第9話
「あのお店のパンケーキ美味しかった〜。写真もこんなに撮っちゃったし。彩ちゃんにも教えてあげなくちゃ」
パンケーキを食べ終わり、喫茶店を出た後の桐刃は街を散策しながら彩と巡りたいお店のリサーチをしていた。
入院生活で白いだけの天井を見続けていた彼女にとって周りにあるもの全てが今の桐刃の目には新鮮なものに映っていた。
そうして、ひと通り巡り終えたときには時刻はすでに夕方になっていた。
「やばっ!そろそろ戻らないと、先生に怒られちゃう」
主治医の小言を想像した桐刃は参ったといった顔で早足で病院までの帰り道を歩き出す。
(今日は良い一日だったなぁ。自分の足で歩くってこんなに楽しいことだったんだ)
桐刃は自分の体が治ったという奇跡のような出来事が現実であることを改めて実感していた。
夕方になり、日が沈みかけている閑静な住宅地に差し掛かった時だった。
「きゃあーーっ!」
「うわぁぁぁん!!」
平穏な時を切り裂くような女性の悲鳴と幼い子どもの泣き声が辺りにこだました。
「今の声は!?」
病院へ向かっていた桐刃の身体が反射的に反応した。
声のした方へ駆け出す。砂場の近くに辿り着いた彼女の目に飛び込んできたのは一体の災だった。
約二メートルはあるであろう体長に、細長い四肢を持つその人型の災は両手の中指に当たる部分が巨大で鋭利な鎌のように武器化している。銀色に鈍く光るその刃が腰を抜かした母親と庇われるようにその腕の中で抱き締められている女の子へ向けて振り翳されていた。
(このままじゃ、あの二人が……!)
術者を呼ぶ時間はもうない。誰かが助けに来るのを待っていれば、その間にあの大鎌が振り下ろされてしまうことは明らかだった。
そう考えると、今の桐刃は頭で考えるよりも体の方が動き出していた。
人々にとっての恐怖の象徴ともいえる存在を前にしているにも関わらず、桐刃の体の奥底から湧き出る活力は桐刃の背中を押すかのように衰えることなく全身に漲っていた。
「こっちだよ、化け物!」
桐刃は足元に転がっていた拳大の石を掴み取ると災の注意を自分に引きつけるため、渾身の力でその背中へと投げつけた。
ヒュンッと空気を切り裂いて飛んだ石は見事に災の後頭部に命中する。
獲物を仕留めようとしていた災が不快な呻き声を上げて動きを止めた。鎌を構えたまま、首をギチギチと骨の軋む音をさせながら、不自然な角度で回転させ、新たな乱入者――桐刃の方へと顔を向けた。その顔には目も鼻もなかった。のっぺらぼうのような滑らかな皮膚に不規則な長さをした鋭い歯がまばらに生えた裂けた口が張り付いている、まさに化け物と呼ぶに相応しい不気味な顔をしていた。
「……っ」
冷たい殺気が桐刃の全身を貫く。
呪い持ちだった少女――桐刃と人に仇なす異形の化け物――災。
呪いから回復したとはいえ、かつて誇った固有術は破壊されたままだ。
現在の桐刃は術者としての戦う力を持たない、ただの無力な少女であり、二メートルの巨躯を誇る人型の災を前にすれば、それはまるで捕食者と獲物が対峙したときのように絶望的な力の差があるはずだった。
しかし、対峙してから数秒が経過するが、どういう訳か、災は一向に桐刃へ襲い掛かってこようとしなかった。
「あれ……?」
振り下ろされるはずの大鎌を警戒し、身を強張らせていた桐刃が奇妙に思い、恐る恐る災の顔を覗き込む。
「ギッ、イギィィッ……!」
災の目鼻のない顔に唯一ある口が明らかに引き攣り戦慄していた。
裂けた口からは震えるような荒い息が漏れており、その巨躯をガタガタと震わせながら、一歩も踏み出すことができずに硬直していた。それはまるで、目の前の桐刃が何か別の――自分より遥かに強大で絶対的な抗いようのない恐ろしい存在として認識しているかのような反応だった。
(私を……怖がってるの?)
桐刃は無意識に自らの右手を握りしめた。
私服の袖に隠されたあの柘榴色の痣。
龍型の呪いと鬼型の呪いがひとつに収束し、ただ静かな痣として在り続けているその場所からは目の前の桐刃に対して敵意や殺意を向けている災に対して、禍々しくも圧倒的な威圧感が放たれていた。
人にとっての脅威である災はまるで天敵を前にした小動物のようにその場から一歩も動けずに硬直していたのだった。
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