灰の公国 ヴァルカデス編 市場の喧騒
曇天の朝。
灰色の空から微かな光が差し込み、宿の窓を白く染めていた。
湯気混じりのパンの匂いが部屋に漂い、テーブルには全員集まって話し合いを始めようとしていた。
ノアトが確認するように言う。
「さて……とりあえず今後の動き、考えとく?」
ベッドの隅ではスミレが小さく膝を抱え、静かに窓の外を眺めている。
ノアトの言葉に顔を上げるものの、相変わらず言葉はない。
ヴァレンは椅子を傾け、書類を指で叩きながらぼやく。
「黒蔦の連中に顔覚えられた以上、もう安全圏じゃねぇ。商品もパクったしいずれ追っ手が来るだろうな」
ノアトが馬車に積んであったヴァルカデスの地図を広げる。
灰の街を囲む防壁、その外には鉱山と砂地。
逃げ場は少ない。
「うーん、一旦ちゃんと装備を整える?武器の手入れ、あと回復薬と携行食。今のうちに市場を回っておくべきかも」
「おう、そうだな――」
ノアトの提案に対しヴァレンは肯定する。そのあとに隣を見たあと…ヴァレンが珍ドラを指差す。
「こいつ、飯以外にも使い道あるのか?」
「吾輩、万能っていう!」
「ほう? 火とか吐けんのか?」
「……吐けないっていう!ボフッ…」
ワァっと鳴いた珍ドラの口から煙。
一瞬の沈黙。
ヴァレンが口角を上げた。
「お前、竜を名乗る資格ねぇだろ」
珍ドラは胸を張って言い返す。
「ブレスは吐けないけど、食べ物の匂いは百メートル先から分かるっていう!」
「もう犬じゃんそれ」
笑いがこぼれた。
スミレの口元にも、かすかな影のような笑みが浮かんだ。
ノアトが柔らかく声をかける。
「あっ、スミレ。今日は危ないかもしれない。
俺たちは市場で準備してくるから、ここで待ってて」
スミレは少し俯いた後、小さく頷いた。
手の甲を握りしめる仕草が、ほんのわずかに不安を滲ませていた。
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昼過ぎ。
ヴァルカデスの市場は灰のような喧騒に包まれていた。
露店には金属片や古遺物の残骸が並び、
売り声が金属音のように響く。
「こっち、武器の手入れできそうな鍛冶屋ある」
「あー、オイルとスパナも買っとくか。
ガントレット、昨日の爆発で焦げてんだ」
ヴァレンは工具を物色し、ノアトは回復薬を数本購入する。
珍ドラは香草屋の前で立ち止まり、鼻をひくひくさせていた。
「お腹減ったっていう……」
「お前、朝食っただろ」
「昼は別腹っていう!」
「竜もどきのくせに胃だけ立派だな」
「吾輩、燃費悪いっていう!」
「お前のどこにエネルギー消費してる行動あるんだよ……」
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夕方。
宿に戻ると、部屋の灯りが柔らかく灯っていた。
スミレは窓辺に座り、ノアトたちの帰りを待っていたようだ。
振り向いたその瞳は、昨日よりも少しだけ明るい。
「ただいまー」
ノアトが微笑みかけると、スミレは小さく頷いた。
その動作はぎこちないが、どこか嬉しそうでもあった。
ヴァレンが荷を下ろし、珍ドラが食材を抱えて跳ね回る。
「吾輩、肉買ったっていう! 煮込みにするっていう!」
「お前が作る気か?」
「食べる係っていう!」
「だろうな…」
「いいよ、作るから待ってて」
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夜。
鍋の湯気が立ち上り、宿の部屋は香ばしい匂いで満たされた。
ノアトが味を確かめながら匙を回す。
「うん、悪くない。灰の国の野菜でも結構いけるな」
「飯がうまいなら、どんな国でも住めるっていう!」
「食うために生きてるのか?」
「生きるために食うっていう!」
「名言っぽく聞こえるのが腹立つな……」
ヴァレンがぼやきつつもノアトから皿を受け取り、
スミレの前にもスープを置いた。
「……はい、冷めないうちに」
スミレは少し躊躇してから、両手で皿を持ち、
そっと口をつけた。
頬にほんのり色が差す。
「……うまい?」
「(こくん)」
彼女の頷きに、ノアトは微笑んだ。
その瞬間、彼女の左腕の黒い腕輪が、
かすかに脈打つように光った――ほんの一瞬だけ。
「……よかった」
「どうした?」とヴァレンが尋ねる。
「いや……なんでもないよ」
ノアトは視線を落とし、スミレの横顔を見つめた。
彼女の瞳はまだ静かだったが、
その奥には、確かに“生きている光”が宿り始めていた。
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その夜、珍ドラはいびきをかき、ヴァレンは机でうたた寝をした。
ノアトは灯を落としながら、スミレに小声で呟く。
「明日から、もう少し安全な場所を探そっか」
スミレは眠る前のようにまぶたを閉じ、
小さく頷いた。
――灰の街に、小さな温もりが灯った夜だった。
隣には、ノアトの外套に包まれた少女が座り込んでいる。
それでも、まだどこか人形のように静かだった。
◆泡に宿る言葉
市場の喧騒は、昼の陽射しとともに穏やかに揺れていた。
通りには香辛料の匂いと笑い声が混じり、久しぶりに「戦いのない日」が流れていた。
スミレは人混みの端を歩いていた。
籠いっぱいの果物、光る遺物の露店――そのどれにも目を向けず、
彼女はただ、子供たちの笑い声の方へ視線を向けた。
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噴水のそばで、小さな子供たちが走り回っていた。
彼らの手には、小さなガラス瓶と吹き棒。
吹き棒をくわえるたび、虹色の泡が空へと舞い上がり、
太陽の光を受けて、空気の中にきらめく花を咲かせていた。
スミレは立ち止まる。
(……綺麗な、泡…)
泡が光を透かして弾けるたび、心の奥で何かが揺れた。
──わたしも、誰かとこんなふうに笑えるのかな。
けれど今は、声も出せず、笑うことさえできない。
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「お姉ちゃんも、やる?」
ひとりの小さな男の子が、手に持っていた吹き棒を差し出した。
スミレは目を瞬かせ、戸惑いながらも受け取る。
子供たちは屈託なく笑っている。
その光景を見て、彼女の胸の奥で、何かがやさしく疼いた。
声を出せない彼女は、
それでも――「ありがとう」と言いたかった。
ほんの一言でいい。
この優しさに、どうか応えたかった。
スミレは吹き棒をそっと唇に当てた。
肺の奥にわずかな息を集め、
ゆっくりと、祈るように吹き出す。
風が吹いた。
ひとつの泡が、ふわりと空へ浮かぶ。
それは他の泡よりも少し大きく、淡く、そして――
淡い光を抱いたその泡は、まるで彼女の想いそのもののように、
ゆらゆらと揺れながら、ひとりの子供の頬に触れた。
ぷつん、と小さな音がした。
その瞬間――
「……今の、なに? 誰かの……声、したよ?」
「うん……聞こえた!“ありがとう”って……!」
子供たちがざわめいた。
見上げる空には、まだいくつもの泡が漂っている。
けれど、今弾けたその一粒だけが、光の余韻を残していた。
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スミレは、はっと息を呑んだ。
喉が痛む。
けれど――確かに、伝わった。
声を出したわけではない。
けれど、心の底から「言いたい」と願った言葉が、
風と泡に乗って、他人の心へ届いた。
(……これが、わたしの……声?)
手の中の吹き棒を見つめる。
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少し離れた場所で、それを見ていたノアトがゆっくりと歩み寄る。
隣ではヴァレンが腕を組み、珍ドラがしっぽを揺らしていた。
「今の……見たか?」
「泡、光ってたっていう!」
「泡から子供らがなにか聞こえたって言ってたな……」
ノアトはスミレの手をそっと見つめた。
彼女の指先には、まだ小さな泡の雫が残っていた。
「……なんて言ったの?」
スミレは顔を上げた。
灰色と紫の瞳が、微かに光を宿す。
そして、唇を動かした。『ありがとう』
音はない。
けれどノアトは、スミレが言った言葉が分かった気がした。
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吹き棒の中の液体が陽光を受け、虹色の線を描く。
少年たちが吹いた小さな泡がいくつも空へ舞う。
そのどれもが、静かに消えていく。
けれどスミレの胸の奥には、
確かに一つだけ――残る音があった。
(……わたしの声、届くんだ……)
腕輪が、ほんの一瞬だけ淡い紫を帯びて脈動する。
心を閉ざした少女の内側で、
何かが、ゆっくりと溶け始めていた。
ヴァレンは訳が分からんといった感じでため息を吐く。
「……まったく、また面倒な才能を見つけたもんだ」
「吾輩も聞きたいっていう!」
「んじゃ、あれ借りてたまにはそのブレスとやらを吹いてみせろ」
「吹いたらおもちゃ焦げるっていう!」
「虹色で綺麗な泡だね」
笑い声と喧騒の中で、
スミレはもう一度小さく息を吹いた。
新しい泡が空に昇る。
――ありがとう。
◆ノアトたちが初めて聞こえた声は――
路地裏を抜けた先、灰に濁った市場の喧噪がぱっと割れた。
ノアトたちの足が石畳を叩く音に、振り向いた露店主が悲鳴を飲み込む。
黒蔦の刺繍を付けた男たちが、通りの両端から流れ込むように包囲してきた。
「間違いない、実験の腕輪ですよアレ」
「やっと見つけたか」
黒蔦の男たちは胸元から黒い銃型遺物を取り出す。
「……完全に包囲されてるな」
ヴァレンが舌打ちする。
「どうする…?」
ノアトが短く告げる。
「吾輩、たべても美味しくないっていう!」
珍ドラがノアトの背に張り付く。
その時だった。
ノアトの外套の裾を、小さな指がそっと掴んだ。
振り向くと、スミレがそこにいた。
胸の前で両手を固く組み、震える呼吸をひとつ整える。
――声は出ない。
スミレはポケットから、小さなガラス瓶と吹き棒を取り出した。
市場の子供にもらった、安っぽい遊び道具。
彼女はそっと吹き棒を唇に当て、祈りのように息を吹く。
淡い光を帯びた泡が、ふわり、と生まれた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
風が通り、泡は刺客たちの眉間へ静かに流れていく。
「おい、今それ――」
ヴァレンの言葉が、泡の揺らぎにかき消えた。
「泡を吹いて遊んでるとは、ずいぶんと――」
最前列の男の頬に、泡が触れてはぜる。
音はない。
だが、はじけた瞬間――命令が、身体の内側で聞こえる。
『……動くな』
刺客の瞳が揺れ、肩の筋が痙攣し、身体が硬直する。
そして次の泡が別の男のこめかみで割れる。
『……撃て』
腕が隣の男を狙い、添えている指が勝手に引き金を引いた。
「おいテメェ、なにやって……」
さらに一人。
数人分の呼吸が同時に詰まり、時間が凍る。
「今だ、抜けるよ!」
ノアトが低く叫ぶ。
「おいおい……マジで、泡が効いてるのか…?」
ヴァレンが目を細める。
「吾輩、今だけ盾やるっていう!」
珍ドラが胸を張って前へ踊り出た。
足止めされた男たちの間隙へ、ノアトが滑り込み、ヴァレンが爆符で通路を拓く。
「了解。……スミレ、続け!」
ヴァレンが振り返らずに告げる。
スミレは首を小さく縦に振った。
けれど、指先が痺れる。視界の端が白んでいく。
拘束は永遠ではない――数呼吸、それでも十分だった。
――五つ目を作ろうとして、吹き棒がかすかに震えた。
「無理しないで」
ノアトが手首を取って制した。
「よくやった、十分だ!」
ヴァレンがワイヤーを再射出し、最後の一人の足を刈る。
足止めが解けた刺客たちが、遅れて怒号を上げる。
だが、もう遅い。
三人と一匹は、角を抜け、布屋のテントを翻して裏手の階段へ消えた。
---
人気のない裏路地。
灰の風が通り抜け、遠くで鐘が鳴る。
ヴァレンが息を吐き、壁に背を預けた。
「……はは。とんでもねぇ芸を隠してやがったな」
ノアトが覗き込む。スミレは肩で息をしながら、吹き棒を胸に抱いていた。
「あれがスミレの…“声”なのか」
スミレは返事の代わりに、そっとひとつだけ泡を作った。
小さく、儚い泡。
それがノアトの胸元で静かに弾ける。
『……うん』
音はない。
けれど、確かに届いた。
ヴァレンが口の端を上げる。
「ただし、限界は覚えとけ。今ので四、五つが限界だ。次は俺が前を張る」
「吾輩も張るっていう! 盾は嫌だけど前張るっていう!」
ノアトが苦笑し、スミレの頭にそっと手を置いた。
灰の空の下――
泡はすぐに消える。
けれど、弾けるその一瞬に宿るものが、確かに世界を変えた。
スミレの祈りは、もう沈黙ではない。
**泡に宿る命令**は、戦場で初めてその力を示したのだった。




