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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
136/152

136.ハイエナの来襲

 それは唐突に訪れた。

 アクセルとリンを繋ぐ動線上に、3人の人間が立ち塞がったのである。


「……あなたたち……?」


反射的にリンを庇い、前に出たミリアムを突き飛ばし、女の一人は叫んだ。


「ふざけないで!」


突き飛ばされてよろけ、尻餅をつきそうになったミリアムを、寸でのところで後ろからリチャードが抱き留める。

 リンを見つめる3人の女達の目は尋常ではない怒りと憎しみに爛々とギラついていた。

 3人は3人とも、最新流行のオートクチュールに身を包み、ゴージャスな宝石で首も耳もこれでもかとばかりに飾りたてているが、般若のような形相で、リンへの憎しみを隠そうともしない。その顔は輝く玄関ホールの照明の下で、ひどく醜く見えた。


「あなた、リン・バクスターでしょう?あの、孤児の」


「……」


リンは無言で女を見返した。


「知ってるのよ?!私たち。だってウィリアムズ・カレッジの卒業生なんだから!」


「いったい、どうやってこんな茶番にディスカストス侯爵様を巻き込んだって言うの?」


「そうよ、あんたが婚約者だなんて、冗談にも程があるわよ!私達、あんたのこと、良ぉく知っているのよ?!(だま)そうったって、無駄なんだから!」


「おおいやだ!下賤な生まれの人間は、やることがえげつないわね!担当教授を(たら)し込んで、医師免許を取っただけじゃ飽きたらず、同室になった貴族の令嬢まで手玉にとって、その家に入り込むなんてね!?」


「ああ、世も末だわ!どこの誰だかわからないような血筋の人間が、医師だなんて名乗るなんて!」


3人の女達は口々にリンを罵る。辺りはザワザワと意外な展開にざわめいた。


(孤児?)


(孤児ですって?)


(まああぁぁ……)


(まさか、ディスカストス侯爵がそんな縁組みするわけが……)


(なにかの間違い……?)


人々が口にする驚きのささやきが、意外なほどクリアにリンの耳に突き刺さってくる。

 リンがディスカストス侯爵家に入る事を決意した時から、遅かれ早かれ、こういった目に遭う日が来るだろうことは、わかっていた。そういう意味では、今、この事態は十分想定の範囲内であることは間違いない。

 それでもーー。


(想像と現実はこうも違うものだろうか……?)


リンは久しぶりにあびる差別の視線と心ない言葉に、身体を震わせた。

 しかし、すぐに気持ちを立て直す。何故ならば、これからリンが向き合わなければならない数多の困難に比べたら、こんなことは序の口、ほんの些細な事なのだ。負けてはいられない。

 アクセルと生きていく、その為にアクセルの配偶者となり、ディスカストス公爵家に入る。そんな、孤児であるリンにとって正に『夢のまた夢』の未来を選び取ったのも、その為に最大限の努力を尽くすと心に決めたのも自分だ。


(さあ、顔を上げて、リン・バクスター!!)


リンは自分を励まし、奮い立たせる為に背筋をピンと伸ばし、口汚く罵る3人の女達をまっすぐ見返した。と、その時ーー。リンの視界を遮り、そこに割り込んできた背中があった。

 言うまでもなく、アクセルである。


「よせ!」


 アクセルは、突然乱入してきた不埒なハイエナ令嬢達、いや、紛れもない暴漢からリンをかばうように立ち塞がった。それを見て、いよいよ激昂した女達の甲高い、ヒステリックな声が辺りに響き渡った。


「アクセル様、アクセル様!!あなたは、ダマされてるんです!」


「そうですわ、アクセル様!」


「この女は、小狡(こずる)い、孤児の貧乏人なんですよ?!」


「孤児院育ちで家庭教師(チューター)もつけられないのに、栄えある学長賞を取れる訳ありません!」


「そうよ、そうよ!テストだって、レポートだって、みんなカンニングしていたに違いありませんわ!」


あまりの内容に、周囲がざわざわとざわめいた。


(ウィリアムズ・カレッジの学長賞といったらーー)


(ええ、主席を取った学生がもらえるという?)


家庭教師(チューター)も付けずに取れるものですの?)


(無理無理)


(ということはーー


(やっぱり……)


(カンニング……?)


(まぁーー)


 周りを囲んでいた人垣の中から、かすかなヒソヒソ声が波のように広がっていく。リンの背筋に、つつーっとイヤな汗が一筋流れた。リンの中にイヤな思い出が蘇る。物心ついた頃からイヤと言うほど味わった差別とイジメの空気。投げつけられる侮蔑。それなのに、抗弁すれば抗弁するほどいきり立つ相手に、結局は口を噤むしかない屈辱。

 しかし、舌がこおばり、喉が干上がって、言葉が上手く出てこないリンの耳に、かつては決して聞くことの出来なかった助け手の声が朗々と響いた。


「グッドマン!」


「ーー御前(ごぜん)に」


「こちらの方々は、少々アルコールが過ぎたようだ。客間に案内して、お休みいただくように」


まるで氷を吹いたかのように冷たい口調で発せられたアクセルの言葉に、ハイエナ令嬢達は、ヒィっと小さく身をすくめた。そこへ、ジョン・マシューズとその配下の家令達である、黒尽くめのお仕着せ姿の男達がわらわらと現れると、未だキィキィ口汚く叫んでいる3人の令嬢を両脇から取り押さえた。


「侯爵閣下!あなたはダマされてるんです!」


「閣下!私たちは閣下の為を思って!!」


「この淫売の孤児(みなしご)め!」


「医師免許を返せ!」


広間から追い出されまいと、みっともない様子で、足を踏ん張りながら、女達はリンを口々に(ののし)った。リンはその噴き上げるような悪意をアクセルの身体越しに聞きながら、それでも動揺を見せまいという努力をした。

 その時である。

 リンの死角になっていた、人垣から飄々とした口振りの声がかかった。


「リン・バクスターの成績と、医師免許に文句があるのはお前らか?」


(えっ?!)


リンは一瞬我が耳を疑った。


(あの人がこんな社交の場に出るなんて、考えられない……)


しかし、リンがその声を聞き(たが)えることこそ、さらにあり得ない。なぜなら長い長い学究生活の間、ずっと教え導いてくれた人物の声なのだから。

 その人物は、ジョン・マシューズ達が引っ立てて行こうとしているハイエナ令嬢達が暴れたがために出来ている、小さな人垣の中に現れ、醜態をさらしている女達を冷たく見下ろした。


「ドクター・ブルーム!!」


驚きと喜びを込めて、リンは叫んだ。


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