第32話 音の正体
(――――!)
トウゴは口を押さえて、無言の悲鳴を上げる。
あれほど『20分間動くな』と言われていたにもかかわらず、イチは数分も我慢できなかったようだ。
彼女が黙々と歩いて向かう先には、
『イ タッ い た ッ い タ ヒ っ』
ボトボトボトボト。
悲鳴を上げながら血糊を瓶へ補充している『業者』、いや【忌不様】が居た。
全身ブヨブヨの身体で、クラゲのように水分をたっぷり含んだ半透明の肌をしていた。
腕2本に脚2本。
身長は2メートルほどで、横幅も2メートルはありそうだ。
腹の辺りからは、半透明な肉のヒダが幾重にも垂れている。
そして右手の太い人差し指には、ナイフのように鋭い爪が生えていた。
血糊の【忌不様】はその爪で、自分の左腕を裂いていた。
そしてそこからボトボトボトボトと落ちるのは、赤黒い粘り気のある血(血糊?)だった。
さっきからそんな予感はしていたが、実際目の当たりにすると余計気味が悪い。
というか、あれに気づかれたらヤバイ。
命の危険というより、バイト雇用の存続的な意味で。
(い、イチさん! ちょいちょい!)
トウゴは相変わらず口をパクパクさせながら、必死にイチに向かって手招きした。
「……む」
奇跡的に、イチがこちらへ気づく。
(ダメダメ! 元の位置に戻らなきゃ!)
トウゴは口パクとジェスチャーを駆使して伝える。
すると、
「…………」
イチは顎を上げて、何やら考える仕草を見せた。
(何で悩むの!?)
彼女と【忌不様】との距離は、約2メートル。
幸い【忌不様】はイチに背を向けているのでまだ気づいていないが、それも時間の問題だ。
『イタ いィ イ ヒ ッた イ タ――』
「……」
【忌不様】の悲鳴に、イチの瞳孔が開いた。
(あ)
これはダメだ。
『―― ァ ?』
ガッ、と。
イチの細く白い右手が、【忌不様】の背中を掴んだ。
(あ~……)
これで、このバイトもクビ確定だ。
トウゴは天井を仰いだ。
次の瞬間。
『アア ア アア!? ア ア ア アアバ なアアア ア ナ!?』
血糊の【忌不様】が、可哀想なほど悲痛な悲鳴を上げた。
イチが掴んだ背中の半透明な肉が裂け、中に詰まっていた体液(血糊)が噴き出す。
「な、なななにやってんだぁ!?」
この騒ぎで流石に起き上がったブラドが、わなわなと叫んだ。
阿鼻叫喚に包まれた店内で、イチだけ涼しい顔をしている。【忌不様】の背中から手を離し、今度は正面に回りカウンターに乗ってしゃがんだ。
そして逃げようとする【忌不様】の右腕を掴み、雑巾でも絞るかのように捻る。
『ィ ッ ぎャ ァ ぁ ァ あッ ァ!?』
肉がぶちぶちと裂けて、血糊が勢いよく垂れていく。
さっきの自傷による『補充』の比ではない。
瓶はすぐにいっぱいになり、ブラドが反射的に新しい瓶へ交換する。
「…………」
痛そうにジタバタする【忌不様】の顔を、爛々とした瞳で覗き込むイチ。
「うわぁ……」
イチのドSモードが、全開である。
色々と手遅れだと悟ったトウゴは、【忌不様】が背中や腹から撒き散らす血糊を浴びないように後退して、そっと合掌した。




