第5話 呪(しゅ)
駅前に来て、昨夜のことを警察に届け出ておくべきかもしれない、という考えが頭に浮かんだ。
ひょっとしたら、自分以外にも、同じような被害を受けている人がいるかもしれない。
自分は解放されたが、そうでない人がいたとしたら――
駅に近づくにつれ、そんな思いが強くなった。
しかし、彼には警察に対する苦手意識がある。
必然的に、交番に近づくにつれ、足取りは重くなっていく。
それでも、彼は義務感から交番に向かった。
しかし、着いてみると、その交番には誰もいなかった。
通常ならあるはずの不在時連絡先も表示されていない。
これでは昨夜の事件について届け出ておくことはできない。
本来なら、助けが得られないことに気落ちするところだろうが、彼は、その状態にほっとしていた。
そもそも彼は警察には何も期待していない。
ただ、義務感から交番を訪れただけなのだ。
これで、少なくとも、建前上は義務を果たした。
彼はそんな気持ちで交番をあとにした。
彼はある種のご近所トラブルで警察に相談したことがある。
最初は県警本部の電話相談窓口で相談し、その指示にしたがって所轄署に行った。
県警本部の指示は、警察官にトラブルの相手宅に行ってもらえというもの。
その問題は、所轄の警察官が調整してくれるはずだと。
だが、所轄署では、警察の仕事に関する認識が県警本部とは大きくちがっていた。
所轄署に行ってみれば、そんなことは警察の仕事ではないと拒絶された。
県警本部の意向を示したうえで説得を続けた結果、まず確認するから、トラブルが起きている最中に110番通報しろ、ということになった。
だが、警察の腐敗は、彼の想像を超えていた。
「こんなことで呼ぶんじゃねえ。こんなもん警察の仕事じゃねえんだよ」
到着した巡査は、身分証明書さえ見せず、一方的に、十分以上に渡って大声で喚き散らした。
ちょっとした彼なりの「教育」が正当化されそうなレベルで。
こうした経緯で、彼は、警察に正義があるとは思わなくなっている。
おまけに、始終報道される県警の不祥事が、彼の考えをさらに強くしていく。
だから彼は交番が留守でほっとしたのだ。
警察はどうせ何もしないのだ。
しかし、ほっとした一方で、あの怪奇現象は収まる気配がない。
怪奇現象――あの「かげり」である。
家への道すがら、彼はあの「かげり」を何度も目にすることになった。
そのうえ、何度も観察することで、その実態が、さらに観えるようになっていく。
状況と色を合わせて考えるに、あれは人から漏れ出る呪詛の一種だろう。
彼はそう考えるようになった。
いまの彼には、それぞれの「かげり」に色がついて見えている。
その色は、それぞれの状況から見るに、抱く劣情の種類によるものだろう。
電車の動きに応じて隣の中年女の身体がもたれかかるたびに、脂ぎったサラリーマンから黒ずんだコーラルピンクが煙のように湧き出ている。
吊革につかまる定年間近と思しきスーツ姿の男からは、ずっと赤黒い何かが放射されている。
近寄りたくないと生理的嫌悪を覚える人たちは、ドブ色であったり、糞便の色であったり、印象と一致するような色を纏っている。
こうした経緯で、彼は、見えているのは、呪詛あるいは呪力だと結論づけた。
しかし、観察をつづけると、そうとも言い切れないケースが存在することに気づいた。
稀に微かなきらめきを見かけることもあるのだ。
サファイヤのような青。
エメラルドのような緑。
それら美しい色は、呪力ではありえない。
目にした瞬間、彼はそう直感した。
間違いなく、それは何か尊いものだ。
もっとも、それらはすぐに消えてしまう。
いま見えているものが、心から生ずる何かだとすれば、きれいな光はきれいな心と考えられる。
しかし、それは極めて稀で、すぐ消えてしまうようだ。
彼は最初の呪詛説を否定し、見えている現象は、根源的な何かだと考えはじめた。
そして、かつて読んだ安倍晴明について描いた小説を思い出し、「呪」と呼ぶことにした。
帰宅してすぐ、彼は呪の実験をはじめた。
鏡を見ながら昔の嫌な思い出を呼び起こす。
その状態で自分の周りに陰りが生じるのか見定めるのだ。
だが、何も見えない。
彼の中に疑問がわく。
そもそも呪は鏡に映るものなのか?
わからないことに苛立ちがつのる。
自分にへんな術をかけてくれた誰かへの怒りが沸き上がる。
すると、帰り道で感じた、原初の衝動が膨れ上がってきた。
いま、鏡に映る自分から、鮮やかなルビー色をした何かが蒸気のように湧き出ている。
電車の中では見なかった色だ。
そう考えた途端、彼の中で膨れ上がっていた何かが霧散し、ルビー色の何かも見えなくなった。




