第76飯 「もろほしが言うておった」
スーツに袖を通す。
Aランクの認定式から、まだそれほど経っていない。その間に北海堂で巨人と戦い、東卿の湾岸を走り回った。その合間にも、ヴィヴィの飯にはずっと付き合ってきた。
「下僕。また窮屈そうな服を着ておるのう」
ボンッ、とヴィヴィが実体化した。ベッドの上であぐらをかいている。
「今日はSランクの認定式なんだよ」
「えすらんく。この前のえーらんくの次か」
「そうだ」
「人間は本当に面倒くさいのう。で、帰りにイタリアンじゃな?」
来たな、この話題。一週間前、協会本部で地動さんに呼ばれたときからことあるごとに言ってくる。
「すまん、やはり今日は無理だ」
「なぜじゃ!」
「明日、大学に行く。神崎先生と文珠川さんに禰室の遺物を渡す約束をしてる。イタリアンはその帰りだ」
「明日じゃと!?」
ヴィヴィがベッドの上で跳ねた。
「わしはもう一週間も待っておるのじゃぞ! スタンピードの晩に言うたじゃろ! イタリアンと天ぷらじゃと!」
「天ぷらは篝さんの店だから、また別の日な」
「それもじゃ! 下僕は約束を延ばしてばかりじゃ!」
「延ばしたくて延ばしてるわけじゃない」
協会の事情聴取、報告書、また事情聴取。この一週間、飯を食う暇はあっても店を選ぶ暇がなかった。
ヴィヴィが頬をふくらませて、そっぽを向く。完全に拗ねた。
仕方ない。切り札を出すか。
「明日のイタリアン、デザートにアイスケーキも食べていいからな?」
ヴィヴィの耳がぴくりと動いた。
「……あいすけーき」
「冷たいケーキだ。アイスクリームでできてる」
「……わしはそれでもダメじゃ。誤魔化されんぞ」
「アイスケーキ三つ、食っていいぞ」
ヴィヴィがゆっくりとこっちを向いた。目が輝いている。
「ほんまか?」
「どこで覚えたんだ、その言葉」
「もろほしが言うておった」
大佐華と本杢で会っただけだろ。吸収が早すぎる。
「ほんまだ」
「ならよし! 明日じゃな! 三つじゃ! 約束じゃぞ!」
機嫌が一瞬で直った。アイスケーキの破壊力はパないな。
◇
電車で千代多区に向かった。
Aランクになってから電車はタダだ。前回の認定式では、それを知らずに電車賃を払っていた。今日は改札に探索者証をかざすだけでいい。少しだけ得をした気分になる。
式は十時からだった。まだ一時間ある。
『下僕。腹が減ったのじゃ』
『さっき朝飯食っただろ』
念話で返すと、腰の短剣からすぐに文句が来た。
『あれは朝飯ではない。おにぎり三個は飯ではない』
『いやじゅうぶん飯だよ』
そう言いながら、駅前の通りを見回した。協会本部の手前、ビルの一階に『グリーン&グレイン』という緑の看板のカフェがある。
ガラス張りの店内に、焼きたてのパンの匂いがこもっていた。
……まあ、式の前に腹が鳴るよりはいいか。
ボンッ。
扉を開けた瞬間に、ヴィヴィが実体化した。
「パンの匂いじゃ!」
「静かにしろ。朝だぞ」
店内は白い壁と木のテーブルで、朝の光がたっぷり入っている。客はスーツの人が多い。皆、静かにコーヒーを飲んでいた。その中に金髪の少女連れで入っていくのは、少し場違いだった。
メニューを開いた。
モーニングは二種類。アボカドトーストと、フレッシュトマトとチーズのオープンサンドだ。
「どっちにするんだ」
「両方じゃ」
「だろうな」
俺はトマトとチーズのほうを一つ。ヴィヴィは両方を一つずつ。アイスコーヒーを二つ頼んだ。
運ばれてきた皿を見て、俺は少し固まった。
でかい。
パンが厚い。俺の手のひらより大きな田舎パンが、指二本分の厚さで切ってある。それがまるごと一枚、皿の上に寝そべっていた。
アボカドトーストは、パンに鮮やかなオレンジ色が塗られていた。かぼちゃのペーストだ。そこに薄く切ったアボカドが扇のように並び、茶色いスパイスと砕いたナッツ、ピンクペッパーがたっぷり散らしてあった。横にはケールのサラダが山盛りになっている。
トマトとチーズのほうは、スクランブルエッグがパンからはみ出していた。その上に、半分に切ったミニトマトがごろごろと乗っている。てっぺんには白いクリームチーズが二つ、雪の塊みたいに置かれていた。
「下僕……」
ヴィヴィが皿を見つめたまま動かない。
「これは、朝飯なのか」
「朝飯だ」
「わしの知っている朝飯ではない」
俺の知っている朝飯でもない。
ナイフを入れた。ザクッ。
厚い皮が、乾いた音を立てて割れた。中はもちもちとしていて、ナイフがゆっくり沈んでいく。
一口。
最初に来たのはトマトの酸味だった。噛んだ瞬間に果汁が弾けて、すぐ後ろからふわふわの卵の甘みが追いかけてくる。クリームチーズのまろやかさがその間をつないで、最後に、香ばしいパンの皮が全部を受け止めた。
……うまい。朝からこれは反則だろ。
隣で、ヴィヴィがアボカドトーストにかぶりついた。ザクッ。
「…………」
ヴィヴィが止まった。目を見開いたまま、もぐもぐと口だけが動いている。
「ど、どうだ」
「……甘いのじゃ」
それから、堰を切ったようにまくし立てた。
「この橙色のやつが甘いのじゃ! その上の緑のやつが、とろとろでなめらかなのじゃ! そこにこの茶色い粉が、ぱりぱりで、ぴりっとして、香ばしいのじゃ! 甘いのと、とろとろと、ぱりぱりが、口の中で喧嘩しておらんのじゃ!」
「店の中だぞ」
「うまいのじゃーーーー!」
周りのスーツの人たちが、一斉にこっちを見た。何人かが小さく笑っている。すみません。
ヴィヴィは止まらない。アボカドトーストを半分たいらげると、すぐにトマトとチーズのほうに手を伸ばした。
「こっちも、とまとがじゅわっとくるのじゃ! 卵がふわふわなのじゃ!」
一方の俺は、三分の二のところで手が止まった。
パンが重い。噛めば噛むほど腹にたまる。トマトと卵の水分を吸ったパンは、見た目以上に量があった。式の前にこれ以上詰め込んだら、スーツのボタンが危ない。
フォークを置いた。
「……下僕」
ヴィヴィが、俺の皿をじっと見ていた。
「残すのか」
「残す」
「ならばわしが食う」
返事をする前に、皿がヴィヴィのほうへ滑っていった。
自分の二皿を空にして、俺の残りもぺろりと平らげる。最後に、皿に落ちたスパイスまで指でつまんで舐めていた。
「……ふう。満足じゃ」
「お前、明日イタリアン行くんだよな。入るのか、それ」
「それとこれとは別腹じゃ」
腹がいくつあるんだ、この魔王は。
◇
協会本部の受付で名前を言うと、前回とは違う職員が出てきた。
案内されたのは、最上階に近いフロアだった。エレベーターを降りると、廊下の床に絨毯が敷いてある。前回の「認定室」とは明らかに格が違う。
重い木の扉が開いた。
広い部屋だった。壁一面の窓から、東卿の街が見下ろせる。正面に協会の紋章が掲げてあり、その前に台が置かれていた。台の上に、布をかけられた何かがある。
部屋には、もう人が揃っていた。
正面に、地動さん。その隣に、見覚えのない痩せた男性がいる。濃いグレーのスーツに、眉間に深い皺。背筋がまっすぐで、立っているだけで場が引き締まる。
そして、窓際に二人。
「はいはい、来たね」
割烹着の上から協会の腕章をつけた小柄なおばあさんが、ひらひらと手を振った。石動さんだ。手提げ袋を持っている。中身はたぶんおにぎりだ。
その横で、ひっつめ髪の女性が壁にもたれていた。渚さんだ。今日は術衣ではなく、黒いパンツスーツ。目の下のクマは相変わらずだった。
「……夜勤明けだ。手短に頼む」
開口一番それだった。
「推薦者のお二人だ」
地動さんが言った。
「Sランクの認定には、現役Sランクの推薦が必要でね。今回は、石動さんと渚さんが名乗り出てくれた」
「見てたからね。あんたの実力でAランクは詐欺だよ」
「この前の戦いで、十分すぎるほど証明された」
石動さんがからからと笑った。渚さんは腕を組んだまま、それ以上は何も言わなかった。
ヴィヴィが、俺の背中からひょこっと顔を出した。
「おお、なんじゃなんじゃ、おぬしらもえすらんくなのか?」
「おい」
「あら、あんたが魔剣のお嬢ちゃんか。飴、食べるかい?」
「食う!」
ヴィヴィが一瞬で石動さんの前に移動していた。さっきカフェで三人前食べたばかりだろ。
「では、認定式を始めよう」




