第10話
婚約を続けることにした。
正確には。
ジェラールと結婚することにした。
そう決めてから、私の生活が劇的に変わったかというと。
「アデライード様」
「何?」
「そろそろ起きてくださいませ」
「あと五分」
「先ほどもそうおっしゃいました」
「では、あと三分」
「減らせばよいというものではございません」
あまり変わっていない。
私は掛布を頭までかぶった。
「本日は王宮へ行かれるのでしょう?」
「午後からよね」
「午前中にお支度がございます」
「一時間でできるでしょう?」
「できません」
「エマならできますわ」
「私を過信なさらないでください」
「信頼よ」
「便利な言葉に変換しないでくださいませ」
私は笑った。
結婚すると決めたからといって、突然勤勉な王太子妃候補になるわけではない。
朝は眠い。
面倒なものは面倒。
できれば、ゆっくりしたい。
そこを変える気はない。
「起きるわ」
「本当ですか?」
「たぶん」
「アデライード様」
「起きますってば」
私はようやく体を起こした。
窓の外は晴れている。
こんな日は、本当なら庭で昼寝したい。
けれど今日は、王宮で話し合いがある。
議題は、これからの王太子妃の役割について。
つまり。
私がずっと逃げてきた問題である。
「……やっぱり寝ようかしら」
「なりません」
「まだ何も言ってないのに」
「お顔に書いてあります」
最近、みんな私の顔を読みすぎでは?
◇
会議室へ入ると、机の上に紙が積まれていた。
「帰りますわ」
「座れ」
ジェラールが即答した。
「まだ何も見てない」
「紙が多い」
「以前より減っている」
「これで?」
「ああ」
怖い。
王宮。
私はジェラールの隣へ座った。
「本当に必要なものだけ?」
「かなり絞った」
「かなり?」
「君ならもっと減らせと言うと思った」
「分かってるじゃない」
「だから先に言った」
成長した。
でも今日は、真面目な話だ。
机の向こうには侍従長、女官長、財務官、王宮管理の責任者、そして以前王太子妃教育を担当していた伯爵夫人までいる。
「では」
ジェラールが口を開いた。
「始めよう」
話し合う内容は単純だった。
王太子妃となった私が、何をするのか。
そして、何をしないのか。
「外交行事への出席」
「必要ね」
「慈善事業の監督」
「全部私が?」
「監督のみです」
担当者が答える。
「実務は専任の職員が行います」
「でしたら大丈夫ですわ」
「王宮行事の統括」
「それは?」
「大規模なもののみ、最終確認を」
「毎回?」
「年に数回です」
「なら、そのくらいなら」
私は頷いた。
伯爵夫人が少し驚いた顔をする。
「アデライード様」
「何でしょう」
「意外と素直に受け入れられるのですね」
「必要ならやりますわ」
「以前はあれほど嫌がっておられたのに」
「必要ではないものまで混ざっていたからです」
「……なるほど」
私は次の資料をめくった。
「王族女性主催の定例茶会」
嫌な文字がある。
「毎週?」
「従来は」
「それは無理ですわ」
即答。
ジェラールが笑いを堪える。
「月一回」
「季節ごとの大きなものだけでもよいのでは?」
女官長が提案した。
「それでお願いします」
「早いな」
ジェラールが言う。
「だって減らしていいって言ったでしょう?」
「ああ」
「でしたら減らしますわ」
簡単。
「でも、若い令嬢たちの交流の場として必要なら、私ではない方が主催してもいいでしょう?」
「他の方が?」
「ええ」
「王太子妃主催でなくても?」
「何か問題あります?」
誰も答えない。
「でしたら、やりたい方にお任せしましょう」
伯爵夫人が少し考えるように私を見る。
「以前なら、その発想自体がございませんでした」
「そうなの?」
「王太子妃が担うものだと」
「でも、向いている方がなさった方がよくなくて?」
茶会が好き。
人と話すのが好き。
人を集めるのが得意。
そんな人がいるなら、その人に任せた方がいい。
「私、全部できる人になりたいわけではありませんの」
部屋が少し静かになる。
「できないことは、できる方に頼みたいだけです」
それだけだ。
「誰か一人しかできない形にしない方が、楽でしょう?」
「倒れた時にも回るからか」
ジェラールが言った。
「そう」
ジェラールが頷き、資料をまとめた。
「では原則を決めよう。特定の一人にしかできない仕事は極力作らない。必ず代理を置く。休暇中は仕事を持ち込ませない」
私は手を上げた。
「それ大事」
「君が言うと思った」
「あと、休みの日に急ぎでもない連絡をしない」
「緊急時を除いて、だな」
「本当に緊急の時だけよ」
「ああ」
「『一応確認ですが』みたいなのはなし」
「何の話だ」
「気にしないで」
ジェラールが笑った。
部屋の空気も、少しだけ柔らかくなった。
◇
それから、王宮の働き方は少しずつ変わった。
交代要員を増やし、仕事は二人以上で共有する。休みの日には、急ぎでもない書類を持ち込まない。
大きく何かを変えたわけではない。
小さなことから、少しずつ。
王太子妃教育も同じだった。詰め込むのではなく、本当に必要なものをきちんと学ぶ。
「アデライード様」
「はい」
「この条約が結ばれた理由を」
「北方国との交易路を安定させるためです」
「では、その前に起きていた問題は?」
「関税と港湾使用料を巡る対立」
「正解です」
「よし」
「まだ終わっておりません」
「……まあ、厳しいですこと」
でも。
前ほど嫌ではない。
◇
ある日の午後。
私は王宮の中庭にいた。
東屋。
紅茶。
焼き菓子。
そして。
「遅いわ」
「五分だ」
ジェラールがやってくる。
「五分も」
「会議が延びた」
「休憩の時間でしょう?」
「分かっている」
彼は向かいへ座り、自然に息を吐いた。
「疲れた」
私は止まった。
「……今、何て?」
「疲れた」
「もう一回」
「嫌だ」
「もう一回言って」
「なぜ」
「記念日だから」
「何の記念だ」
「ジェラールが自分から疲れたって言った日」
「大げさだ」
すごい。
本当に、すごい。
前なら、疲れていてもそんなことは言わなかった。
「じゃあ今日はもう休んで」
「このあと、もう一件ある」
「明日にできない?」
「……できる」
「でしたら明日にしましょう」
「君は簡単に言うな」
「できるんでしょう?」
「ああ」
「なら明日で」
ジェラールが少し考える。
「そうする」
言った。
私は笑う。
「よくできました」
「子ども扱いするな」
「成長を褒めてるの」
「君にだけは言われたくない」
「どういう意味?」
「昨日、昼寝のせいで刺繍の時間に遅れただろう」
「それは」
「何だ」
「気持ちよかったの」
「理由になっていない」
相変わらず、そこは厳しい。
でも。
「今日はもう仕事を終える」
「本当に?」
「ああ」
「街、行く?」
「今日?」
「うん」
「急だな」
「嫌?」
「いや」
ジェラールが少し笑った。
「行こう」
それだけなのに。
嬉しい。
◇
王都の街は、少しだけ変わっていた。
あの木苺の焼き菓子の店。
前より客が増えている。
「いらっしゃいませ――あら」
店主が私たちを見て、すぐに笑顔になった。
「また来てくださったのですね」
「もちろん」
「王宮からの注文もいただいております。本当にありがとうございます」
「美味しいからよ」
「おかげさまで、新しい人を一人雇うこともできました」
「本当?」
嬉しい。
私はただ、好きなものを買っただけなのに。
「木苺、二つ」
「また俺には聞かないのか」
「嫌?」
「いや」
「では二つ」
「変わらないな」
「何が?」
「君だ」
「悪い?」
「いや」
ジェラールが笑う。
「それでいい」
なんか。
ずるい。
最近、こういうのに弱くなった。
◇
帰り道。
夕方の街を二人で歩く。
護衛は、少し離れたところにいる。
「ねえ」
「何だ」
「私、ちゃんとできるかな」
「何を」
「王太子妃」
初めて、自分から言った。
ジェラールが私を見る。
「不安なのか」
「少し」
「珍しいな」
「私だって不安になりますわ」
「知っている」
「知ってるの?」
「ああ」
本当に。
この人は、よく見ている。
「きっと、完璧にはできないと思う」
「完璧である必要はない」
「失敗もすると思うわ」
「ああ」
「昼寝もする」
「それは知っている」
「仕事だって、嫌って言うかもしれない」
「それも知っている」
何でも知ってる。
「それでもいい?」
「ああ」
即答だった。
「ただし」
「何?」
「一人で抱えるな」
「うん」
「困ったら言え」
「うん」
「俺にも言わせろ」
少し、胸が熱くなる。
「うん」
ジェラールが私の手を取った。
指が重なる。
「二人でやればいい」
私は小さく笑う。
「三人でもよろしくってよ」
「誰だ」
「エマ」
「勝手に増やすな」
「女官長も」
「多い」
「侍従長も」
「もう王宮全体だな」
「それが一番いいじゃない」
ジェラールが呆れたように笑った。
◇
そして夜。
私は、最高の時間を迎えていた。
「少し熱くはございませんか?」
「ちょうどいい」
温かな湯。
いい香り。
エマの指が、長い黒髪を丁寧に洗っていく。
「はあ……最高」
「毎回おっしゃいますね」
「だって、毎回最高なんですもの」
私は目を閉じた。
「ご結婚されても、これを続けるおつもりですか?」
「もちろん」
「王太子妃になられても?」
「もちろん」
「いずれ王妃になられても?」
私は、一瞬だけ黙った。
「……そこまで先のことは考えませんわ」
「逃げましたね」
「未来の問題は、未来の私に任せるの」
「便利な考え方でございますね」
「でしょう?」
エマが笑う。
温かな湯が髪を流れていく。
気持ちいい。
今日もご飯は美味しかった。
好きな人と街を歩いた。
ジェラールは「疲れた」と言えた。
そして今、髪まで洗ってもらっている。
「ねえ、エマ」
「はい」
「私、十分幸せじゃない?」
エマの手が少しだけ止まった。
それから。
「はい。十分でございます」
私は笑った。
そう。
これでいい。
生きている。
美味しいものを食べられる。
好きな人がいる。
疲れたら休める。
髪まで洗ってもらえる。
「はあ……最高」
「またですか?」
「だって最高なんですもの」
私は目を閉じた。
王妃なんて、やっぱり絶対に嫌だけれど。
ジェラールと生きる未来なら。
まあ。
悪くない。
……たぶん。
【完】




