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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
117/152

117.リンの謝罪とアクセルの誤解


 気持ちの良い風が、二人の間を吹き抜けていった。

 病室のクリーム色のカーテンがばたばたとはためく。どこか遠くから子どものはしゃぐ声が聞こえた。それでも、病院長室や特別室だけが配置されているこのフロアまでは、どんな喧噪も届かない。

 二人の間に落ちた沈黙はまるで時間を忘れたように(わだかま)り、お互いの心中にある不安を感じさせないままとろりとした息苦しさで空間を埋めていた。

 先に動いたのはリンだった。廊下で待機している者達の為にも、目の前に座る愛する人の為にも、自分が犯した罪のツケは、自ら払わなければならないのだから。

 リンは大きく息を吸いーー、そしてがばりと頭を下げた。


「まずは謝らせてください。申し訳ありませんでした!閣下!!」


「ーーえっ?」


「今更?ってタイミングだって、本当なら閣下が入院した直後に言うべき事だったって、わかってますーー」


少し顔を上げ、アクセルの瞳をしっかりと見上げながら、リンは言葉を継いだ。


「でも、ここから始めないと、私の気が済まないので、言わせてください。

 突然、失踪なんかして、連絡もせずに2年半も……。心配をおかけしました。……ずっと探してくださっていたこと、グッドマンさんから聞きました。本当にすみませんでした。そして、気にかけていただいて、ありがとうございました」


「リンーー」


驚いてリンの名前を呼ぶことしか出来ないアクセルに頓着せず、リンは更に言葉を継いだ。


「あとーー、今まで回診の時、ずっと他人同士みたいな態度をとってしまったこと、ごめんなさい。

 閣下はやっぱり閣下で、麗しのディスカストス侯爵で、病院中の噂の的だったし……。

 そんな空気の中、少しでも知り合いっぽい態度を取ったら最後、どんなゴシップが飛び交うか分からなかったし……」


そんなリンの言い分に、イヤでもあのタブロイド騒動が想い出されて、アクセルは慌てて頭を振った。


「気にしないでいい。私は気にしていない」


実のところ、回診の度に見せる他人行儀な態度に触れる度、内心『リンにとって自分はもう、ただの他人なのかもしれない……』と寂しく思っていたアクセルだったのだが、そんなことはおくびにも出さず、鷹揚なふりをして答えた。


「それにーー、もしも少しでも閣下に昔のように優しく親しく接してもらったら最後、気持ちが緩んでしまって、もう二度と、医師としての倫理規定に則った、ビジネスライクな対応ができなくなりそうな気がしてーー。それも怖かったんです」


そこまで言って、リンはいったん言葉を切り、大きく息を吸って心臓の鼓動を整えた。


(さあ、肝心なのはここから!!謝罪の本題はここからなんだから!)


リンは内心でそう自分を叱咤すると、丹田にギュッと力を込め、続けた。


「閣下……実はあともう一つだけ……私には閣下に謝らなければならないことがあるんです……」


「えっ?」


それまでの話で少し緩みつつあったアクセルの緊張のテンションが、再びピンと張りつめる。

 そんなアクセルの表情をひしひしと感じながら、リンは再び下腹にグッと力を入れ、アクセルの瞳を見つめると思い切ってその一言を言った。


「閣下に……閣下に……会わせたい人がいるんです……」


「!!」


その瞬間、アクセルの心臓はいまだかつて無いほど、大きく(きし)んだ。同時に、アクセルの脳裏に最悪のシナリオが、ビジョンが浮かんで、まるで悪夢のように一続きに駆けめぐったからである。

 リンがその人物を招き入れる。入ってくるのは見ず知らずの男だ。リンはそいつに駆け寄り、嬉しそうにそいつを紹介する。


『閣下、今つき合っている人です』


目の前で幸せそうに見つめ合うリンと見知らぬ男。二人の間には愛情に溢れた視線が行き交い、それを呆然と眺めるしかない自分ーー。


「……う……」


アクセルは息が出来ない程の胸の激痛に(あえ)いだ。ショックのあまりまるで本当に万力か何かでギリギリと心臓を締め上げられているかのように、横隔膜が痙攣し、息をすることができない。


(いやだ、いやだ、いやだ!)


声なき声で、アクセルは叫んだ。


(止めてくれ、リン!会いたくない!他の誰かと微笑み会う君なんて見たくない!私以外の男と去って行ってしまう君なんて、見たくない!)


 アクセルは心の中で叫んだ。声は出なかったからだ。心臓が痛い。あまりの痛さにサマーニットの胸の辺りをギュッと握った。

 そうこうしているうちに、リンが出入り口の方へ顔を向けた。


(いやだ、リン!!)


この期に及んでも、アクセルはギュッと眼をつむり、首を横に振って拒否の意思表示をしたが、無情にもリンはそれを見ておらず、とうとう出入り口に向かって声をかけた。


「グッドマンさん!」


「へっ!?」


思わず妙な声を上げてしまってから、アクセルはリンの後ろ姿と、その視線の先でするすると開く病室の引き戸を開けて入ってくる見慣れた老執事を呆然と眺めた。


「はい」


という声もまた、聞き慣れたものだった。

 訳が分からないといった体で見つめるアクセルの視線の先で、病室の引き戸がからりと開いた。そして間違いなくアクセルの良く知る老執事が、いつものように背筋をピンと伸ばした、完璧な所作で入室してきたのである。

 と、その時である。

 なにがなんだか分からないといった様子のアクセルの眼に、それは飛び込んできた。グッドマンはなにかを抱いている。


(ん?なんだ?)


アクセルは知らず知らずのうちに、身を乗り出し、そのグッドマンの腕の中に収まったものを見定めようと腰を浮かしたのだった。

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