黒猫③〜ハルシア視点
ハルシア視点です。
前半は、少し時間がさかのぼります。
ある日、マリアのことが原因で黒猫を怒らせてしまった。
ああ、これでこの子も僕から離れていくかもしれない。
残念だったけど、わりとあっさりと諦めの気持ちを抱いていた。
人の関係はもろい。
昔はいつも一緒にいたほど親しかったベルサタンのように、人と人との間には、簡単に距離ができてしまう。
けれどこの件に関してはとにかく全面的に僕が悪くて、一言だけ謝ろうと彼女のもとを訪う。
謝りたいと思う相手がこの世にいるのであれば、そして謝ることが許されることならば、僕は謝罪をすると決めている。
相手がいなくなってからでは遅いのだ。
胸を引き裂かれるような後悔はもうたくさんだ。
本当に謝りたい人は、もうこの世にいないから。
謝罪の言葉をクレーツィアに聞いて欲しかった。
聞いてくれるだけでよかった。
こんなのは僕の自己満足だ。
それでも。
あの人には言えない「ごめん」の言葉――。
けれど彼女はそれを僕の自己満足で済ませてはくれなかった。
「2回分よ。歯を食いしばって」
「え?」
彼女が手を振り上げたとき、即座に叩かれるんだとわかった。
とっさに避けてしまわないように立ち、目をつぶって衝撃を享受する。
でも振り降ろされたそれは手のひらでなく、まさかの拳だった。
そして思ったより重いやつだった。
しかも顎にまで拳を入れてくるとは思わなくて、情けないけど僕はよろけて倒れてしまう。
あれ、この子、僕が王子だってもうわかってるんじゃなかったっけ?
「これで許してあげる、ハルシア。私たちの友情は元通りよ」
見上げた彼女が、凛として言った。
その言葉はまるで、透きとおった流水のように清らかな響きだった。
殴られた顔は、やはりというか、それなりに痛い。
けれどその痛みが代償だと彼女が言った。
なんの償いもなしに与えられる許しより、意味のあるものに思えた。
――これで許してあげる。
それは僕が、僕自身に欲していた言葉。
僕が人に与えたかった言葉。
言いたくて、言えなかった。
言われたくて、言われなかった。
なのに、彼女はまるでそれが自然なのことのように口にした。
彼女がためらいなく手を差し伸べてくれたとき、僕は目が覚めた感覚がしたんだ。
ーークレーツィアは、清らかな水に似ている。
そのとき僕は……彼女のようになりたいとすら、思った。
___________________________
その彼女の目は今、不安に揺れていた。
こちらの様子をうかがう瞳は、瞳孔が細く開いた不自然なものだった。
「私たち竜の国の民は、自分たちを異種族だとは思っていないわ。同じ人間よ。あなたたちと少しちがうところがあるだけ」
クレーツィアは僕が見慣れないものに畏怖した一瞬を、見逃さなかった。
今も感じているこの戸惑いを、感じ取ってしまっている。
それを咎めるように僕の頬に触れて、目をそらすことを許さない。
クレーツィアは僕に理解を求めている。
人とは違う瞳孔。
清き水に住まう水竜の性。
正直、いきなりその存在を理解しろと言われても、まだ信じられずにいる。
竜だなんだというのはそれこそ、遥か昔に絶えたとされる伝説上の生き物だ。
今の人間にとっては夢物語にも近い。
けれどそのとき、僕の頬に触れるその手が、小さく震えていることに気づいた。
クレーツィアが怯えている?
子猫のように潤む、大きくてつり気味の目の形。
つんとした小さな唇。
柔らかそうな白い頬。
少し癖のある黒紅色の長い髪。
愛らしく、どこか幼そうに見えても、強い意思がにじむ顔つきは、僕が近頃慣れ親しんでいるものだ。
そんな彼女の中でたったひとつ見慣れないものは、僕の拒絶を恐れた瞳の奥だけ。
「怖がらないで」
自然とそう口をついていた。
そんな風になにかに怯えているクレーツィアは見たくない。
僕もクレーツィアの頬に両手を当てた。
この子の気持ちを大事にしたかった。
なにかの義務を感じずに、他人に対してそう思うの初めてだ。
「ん……」
「もっとよく見せて、クレーツィア。……こんな不思議な瞳は見慣れないから驚いたんだ。ごめん。でも、これから見慣れてしまえばいいんだと思う」
クレーツィアは僕の手に、子猫みたいに頬をすり寄せてくれる。
その様子につい、微笑みがもれた。
クレーツィアは普段、男前なほど潔い性格なのに、ふとしたときに甘えてくるところがとても可愛い。
それも最近知ったことだ。
「僕はまだまだ、君のことを知らないんだと思う。だからね、最初に言っておくよ。たとえ君が怪物だったとしても、僕はかまわないことにする」
それは自分に対して誓う言葉でもあった。
僕を許してくれたこの小さな友人のすべてを、受け入れたいと思ったから。
「僕たちの友情にとって、それはなんの問題にもならない」
すると、クレーツィアはようやく笑ってくれた。
クレーツィアは笑うとすごく可愛い。こっちがたまにぎょっとしてしまうほど。
「怪物でもいいの? それって最強の友情ね」
君だって、僕が王子だろうが態度を変えなかったじゃないか。
クレーツィアの隣はあいかわらず居心地がいいままだ。
「ところでクレーツィア……」
「なに?」
「まず誰に汚水をかけられたのか、教えてくれる?」
報復って大事だよね。
大丈夫。僕、そういうのわりと得意。