138.最後の刺客
お~ま~た~せ~~しますた!
あと少しで、アクセルの腕に辿り着くーーというところで待ったを掛けるように響き渡ったその甲高い声に、リンとアクセルは揃って顔を向けた。
そこには、一人の老婦人が険しい顔で立っていた。
丁度、二人から同じくらいの位置で、人垣から進み出たその女性は、リンをグイッと睨め付けると、心底イヤそうに顔を顰めながら、さも臭いものを目の前にしたかのように、持っていた扇で鼻から口元を隠した。
一応流行りのスタイルで仕立てられた、藤色のゆったりとしたイブニングドレスを身にまとい、指先にゴツゴツとした大きな石のはまった指輪を2つも3つもつけて装ってはいるが、顔にはたかれた白粉の粉っぽさや、頬に刷かれた濃すぎる頬紅と相まって、皮肉なことに豪華な宝石がかえって彼女をひどく老けて見せていた。
「……やっぱり出たわね、エロイーズ大伯母様……」
リンのすぐ後ろにいたミリアムがそっと囁く。それを聞いた途端、その名前と目の前に立つ老婦人の容貌を基に、リンの優秀な脳味噌が瞬時にこの女性の出自をたたき出した。
(エロイーズ・オーガスタ・ギャヴィストン伯爵夫人。閣下とミリアムの祖父の妹君。社交界でも有名な差別主義者であり血族主義者……。
ディスカストス侯爵家の人間であることに異常なまでの強烈な自負を持ち、格下のギャヴィストン伯爵家に嫁がされたことを結婚直後から50年以上経った今日まで、未だに執念深く根に持っていて、しかも、社交界でそれを公言して憚らない好戦的な性格のせいで家族からさえ、嫌われている。
その上、やたら好戦的な性格で、自分より爵位の低い相手を、誰彼構わずバカにして、苛めることさえ平気でやってのけるトラブルメーカーとしてアザリス社交界一の鼻つまみ者と言われている……)
もしもリンが、貴族にプロポーズされたラッキーな庶民の娘として、なにも考えず、なんの準備もしないままこの場に立っていたとしたら、足を竦ませて為すすべもなく立ちつくすしかなかったろう。
しかし幸い、リンはそうした愚かで単純な少女ではなかった。
アクセルとの結婚を決心した時から徐々に準備を始め、そしてこの2ヶ月間に至っては、マニティ島の病院を退職し持てる時間の全てを注ぎ込んで、着々とディスカストス侯爵家に嫁ぐための準備を重ねてきたのである。
侯爵家に嫁ぐ……それを決意した時、リンはすぐにグッドマンに相談した。かつて自分一人で悩んだ挙句に逃げるという愚かな選択をしてしまったリンは、二度と同じ過ちを繰り返すまい、と決めていたのである。
孤児の自分が、アザリスでも有数の貴族の家に嫁ぐなど、色々な意味で茨の道であることは容易に想像できた。その困難さも重々承知である。
しかし、それでもなお、愛する人と一緒に、可愛い娘と一緒に生きていきたいと願うなら、逃げ出すよりも立ち向かう方がよっぽど性に合っている。本来の自分を取り戻したリンはそう思ったのである。
そんなやる気満々のリンの決心に嬉しそうに頷いて、グッドマンがいくつかのアドバイスと共に提案したのは、『貴族年鑑と社交界における不文律の暗記』、と『ダンスとマナーの会得』であり、前者の講師はグッドマン、後者の講師はミリアムが務めてくれたのだった。
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初日、いつもの美味しい美味しい紅茶を淹れながら、グッドマンは言った。
『リン様がこれから付き合っていかねばならないアザリス社交界というところは、いわば外国のようなものです。今まで慣れ親しんだ一般社会とは、全てが違うのです。言葉も、常識も、時には善悪の基準さえ。
誤解なさらないでいただきたいのは、リン様に今までの人生で身につけたものを捨てろ、と言っているのではない、ということでございます。それはそのまま大切にしてくだすって結構。しかし、知識として、新しいものの見方が必要である、という意味でございます。
これから学んでいただくのは、ちょうど、外国に行くための準備のようなものです。デューランズに行こうと思えば、完璧ではなくともデューランズ語ができるに越したことはありません。ガイドブックも買うべきでしょう。予め、旅行のルートとスケジュールを決めておけば、安心ですね。どんなアクシデントが起こっても、どうにか対応できるでしょう。
これから覚えていただくことはそういうこと、つまりは、起こり得るトラブルを如何に回避するか、それでも遭ってしまったトラブルからどうやって抜け出すか。そのために必要な知識でございます。
具体的にいえば、どの家がどのような姻戚関係で王家や他の家と繋がっているのか?アザリス上流階級における、貴族達の対立関係。何代も前の対立を根に持って、未だに犬猿の仲を貫いているのはどの一族とどの一族なのか?
そうした知識をまずは学んでいただきます』
こうして、グッドマンによるにわか作りではあるが、侯爵夫人養成講座ともいうべきレクチャーが幕を開けたのである。
それは、リンをして度々ウンザリとした気分にさせる、実にくだらない内容を含む講義だった。
そもそも、差別に苦しめられてきたリンが、どうして医師になることを選んだかと言えば、孤児院の仲間達を助けたいという気持ちがあったのはもちろんだが、なにより医療の世界は本人の努力や信念がものを言う『実力主義』の世界だからである。
しかし、アザリスの貴族階級の人々は、その対極に位置する価値観を至高として生きている。彼らの価値観では、生まれた『後』のその人間の生き様や信念、なにより"努力"よりも、生まれる『前』の事情、つまりどんな家柄から生まれたかで、その人間の価値を、大部分、規定してしまうのである。
生まれながらの身分、家柄、そして爵位。そういったものは、強力な『楯』であると同時に『枷』でもある。どの家に生まれたかによって、後ろ立てされるのと同時に行動を制限されてしまう世界、それがアザリスの上流階級なのである。
アクセルと共に生きて行く為に、リンが飛び込もうとしているのはそういう常識を信奉して生きている人々が多くいる世界なのだと、グッドマンから改めて説明された時、それまでの自分の人生とのあまりに違うその価値観に、正直、リンは戸惑いと嫌厭が湧き上がるのを止めることができなかったものだ。
しかし、アクセルの隣に並び立って生きていくことはリンにとってすでに揺るがない確固たる未来として胸の真ん中にどしん、と揺るがず、それがために、生じるだろうありとあらゆる困難に立ち向かう決意を固めていたリンにとっては、やらない、という選択肢は無かった。
『わかりました』
一瞬の驚きの後、静かな決意をたたえてまっすぐに見つめ返してきたリンの眼差しを見て、グッドマンは満足そうに頷くと、
『まずはアザリス貴族年鑑の中から、ディスカストス侯爵家に縁のある、もしくは親しくつきあいのある家柄の方々の名前と繋がり、そして顔を覚えていただきましょう。
旦那様の配偶者となり、ディスカストス侯爵夫人として采配を振るっていただく為には、必要不可欠な知識でございます』
そう、宣言した。
ところで、実は、その時点では、それがそんなに大変な事だとは、リンは認識していなかった。というのも、それまで幾多の試験勉強を乗り越え医師になり、なったらなったで毎日毎日、新しい症例をこれまた勉強し続けていかなければならない日々だったために、暗記という作業に対しては、慣れていると思っていたし、また、得意だと思えることだったからである。
しかも、グッドマンは"ディスカストス侯爵家に縁のある、もしくは親しくつきあいのある家柄"と言った。そのため、大したヴォリュームではないだろう、とリンは高をくくっていた所があったのである。
だから、初めてのレクチャーの日、ジョン・マシューズを従えたグッドマンがティーワゴンの上に積み上げて運び込んだ貴族年鑑を見て、リンは自分がこの国の階級社会の歴史と、それを紡いできた貴族文化の奥深さを舐めていたことに、気付かされたのだった。というのも、リンの目の前に積み上げられたアザリス貴族年鑑は、A4サイズに厚さ7センチはある重厚なハードカバーで、実に5巻組みだったのである。呆然とするリンに追い打ちを掛けるようにグッドマンは言った。
『まぁ、この中の3冊分くらいを覚えていただければなんとかなるでしょう』
『3冊分……』
ゲンナリと呟くリンに向かって、グッドマンは更に言った。
『それよりも大切なのは、決して紙には残らない、つまりここには一切書いていない、非公式な繋がりや暗黙の了解、不文律とでもいいましょうか、そういった知識でございます』
『……それって……例えば?』
『そうでございますね、公式には誰も知らないことになっている、誰もが知っているスキャンダル、等がそれに当たりますね』
『誰もが知っているのに、知らないことになっているんですか?』
『さようでございます。
まぁ、見栄と建前と言えば、貴族階級の方々が最も重要視するポイントでございますので……。とまれ、今はこれ以上はお話しするのは止めておきましょう』
グッドマンは澄ました顔で言葉を続けた。
『さ、まずは基礎編でございます。
ディスカストス侯爵家の縁戚に当たる家々の箇所に付箋を貼っておきましたので、こちらを覚えていただいて、後ほど私またはジョン・マシューズが口頭にて理解度を確認させていただきます。
なにせ時間がございません。ビシバシ!まいりますよ!!』
『は、ハイ!!』
そうしてグッドマン(と時々ジョン・マシューズ)の超スパルタな貴族年鑑の詰め込み教育が幕を開けたのだった。
最終回まで、あと7話!