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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
115/152

115.向き合う勇気

 ディスカストス侯爵、アクセル・ギルバートが晴れて退院することになったその日は、からりと晴れた初夏の晴天だった。開け放たれた窓からはこの上なく気持ちの良い風が入ってきている。まだ時折痛むことはあっても、概ね自由に動き回れるだけの骨と筋、そして筋肉を取り戻したアクセルは、病棟の最上階にある特別室の眺望の良い窓に寄りかかりながら、ひどくナーバスな気分で眼下の中庭を見るともなしに眺めた。


(とうとうリンと上手く話せないまま、今日を迎えてしまったな……)


忸怩(じくじ)たる思いを抱えながら、状況が今よりも悪化する危険を避ける気持ちが押さえきれず、なにも言わないままに、ここまで来てしまった。しかも、もうじきリンが主治医として最後の説明にやってくるのである。グッドマンもいない二人きりの状況で、イヤでも差し向かいになって、沢山の言葉を交わさなければならない。


(いや、伝えることは一つだけ、私がリンを愛しているということ。そして、いつまででも待っている、ということだけじゃあないか)


昨日の夜から何度も何度も反すうしては自分で自分に確認している事柄をなん百回目かに確認して、アクセルはフーッと大きく息を吐いたのだった。

 そんな風に物思いに耽るアクセルの髪の毛はうねうねとそのウェーブですっかりその男らしい項を覆い隠してしまっていた。切らずにいたこの3ヶ月ですっかり伸びてしまった不思議な色をした髪の毛が風に(あお)られてまき上がる。回診の度にリンが掻き上げてくれるのが嬉しくて、つい、前髪を伸ばしっぱなしにしてしまった。


(さすがにこのままでは会社には行けないだろうな)


そんなことを考えながら両手で乱れた髪の毛をなでつける。しかし、手櫛をいれるそばから風はいたずらっ子のようにアクセルの髪をなぶっては、まるで幼い頃のようにくしゃくしゃにしていくのだった。


*-*-*-*-*


 そんなアクセルの後ろ姿を伺いながら、リンはなけなしの勇気をかき集めていた。リンがその開け放たれたこの特別室の引き戸の影に立ってから、すでに5分が経過していた。

 とうとう今日を迎えてしまった。アクセルの退院の日。今日、この日がリンにとって、まさに正念場とも言える1日になるだろうことは、随分前から予測していた。それなのに、この体たらく!足が石のようになって動かないのだ。


(なにをやっているのよ?!リン・バクスター!今からこんな事じゃ、これから先が思いやられるじゃないの!!)


リンはずっしりと重い院内専用のノートパソコンを抱え直しながら、自分を叱咤した。

 思えばアクセルがこのマニティ島公立病院に運び込まれた次の日、グッドマンとのカウンセリングのような対話によって自分の愚かさに気付かされたリンは、ようやく彼女らしい考え方を取り戻すことができたのだった。そしてそれ以来、アクセルにはなんのそぶりも見せないまま、グッドマンと共に数々の布石を打ってきたリンなのである。

 今やそれらの策略も終盤に入り、その総仕上げの日を迎えようとしている。

 そして、このリンの人生とも言うべき、想いの全てを賭けた策略を成功させる為には、今ここで、アクセルに伝えなければならないことがあるのだ。その中身が、こうしてリンの足を重くし、また、口を鈍らせているのである。今から自分がアクセルに話す事は、今のリンにとってはひどく心苦しく、また、立場を変えれば到底受け入れられないように思える申し出なのである。なんと厚顔無恥な、と罵られても不思議はない、そんな頼み事なのだ。


(約3年前、あんな姿の消し方をした自分が、こんな事を口にして良いものか?アクセルの寛容さにつけ込むようなことをして良いものだろうか?)


どっちにしろ、頼み込むしか道はない。リンとてそれは良くわかっているのだ。しかしそれでも、迷うのをやめられないリンなのである。

 それはどこかアクセルとよく似た思考回路のようにも見える。ただ、アクセルの思考と決定的に異なる点は、リンは心の底から本気で、自分のような人間はアクセルの人生から退場する方が良い、と考えている点だった。

 リンは思う。


(私にはそれが出来る。3年前はなにもかも放り出して『逃げ出す』ことしか出来なかったけれども……。

 でも今なら、閣下の幸せを遠くで祈りながら、自分の醜さと向き合い、生きていくことが出来る……何故なら……)


リンの脳裏に、ステラのキラキラした灰色の瞳が思い浮かんだ。光の反射加減で、水銀の塊のようにゆらゆらと光る、父親によく似た灰色の瞳は日に日に豊かな表情を見せてくれる。

 リンに似て、頑固で探求心が強いステラだが、時折のぞかせる繊細でおっとりとした性格に触れるにつけ、リンはアクセルを想い出さずにはいられなかった。

 ステラの中には間違いなくアクセルが存在しているのだ。リンが愛した、少年のように繊細で複雑な精神(こころ)を抱えた、美貌の侯爵閣下。大切な両親を失い、その優しさ故に傷つき、リンを拒み傷つけ、やがて愛に目覚めて生まれ変わった人。リンの命よりも大切な人。


(だからこそ、私は、今度こそ向き合わなければならない。閣下の糾弾と。私自身の醜さと……)


リンはそっとIDカードケースの中に忍ばせたステラの写真を見た。笑っているステラ。その右頬に浮かんだエクボは、アクセルが歪んだ微笑みを浮かべるその時にかすかに刻まれる頬のくぼみと一寸たりとも変わらない。そんな二人の相似に出会うたび胸を突かれ、思慕を掻き立てられ、時に涙する自分を思い起こし、リンはかすかに笑った。そしてムクムクと沸き上がるやる気が、全身に満ちてゆくのを感じながら、ようやく腕を上げ、開け放たれた引き戸をノックした。


コンコンコン


弾かれたように振り向くアクセル。と、目が合ったリンは、愛する恋人へ極上の笑みを浮かべながらコクリと一つ会釈すると、大いなる決意を秘めて、その室内へと足を踏み入れていくのだった。


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