第七章 灰の公国ヴァルカデス編
◆靄の外套と不健康な依頼人
朝のブレストンはいつもと変わらない喧噪に包まれていた。
市場の鐘が鳴り、パンの香ばしい匂いが通りを満たす。
ノアトは手をポケットに突っ込みながら、ゆったりとした足取りで《遺物調査局クロニカ》へ向かっていた。
木扉を押して中に入ると、冒険者たちのざわめきが一気に押し寄せてくる。
剣士たちは依頼を取り合い、魔導士は難しい顔で羊皮紙を読み込んでいた。
ノアトは壁際の掲示板の前に立ち、貼られた依頼書の束をなんとなく眺める。
「……盗難調査、害獣退治、護送依頼……どれも地味だなぁ。」
ぼそりとつぶやきながら、紙をめくるその手はまるで惰性。
依頼を選ぶより、眺めている時間のほうが長い。
そんなノアトに、突然、背後からかすれた声が落ちた。
「――君、少し……いいかな。」
振り向いた先にいたのは、骨ばった男だった。
病的なほど青白い顔、乾いた唇。
深い隈のある瞳がノアトをじっと見ている。
「君のその靄……もしや“ルーセントヴェール”だね?」
「あ、これ? この前ブローカーで買ったやつだけど……」
男は口元を歪め、笑ったのか痙攣したのかわからない表情を見せた。
「なるほど、やはり……闇の住人、か。
あの靄を纏って歩ける者は、普通じゃない……君なら、きっと相応しい。」
ルーセントヴェール――淡く靄を漂わせる外套型の遺物。
アメリア王女から譲られた品で、着ていると薄い光の靄が周囲に流れる。
どうやらそれを“闇の瘴気”と勘違いされたらしい。
「いや、その……ただのオシャレみたいなもんで――」
言い終える前に、男はポケットから一枚の依頼書を取り出し、ノアトの胸元に押し付けた。
「受けてくれ。この依頼を」
「……え、ちょ、ちょっと!」
ノアトが抗議する間もなく、男はそのまま背を向けて去っていく。
「なんなんだ……」
手元の依頼書には、走り書きのような筆跡でこう書かれていた。
――『魔力追跡装置護送依頼』
目的地:ヴァルカデス公国。
護衛人数:自由。4人分の飲食付
GR:自由。
役職:自由。
報酬:金貨五十枚。
「……報酬だけは妙に高いな」
ノアトは紙を持ったまま、受付カウンターへ歩いた。
カウンターの奥には、金髪のポニーテールを結んだ受付嬢フェリスがいつものように無表情で書類を整理している。
だが、ノアトが依頼書を差し出した瞬間、彼女の眉がぴくりと動いた。
「……ノアトさん、これ、どこで?」
「さっき、知らない男から押し付けられた」
「押し付けられた……?」
フェリスは書面を何度も見返した。
護送依頼、それ自体は珍しくない。
だが、依頼主の欄は――空白だった。
「護送先がヴァルカデス公国……?」
「有名な国?」
「……ええ、“灰の公国”。 商取引が盛んだけど……治安はよくありません。
あの国に行くなら、護衛はつけないと……」
フェリスの声には、珍しく迷いがあった。
彼女がこんな表情を見せるのは、ノアトにしては初めてのことだ。
「でも、依頼主が不明……それに“魔力追跡装置”って……何を護送するつもりなのか……」
フェリスは言葉を濁した。
彼女の目が一瞬、ノアトの外套の靄に向いた。
「……あまり、良い予感はしませんね。」
「まぁ、荷物運びくらいなら。大丈夫じゃない?」
軽く肩をすくめるノアト。
その楽観に、フェリスは小さくため息を漏らした。
「……分かりました、受理します。ただし――気をつけてください」
「了解」
印を押された依頼書を受け取ると、ノアトはギルドを後にした。
背中のルーセントヴェールがふわりと揺れ、淡い靄を残して消える。
その靄の中に、フェリスは小さく呟いた。
「……“魔力追跡装置”なんて名目、信用しないほうがいい」
だがその忠告は、扉の音に掻き消される。
ノアトの足音は、いつも通りに軽かった――
『灰の公国ヴァルカデス編 第1章 ― 護送隊結成 ―』
昼下がりのクロニカ支部。
依頼受付の奥で、フェリスは手元の書類を一枚めくり、深く息を吐いた。
「……この国は本当に、危険な依頼ばかりですね」
ぼそりと呟くと、机の上の呼び鈴を軽く叩いた。
音に反応して、背後の扉が軋みを上げる。
「呼んだか?」
現れたのは、赤銅色の髪を無造作に撫でつけた男――名はヴァレン・グリード。
黒革のコートの袖口から金属製の装具が覗いている。
眠たげな目でフェリスを見て、片手を上げた。
「まーた厄介事か? フェリス」
「あなた、そういう依頼しか残ってない時間にしか来ないじゃないですか…」
「おっと、図星か。んで、今回はどんな無茶だ?」
フェリスは苦笑を押し殺し、手元の依頼書を差し出した。
「護送依頼です。目的地はヴァルカデス公国。」
「……あの商魂の国か。行くだけで財布が軽くなりそうだな」
「治安が良くない国です。依頼内容も不明瞭。依頼主は――こちらに姿を見せていません。」
「不在依頼、ねぇ。気味が悪いな」
ヴァレンは指先で依頼書をひらりとめくり、鼻で笑った。
「……報酬は悪くないな。誰が行く?」
「ノアト・アルシエルさんです」
「あの“靄を纏った観察坊や”か」
「言い方」
フェリスが眉をひそめると、ヴァレンは軽く両手を上げた。
「冗談だ。……まぁ、退屈はしなさそうだし、護衛ってのも悪くない。引き受けた」
「……助かります」
フェリスが安堵の息を漏らした瞬間、ヴァレンは口角を上げた。
「でも、あとで飯おごれよ。命の保険料だ」
フェリスは真顔で返事を返す。
「検討します」
返事の速さにヴァレンは諦めた風に息をつく。
「却下する気満々だな…」
そう言い残し、ヴァレンはひらりと手を振って支部を出た。
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翌朝、ブレストンの市場。
露店が並ぶ通りに、ノアトの姿があった。
背には《ルーセントヴェール》の靄を纏い、淡い光を吐く。
荷馬車の準備を終え、馬の口を撫でているところに、声が飛んだ。
「おーい、靄の坊っちゃん。フェリスの使いだ」
ノアトは声のする方に振り向くと、片手をポケットに突っ込んだ男が立っていた。
黒革のコート、腕に光る機巧装具。
口の端には、いつもの皮肉な笑み。
「……フェリスの紹介?」
「ああ。心配してたぞ。“お前が何かやらかす”ってな」
「……信頼されてないなぁ」
「俺も似たようなもんだ。よろしくな、ノアト。俺はヴァレン・グリード」
二人は握手を交わす。
ヴァレンの手は冷たく、金属の感触が混じっていた。
「これは、機巧遺物?」
聞かれたヴァレンは腕を上げて、よく見えるようにみせる。
「お、よく分かったな。大体の奴は“武器職人”って勘違いするんだが」
「誰がいってるのそれ…」
軽口を交わす二人の前で、馬車の御者が声をかける。
「お二人さん。準備、できましたよ」
ノアトは頷き、馬車の荷台に荷を積み直す。
ヴァレンはその様子を見ながら、ぼそりと呟いた。
「荷物運びにしては、ずいぶん厳重だな?」
「中身は“魔力追跡装置”らしいよ。詳しくは知らないけど」
「へぇ……そりゃ、動く荷物かもなぁ」
その皮肉が、後に現実になることを、この時のノアトはまだ知らなかった。
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昼に差し掛かる頃。
馬車は街道沿いの丘で停まり、三人は昼食を取ることにした。
ノアトが木箱を開け、支給された肉とパンを並べる。
ヴァレンはガントレットで火花を起こし、手際よく湯を沸かした。
「おぉ。便利だなーそれ」
ノアトが、隣でガントレットで着火するところを観察していた。
「だろ? 火打石よりはマシだ」
そんな穏やかな空気の中――
唐突に、茂みががさりと揺れた。
「……ん?」
ノアトとヴァレンが同時に顔を上げる。
次の瞬間、黄緑の影が飛び出した。
「肉の匂いするっていう!」
突然小さな二足歩行のドラコニアンが、胸を張って現れた。
体は丸く、目は黒く大きい。
まるでどこかの吉祥物のような姿だ。
「……なんだなんだ。コイツ珍種の竜か?」
「吾輩、ドラコニアンっていう! 腹減った、食べ物くれっていう!」
変な口調のドラコニアンはノアトの目の前にずいっと顔を突き出した。
ノアトが引き気味に干し肉を差し出すと、ぱくりと奪い取り、頬張る。
「うまいっていう! 最高っていう!」
「……お前、ずいぶんと厚かましいなぁ」
「食べ物は命より大事っていう!」
ヴァレンは笑いながらパンをかじった。
「気に入った。ノアト、お前と同類だな」
「俺はもうちょっと礼儀…あると思うけど」
「吾輩、礼儀より飯っていう!」
「だってさ」
「確かにそれは同意見っていう」
笑い声が丘に響く。
腹を満たしたドラコニアンは、パン屑を払ってから胸を叩いた。
「吾輩、礼として護衛手伝うっていう!」
「お前がか?」
「吾輩、強いっていう!」
自信満々に尻尾を振るドラコニアンに、ヴァレンが肩をすくめる。
「……まぁ、雑魚でも盾くらいにはなるか」
「ひどいっていう!」
その日、ブレストンを出た護送隊は三人と一匹。
曇りがちな空の下を、馬車はゆっくりと西へ向かった。
灰色の雲が空を覆い始めた頃、馬車の揺れがゆるやかに続いていた。
車輪が乾いた道をきしませ、馬の吐息が白く揺れる。
道は長い。
しかし三人と一匹の旅は、思いのほか賑やかだった。
「なぁ珍種…今日からお前は“珍ドラ”だ」
「ちんどら……?」
ドラコニアンが首をかしげる。
ヴァレンはパンをちぎりながらにやりと笑った。
「悪くねぇだろ? 珍ドラ」
「うーん……まぁ、響き悪くないっていう! 採用っていう!」
「採用するの珍ドラを…」
「お前も気に入ってんじゃねぇか」
「まぁ、ちょっとだけ」
御者台から、商人がちらりと後ろを振り返った。
薄い顔色に、焦げ茶の外套。
どこか怯えたような目をしている。
「た、楽しい旅で……よかったですね」
気を遣わせたのかと思い、ヴァレンが返事をする。
「おう、悪いな。揺れは平気か?」
「ええ……ええ、まぁ……」
笑って答えるものの、商人の目はどこか落ち着かない。
手綱を握る指が、わずかに震えていた。
ノアトは何気なく荷台の奥へ目をやる。
厳重に覆われた黒い木箱が、馬車の揺れにあわせて微かに鳴った。
「随分、慎重な運びだよな。中、割れ物か?」
「え、えぇ! その……精密な装置でして!」
「へぇ、“魔力追跡装置”ってやつ?」
「そ、そうです! そうなんですよ!」
うわずる声と、あまりにも慌てた返事に、ヴァレンが片眉を上げた。
「そんなに取り乱すほど高価なのか?」
「は、はい。ですから……絶対に開けては……」
商人は言いかけて口をつぐんだ。
視線が泳ぐ。
額に浮いた汗を拭いもせず、手綱を強く握り直した。
沈黙が降りた。
しばらくの間、馬車の軋む音だけが響く。
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やがて、珍ドラが鼻をひくひくと動かした。
その仕草に、ノアトとヴァレンの視線が向く。
「どうした、珍ドラ」
「……なんか、変な匂いするっていう。」
「干し肉の匂いじゃねぇのか?」
「違うっていう。もっとこう……あったかくて、やわらかい匂い」
ヴァレンが半ば冗談交じりに笑う。
「パンが焦げてる匂いか?」
「違うっていう。……これ、獣の匂い?」
その一言に、空気が止まった。
風がやみ、灰色の雲が濃くなったように感じられる。
ノアトは視線をゆっくりと木箱に移した。
厚い布の下から、何も聞こえない――はずなのに、
確かに「何か」が息をしているような気がした。
「……おい、珍ドラ。冗談だろ」
「吾輩、冗談苦手っていう…」
ノアトが商人を見る。
商人の顔からは血の気が引いていた。
「……中身、確認しても?」
「だ、だめです! 絶対に開けては!」
叫ぶような声。
馬が驚き、前脚を上げて嘶く。
その様子に、ヴァレンが諭すように言う。
「落ち着け」
「す、すみません……ただ、ですがこれは……」
商人は言葉を詰まらせ、口を噤んだ。
何かを言おうとして――結局、言えなかった。
「まぁ、いいさ」
ノアトが小声で問う。
「……いいの?」
「依頼は護送だ。余計な詮索は報酬を減らす。
それに――」
「それに?」
ヴァレンは自分の頭を指差す。
「俺はこういう時、勘を信じる。……“嫌な予感”はまだしてねぇ」
ヴァレンのその一言が、わずかな安心を与えた。
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陽が沈む頃、遠くに見えたのは灰色の街並み。
鉱山の煙が漂い、どの建物も煤けた壁をしている。
空には太陽が霞み、常に靄が漂っていた。
「あれが……ヴァルカデス?」
「灰の公国って呼ばれる理由がよく分かるっていう」
「商人の国、ねぇ」ヴァレンが小さく吐き出すように呟く。
「価値のないものは一つもない――そんな顔をしてやがる」
馬車は街門へと進み、灰色の風が頬を撫でた。
その冷たさの中で、ノアトはふと振り返る。
荷台の黒布が、風にかすかに揺れていた。




