表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/25

灰の公国 ヴァルカデス編 市場の喧騒


曇天の朝。


 灰色の空から微かな光が差し込み、宿の窓を白く染めていた。

 湯気混じりのパンの匂いが部屋に漂い、テーブルには全員集まって話し合いを始めようとしていた。


ノアトが確認するように言う。

「さて……とりあえず今後の動き、考えとく?」



 ベッドの隅ではスミレが小さく膝を抱え、静かに窓の外を眺めている。

 ノアトの言葉に顔を上げるものの、相変わらず言葉はない。


ヴァレンは椅子を傾け、書類を指で叩きながらぼやく。

「黒蔦の連中に顔覚えられた以上、もう安全圏じゃねぇ。商品もパクったしいずれ追っ手が来るだろうな」



 ノアトが馬車に積んであったヴァルカデスの地図を広げる。

 灰の街を囲む防壁、その外には鉱山と砂地。

 逃げ場は少ない。


「うーん、一旦ちゃんと装備を整える?武器の手入れ、あと回復薬と携行食。今のうちに市場を回っておくべきかも」


「おう、そうだな――」

ノアトの提案に対しヴァレンは肯定する。そのあとに隣を見たあと…ヴァレンが珍ドラを指差す。


「こいつ、飯以外にも使い道あるのか?」

「吾輩、万能っていう!」

「ほう? 火とか吐けんのか?」

「……吐けないっていう!ボフッ…」


ワァっと鳴いた珍ドラの口から煙。

一瞬の沈黙。

ヴァレンが口角を上げた。


「お前、竜を名乗る資格ねぇだろ」


 珍ドラは胸を張って言い返す。

「ブレスは吐けないけど、食べ物の匂いは百メートル先から分かるっていう!」


「もう犬じゃんそれ」


 笑いがこぼれた。

 スミレの口元にも、かすかな影のような笑みが浮かんだ。


 ノアトが柔らかく声をかける。

「あっ、スミレ。今日は危ないかもしれない。

俺たちは市場で準備してくるから、ここで待ってて」



 スミレは少し俯いた後、小さく頷いた。

 手の甲を握りしめる仕草が、ほんのわずかに不安を滲ませていた。



---


 昼過ぎ。

 ヴァルカデスの市場は灰のような喧騒に包まれていた。

 露店には金属片や古遺物の残骸が並び、

 売り声が金属音のように響く。


「こっち、武器の手入れできそうな鍛冶屋ある」

「あー、オイルとスパナも買っとくか。

ガントレット、昨日の爆発で焦げてんだ」



 ヴァレンは工具を物色し、ノアトは回復薬を数本購入する。

 珍ドラは香草屋の前で立ち止まり、鼻をひくひくさせていた。


「お腹減ったっていう……」

「お前、朝食っただろ」

「昼は別腹っていう!」

「竜もどきのくせに胃だけ立派だな」

「吾輩、燃費悪いっていう!」

「お前のどこにエネルギー消費してる行動あるんだよ……」



---


 夕方。

 宿に戻ると、部屋の灯りが柔らかく灯っていた。

 スミレは窓辺に座り、ノアトたちの帰りを待っていたようだ。

 振り向いたその瞳は、昨日よりも少しだけ明るい。


「ただいまー」

 ノアトが微笑みかけると、スミレは小さく頷いた。

 その動作はぎこちないが、どこか嬉しそうでもあった。


 ヴァレンが荷を下ろし、珍ドラが食材を抱えて跳ね回る。


「吾輩、肉買ったっていう! 煮込みにするっていう!」

「お前が作る気か?」

「食べる係っていう!」

「だろうな…」

「いいよ、作るから待ってて」


---


夜。

鍋の湯気が立ち上り、宿の部屋は香ばしい匂いで満たされた。

 ノアトが味を確かめながら匙を回す。


「うん、悪くない。灰の国の野菜でも結構いけるな」

「飯がうまいなら、どんな国でも住めるっていう!」

「食うために生きてるのか?」

「生きるために食うっていう!」

「名言っぽく聞こえるのが腹立つな……」


 ヴァレンがぼやきつつもノアトから皿を受け取り、

 スミレの前にもスープを置いた。


「……はい、冷めないうちに」



 スミレは少し躊躇してから、両手で皿を持ち、

 そっと口をつけた。

 頬にほんのり色が差す。


「……うまい?」

「(こくん)」



 彼女の頷きに、ノアトは微笑んだ。

 その瞬間、彼女の左腕の黒い腕輪が、

 かすかに脈打つように光った――ほんの一瞬だけ。


「……よかった」

「どうした?」とヴァレンが尋ねる。

「いや……なんでもないよ」



 ノアトは視線を落とし、スミレの横顔を見つめた。

 彼女の瞳はまだ静かだったが、

 その奥には、確かに“生きている光”が宿り始めていた。



---


 その夜、珍ドラはいびきをかき、ヴァレンは机でうたた寝をした。

 ノアトは灯を落としながら、スミレに小声で呟く。


「明日から、もう少し安全な場所を探そっか」



 スミレは眠る前のようにまぶたを閉じ、

 小さく頷いた。


 ――灰の街に、小さな温もりが灯った夜だった。

 隣には、ノアトの外套に包まれた少女が座り込んでいる。

 それでも、まだどこか人形のように静かだった。




◆泡に宿る言葉


 市場の喧騒は、昼の陽射しとともに穏やかに揺れていた。

 通りには香辛料の匂いと笑い声が混じり、久しぶりに「戦いのない日」が流れていた。


 スミレは人混みの端を歩いていた。

 籠いっぱいの果物、光る遺物の露店――そのどれにも目を向けず、

 彼女はただ、子供たちの笑い声の方へ視線を向けた。



---


 噴水のそばで、小さな子供たちが走り回っていた。

 彼らの手には、小さなガラス瓶と吹き棒。

 吹き棒をくわえるたび、虹色の泡が空へと舞い上がり、

 太陽の光を受けて、空気の中にきらめく花を咲かせていた。


 スミレは立ち止まる。

(……綺麗な、泡…)


 泡が光を透かして弾けるたび、心の奥で何かが揺れた。


 ──わたしも、誰かとこんなふうに笑えるのかな。


 けれど今は、声も出せず、笑うことさえできない。



---


「お姉ちゃんも、やる?」


 ひとりの小さな男の子が、手に持っていた吹き棒を差し出した。

 スミレは目を瞬かせ、戸惑いながらも受け取る。

 子供たちは屈託なく笑っている。

 その光景を見て、彼女の胸の奥で、何かがやさしく疼いた。


 声を出せない彼女は、

 それでも――「ありがとう」と言いたかった。

 ほんの一言でいい。

 この優しさに、どうか応えたかった。

 スミレは吹き棒をそっと唇に当てた。

 肺の奥にわずかな息を集め、

 ゆっくりと、祈るように吹き出す。


 風が吹いた。

 ひとつの泡が、ふわりと空へ浮かぶ。

 それは他の泡よりも少し大きく、淡く、そして――


 淡い光を抱いたその泡は、まるで彼女の想いそのもののように、

 ゆらゆらと揺れながら、ひとりの子供の頬に触れた。


 ぷつん、と小さな音がした。

 その瞬間――


「……今の、なに? 誰かの……声、したよ?」

「うん……聞こえた!“ありがとう”って……!」



 子供たちがざわめいた。

 見上げる空には、まだいくつもの泡が漂っている。

 けれど、今弾けたその一粒だけが、光の余韻を残していた。



---


 スミレは、はっと息を呑んだ。

 喉が痛む。

 けれど――確かに、伝わった。

 声を出したわけではない。

 けれど、心の底から「言いたい」と願った言葉が、

 風と泡に乗って、他人の心へ届いた。


(……これが、わたしの……声?)


 手の中の吹き棒を見つめる。



---


 少し離れた場所で、それを見ていたノアトがゆっくりと歩み寄る。

 隣ではヴァレンが腕を組み、珍ドラがしっぽを揺らしていた。


「今の……見たか?」

「泡、光ってたっていう!」

「泡から子供らがなにか聞こえたって言ってたな……」



 ノアトはスミレの手をそっと見つめた。

 彼女の指先には、まだ小さな泡の雫が残っていた。


「……なんて言ったの?」


 スミレは顔を上げた。

 灰色と紫の瞳が、微かに光を宿す。

 そして、唇を動かした。『ありがとう』

 音はない。 


けれどノアトは、スミレが言った言葉が分かった気がした。


---



 吹き棒の中の液体が陽光を受け、虹色の線を描く。

 少年たちが吹いた小さな泡がいくつも空へ舞う。


 そのどれもが、静かに消えていく。

 けれどスミレの胸の奥には、

 確かに一つだけ――残る音があった。


(……わたしの声、届くんだ……)


腕輪が、ほんの一瞬だけ淡い紫を帯びて脈動する。

心を閉ざした少女の内側で、

何かが、ゆっくりと溶け始めていた。



ヴァレンは訳が分からんといった感じでため息を吐く。

「……まったく、また面倒な才能を見つけたもんだ」

「吾輩も聞きたいっていう!」

「んじゃ、あれ借りてたまにはそのブレスとやらを吹いてみせろ」

「吹いたらおもちゃ焦げるっていう!」

「虹色で綺麗な泡だね」


 笑い声と喧騒の中で、

 スミレはもう一度小さく息を吹いた。

 新しい泡が空に昇る。


 ――ありがとう。



◆ノアトたちが初めて聞こえた声は――



路地裏を抜けた先、灰に濁った市場の喧噪がぱっと割れた。

 ノアトたちの足が石畳を叩く音に、振り向いた露店主が悲鳴を飲み込む。

 黒蔦の刺繍を付けた男たちが、通りの両端から流れ込むように包囲してきた。


「間違いない、実験の腕輪ですよアレ」

「やっと見つけたか」

黒蔦の男たちは胸元から黒い銃型遺物を取り出す。



「……完全に包囲されてるな」

ヴァレンが舌打ちする。

「どうする…?」

ノアトが短く告げる。

「吾輩、たべても美味しくないっていう!」

珍ドラがノアトの背に張り付く。



 その時だった。

 ノアトの外套の裾を、小さな指がそっと掴んだ。

 振り向くと、スミレがそこにいた。

 胸の前で両手を固く組み、震える呼吸をひとつ整える。


 ――声は出ない。


 スミレはポケットから、小さなガラス瓶と吹き棒を取り出した。

 市場の子供にもらった、安っぽい遊び道具。

 彼女はそっと吹き棒を唇に当て、祈りのように息を吹く。


 淡い光を帯びた泡が、ふわり、と生まれた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 風が通り、泡は刺客たちの眉間へ静かに流れていく。


「おい、今それ――」

ヴァレンの言葉が、泡の揺らぎにかき消えた。



「泡を吹いて遊んでるとは、ずいぶんと――」

 最前列の男の頬に、泡が触れてはぜる。

 音はない。


 だが、はじけた瞬間――命令が、身体の内側で聞こえる。


『……動くな』



 刺客の瞳が揺れ、肩の筋が痙攣し、身体が硬直する。

そして次の泡が別の男のこめかみで割れる。


『……撃て』


 腕が隣の男を狙い、添えている指が勝手に引き金を引いた。

「おいテメェ、なにやって……」

 さらに一人。


 数人分の呼吸が同時に詰まり、時間が凍る。



「今だ、抜けるよ!」

ノアトが低く叫ぶ。

「おいおい……マジで、泡が効いてるのか…?」

ヴァレンが目を細める。

「吾輩、今だけ盾やるっていう!」

珍ドラが胸を張って前へ踊り出た。



 足止めされた男たちの間隙へ、ノアトが滑り込み、ヴァレンが爆符で通路を拓く。

 


「了解。……スミレ、続け!」

ヴァレンが振り返らずに告げる。




 スミレは首を小さく縦に振った。

 けれど、指先が痺れる。視界の端が白んでいく。



拘束は永遠ではない――数呼吸、それでも十分だった。



 ――五つ目を作ろうとして、吹き棒がかすかに震えた。


「無理しないで」

ノアトが手首を取って制した。


「よくやった、十分だ!」

ヴァレンがワイヤーを再射出し、最後の一人の足を刈る。



 足止めが解けた刺客たちが、遅れて怒号を上げる。

 だが、もう遅い。

 三人と一匹は、角を抜け、布屋のテントを翻して裏手の階段へ消えた。



---


 人気のない裏路地。

 灰の風が通り抜け、遠くで鐘が鳴る。

 ヴァレンが息を吐き、壁に背を預けた。


「……はは。とんでもねぇ芸を隠してやがったな」


ノアトが覗き込む。スミレは肩で息をしながら、吹き棒を胸に抱いていた。

「あれがスミレの…“声”なのか」



 スミレは返事の代わりに、そっとひとつだけ泡を作った。

 小さく、儚い泡。

 それがノアトの胸元で静かに弾ける。


『……うん』



 音はない。

 けれど、確かに届いた。


ヴァレンが口の端を上げる。

「ただし、限界は覚えとけ。今ので四、五つが限界だ。次は俺が前を張る」

「吾輩も張るっていう! 盾は嫌だけど前張るっていう!」


ノアトが苦笑し、スミレの頭にそっと手を置いた。




 灰の空の下――

 泡はすぐに消える。

 けれど、弾けるその一瞬に宿るものが、確かに世界を変えた。


 スミレの祈りは、もう沈黙ではない。

 **泡に宿る命令ことば**は、戦場で初めてその力を示したのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ