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海に降る雨  作者: 美斑 寧子
本編
114/152

114.ベッドの上の侯爵閣下

 アクセルの入院生活は何事もなく経過した。

 元々、身体を鍛えていたことが幸いし、ケガの快復が順調だったのはもちろん、毎日病室を訪れる、ドクター・リン・バクスターの顔を見つめる幸せそうなその表情は、身も蓋もない憶測と共に随分長い間ナース・ステーションの話題をさらった。

 アクセルは毎日毎日リンの来訪を心待ちにして時間を過ごした。

 リンは優しかった。丁寧で卒がない。ただしあくまで主治医の範疇を越えてこないその態度にアクセルは時折胸が痛むのを感じたが、それでもリンが優しく手を握っては、翌日の回診を約束してくれる事に安堵の息をついては、眠りにつくのだった。

 グッドマンは1週間に1度は定期便のフェリーに乗ってマニティ島を訪れ、アクセルの細々とした世話をしたりクローゼットの中身を整えたりしては、いくつかの案件の決済を持ち込んだ。加療療養中である患者に仕事をさせるなんて!と、リンは眉を(ひそ)めたが、グッドマンにしてみれば、責任のある立場にも(かか)わらずこうした無茶をして、多くの社員が路頭に迷うかもしれない事態を引き起こしているのは、当のアクセルなのである。たとえ、満身創痍で1日の大半をベッドの上で過ごし、移動は全て車いす、という状況であるとはいえ、右手と頭、そして口も十分無事だったのだ。この程度はしてもらわないと気が済まない、というのが本音というところだ。

 当のアクセル本人はといえば、リンが自分の事を心配してくれる様子に嬉しさを隠しきれない。加えて、忙しいはずのリンが、グッドマンの来訪に合わせて回診でもないのに病室を訪れてくれるのが、嬉しい誤算でもあった。

 そんな風にリンとアクセルの月日は穏やかに過ぎていき、やがて、大時化(おおしけ)の海を越えてディスカストス侯爵がやってきた、春の嵐の夜から約2ヶ月が過ぎた頃、主治医であるドクター・リン・バクスターはアクセルが退院できる程度まで快復した事を宣言した。


(どうすれば良いのだろう……)


しかし、嬉しいはずの退院通告に、アクセルはこの2ヶ月間、ついぞ感じたことのない困惑を感じた。

 今までビジネスの場で培ってきた交渉術も、冷静な判断力も、滑らかな言葉を紡ぎ出す自慢の頭脳も、すっかり鈍り果ててしまったような気がした。

 リンを探していた頃は、リンに会えたらこんな事を言おう、あんな事を言おう、なによりもう一度自分と人生を共にしてくれるように頼もうと心に決めていたはずなのに。テキパキと脈を取り、ナースに指示を出す、見るからに一人前の医師に成長したリンには、そうやって頭の中で用意していたどんな言葉をも、掛けることは躊躇(ためら)われた。

 アクセルと共に人生を過ごすということは、時に窮屈な社交生活につき合い、時に横柄な貴族階級の人々と言葉を交わし、時に下らない慣習に従うことを意味する。アクセル自身がうんざりしている事柄も多い。しかし、それらを全て拒否することは難しい。なにより、アクセルは自分が貴族階級であることが、人道支援を行う団体への寄付や支援金、投資を集めることに大きな役割を果たしていることに気付いてしまったからだ。

 アザリスで最も古い血筋を誇る、ディスカストス侯爵としての自分。だからこそ得られる、爵位に対する絶大な信頼度から目を(そむ)けることは、さすがに不可能なことだと、良く分かっているつもりだ。若い頃からカモにされる危険と同じくらい、ビジネスを有利に運ぶ為に必要な「信用」と言うものを、この身分というものが与えてくれた。だからこそ、アクセルは頼れる大人が、両親がいないという状況下でも、その身一つで事業を継続し、新たなビジネスを立ち上げ、財産を守り、増やすことが出来たのだ。

 初対面の人間に対して、侯爵家の人間だからという理由で得られる信頼というものがあり、ひいてはそれが財布の紐を(ゆる)めるきっかけになる。小さい頃こそ、半公人としてパパラッチに追いかけられ、プライベートについてあること無いことを、面白おかしくタブロイド紙に書き立てられてはイヤな思いばかりをしてきたアクセルだったが、大人になった今では、自分の貴族という立場が決して悪いものではないことを自覚していたのだった。

 なにより、リンとの出会いをきっかけに大きくその軸足を移すことになった、社会的投資コンサルタントとしての仕事や、自ら作成して売り込みまでを担っている孤児や社会的弱者への教育支援奨学金投資信託などに、大きな生き甲斐を感じるようになった今となっては、自分の持ち得る全てを利用しよう、そうしてビジネスをうまくまわしていこう、と思える気概を持てるようになった。

 つまりは、度々うんざりする時もあるとはいえ、そうした仕事が思いの外上手く行っている背景には、紛れもなく『ディスカストス侯爵』という肩書きがプラスの影響を与えている、と認めざるを得ない、そしてそんな自分の境遇も決して悪いものではない、と思えるようになった、ということだ。

 ところで、アクセルはリンに仕事を辞めて欲しいとは、決して思っていない。リンがこの医師という仕事、そして就業許可を得る為に『努力』などという言葉では到底表現しきれない程の辛い思いや謂われのない中傷や差別を受けたことを一番わかっているのは自分だという自負があるからだ。

 アクセルは、そんなリンをこそ愛している。努力するリン。努力し続けるリン。大きな困難に遭っても立ち向かい、粘り強く、諦めず、腐らず立ち止まらず、(たゆ)みなくその足を進め続ける、そんなリンだからこそ、アクセルは愛しているのだから。

 しかし、そこから先へ思考を進めるたびに、リンへの思いを自覚した時からジクジクと胸の奥底に(わだかま)る、暗い考えに行き着いてしまう。


(本当は、リンが望むとおり自分はリンの人生から退場するほうが良いのかも知れない……)


リンが消えてからと言うもの、何百回と頭に浮かんでは無理矢理うち消してきたネガティブな考えに、弱気な思考の迷路に迷い込みながらアクセルは思う。

 しかし、それもやがて鋭い胸の痛みと共に呆気なく霧散するのだ。


(どうやっても無理なことは、考えても無駄だ。そんなことを考えるなんて、無意味だ)


アクセルは思う。


(リンのいない人生……リンが他の誰かと笑い合って暮らしている様を、指をくわえて眺めるだけの人生なんて、それこそ、耐えられるわけも無い)


大人ぶって諦めたフリをして、それでも諦められずに悶々と悩みながら、心の底では「いつか……いつか……」とリンとの人生を夢想しながら生きていくほうが、ずっと非現実的だ。アクセルはそんな風に考えている。

 自分もリンも、まだ、生きている。それにリンはまだ自分の人生を共にする相手を見つけていないようだ。というのも、グッドマンに命じてリンが住む場所から毎日の仕事のシフトまで全て調べ上げているアクセルである。


『なんと嘆かわしい。旦那様、世間ではそれをストーキングと呼ぶのですよ?』


呆れた様子で大袈裟に嘆いて見せた老執事を無言で無視して、この汚れ仕事を承諾させたのは入院直後のことだった。

 しかし、悲しいかな、ディスカストス侯爵閣下はその肝心な、信頼に足るべき家令筆頭執事がすでに、次世代の侯爵令嬢可愛さに、然るべき報告をしないまま、この2ヶ月間を過ごしてきたことに気付いていないのだった。

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