116.バクスター医師の、最後の説明
「お加減はいかがですか?閣下?」
そう声をかけられ、アクセルは驚くほど安堵した気持ちになった。いつも通りのリン。主治医として毎日会ってきたリンがそこにいる。しかし、次の瞬間また、向き合いたくない事実を思いだして気分が暗転する。こうして気易く、暖かく、確かな絆でもってリンと会話を交わせるのも、今日が最後かも知れない。
「ああ、とても良い……」
手差しで促され、特別室の程良いスプリングのソファに座る。リンは正面に座った。おもむろに手に持ったノートパソコンを開いて、電源を入れる。しんと静まりかえった病室に、パソコンの起動するブゥゥンという音と、それに続くかすかなカリカリカリという音が響いた。
「それでは、怪我の様子を説明しますね」
「ああ」
しばらくの間リンの説明が続いた。要するに、すっかり骨も筋肉もくっついたから、あとはリハビリでしなやかさを取り戻す努力をするだけだ、という話だった。正直、アクセルは話の中身についてはほとんど聞いていなかった。リンの低くて良く通る、気持ちの良い声が、淡々と耳朶に満ちていくのに任せて、ぼんやりと聞き入っていた。今共有しているこの時間、リンの表情、リンの吐息、親しげな視線。アクセルに向けられたリンの全てがアクセルを酔わせた。
だから、説明が終盤を迎えた時も、
「いや、ちょっと今のところがわからなかったな。もう一度説明してもらいたい」
と口をはさんでしまった。別に説明の中身なんかどうでもよかった。ただ、リンの声を、優しい眼差しを、思い遣りに溢れた雰囲気を、望んだ。それだけだった。
一方で、リンは根気強く説明しながらアクセルの瞳の中に宿る熱っぽいなにかに気付いていた。自分が恋愛音痴で、そういった方面にはとんと疎い人間であることには自覚があった。が、今や疑いようもないくらい、アクセルの身体の全てから、愛情が発散されているのを感じる。自然と高鳴る鼓動を押さえるのに必死になりながら、リンは説明を続けた。
とはいえ、始まったものはやがて終わるものだ。リンの主治医としての説明は終了した。もちろん、アクセルは頑張った。頑張って、いくつもの取るに足りない質問を繰り出して、この会見を長引かせる努力をした。しかし、とうとうネタは尽きて、リンの気持ちの良い話し声で満ちた時間は、終わらざるをえなかったのである。
ガッカリするアクセルとは裏腹に、緊張と興奮をなんとか抑えながら、
ゴクリ
リンは唾を飲み込んだ。とうとう、この時が来た。やるしかない。やってみるしかない。リンはアクセルの瞳を覗き込みながら、その口火を切った。
「閣下、ここからは主治医と患者、ではなく、一個人として閣下にお話ししたいことがあるんですが。
時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「えっ?」
アクセルはビックリした様子で、机の上に落としていた視線を上げてリンを見つめ返した。
「一…個人?」
「はい」
リンの手元でパタリとノートパソコンを閉じられ、その身体が改めてアクセルの方へと向き直った。
リンの方から口火を切ったことに些かの不安を感じながらも、アクセルは無言で待った。知らず知らずに両手を組んで膝の前に垂らす。
(お願いだ、リン。これで最後だなんて、言わないでくれ……)
アクセルは、そう、心の中で懇願した。




