先頭ノアト、殿は俺。
三、スミレは温存。珍ドラは鼻と耳、あと“跳躍靴”の偵察」
「跳んで見張るっていう! おかわり後でも跳べるっていう!」
「なんだその腹は。禁止だ、おかわり前に跳べ」
「ひどいっていう!」
笑いが湯気に混ざって上がった。
スミレは器を持つ手を少しだけ緩め、ノアトを見た。紫の瞳が静かに光る。
ノアトは、うん、と短く頷き返す。「無理はさせない」の意味を込めて。
「……今日は早めに寝るぞ。灯は最小、荷は枕元」
皿が空になり、鍋の底が見える。
いつもより早く、灯が落とされた。毛布の音、呼吸の音。窓の外で灰の風が小さく擦れる。
ノアトは横になり、目を閉じる。
鍋の温もりだけが、夜の底で長く残っていた。
スミレは部屋で静かに座っていた。
外の音を聞きながら、
ふと自分の左腕――《共鳴腕輪》に触れる。
黒い腕輪は冷たい。
最近はほんの少し“温かさ”を感じるようになっていた。




