第132話「謎かけ」
灰色区から地上に戻った後、レオンはすぐには帰らなかった。
坊市の外環区が、いつもと違う雰囲気だった。
大通りに色とりどりの旗が掛けられ、露店が道の両側にずらりと並んでいる。焼き菓子の甘い匂い、香辛料の香り、革細工師が槌を振るう音。子供たちが走り回り、楽師が角笛を吹いている。
「坊ちゃま、今日は季節市ヤールマルクトの日でした」
ローシーが思い出したように言った。
季節市。カルディア坊市が年に四度開く祝祭市場だ。普段は入場に身分証が必要な坊市も、この日だけは外環区が一般に開放される。近隣の村や町からも人が集まり、坊市は一年で最も賑わう。
「少し見て回るか」
レオンはローブの内側にアトリウム・ニグルムが収まっているのを確認してから、人混みの中に足を踏み入れた。
衛兵たちは少し離れた位置からついてくる。季節市の日は管理局の巡回も増えるので、護衛の必要はほとんどないが、形式上の随行だ。
ローシーはレオンの半歩後ろを歩いていた。視線が忙しく動いている。露店に並ぶ色硝子の小瓶、刺繍入りの手袋、銀細工の小箱——目が輝いているのに、足は止めない。
レオンはそれに気づいていた。
前世の感覚で言えば、ウィンドウショッピングだ。見るだけ見て、欲しくても買わない。ただし前世のそれは金がないからで、ローシーの場合は立場が許さないからだ。侍女が主人の前で物欲を見せるのは、この世界では慎みに欠ける行為とされている。
面倒な文化だ、とレオンは思った。
『……侍女というのは不便なものだな。主人の前では自分の欲しい物を見ることすら遠慮する』
オーグリが脳裏で呟いた。
珍しく意見が一致した。
◆◇◆
大通りの中ほどに、人だかりができていた。
木造の露店だった。他の露店より一回り大きく、屋根には色鮮やかな布が張られている。台の上に、首飾りや耳飾り、髪飾りが赤い布の上に並べられていた。銀細工が多いが、中には小さな宝石を嵌め込んだものもある。
だが、客は誰も品物に手を触れていなかった。
露店の前に、木の板が立てかけてある。板には、丁寧な字で書かれた一文。
**『当店は金貨では売りません。知恵で買っていただきます。謎に答えた方にのみ、お譲りいたします』**
店主は初老の男だった。白髪を後ろで束ね、仕立てのいい上着を着ている。商人というよりは学者に近い風貌で、目の奥に愉快そうな光が宿っている。
「何だこの店は」
「季節市の名物ですよ、坊ちゃま」
ローシーが小声で説明した。
「ヘルマン爺さんの謎かけ屋台。年に四度の季節市にしか出ません。ご本人は元々グリフィン商会の宝石職人だったとか。引退後に趣味で始めたそうで——謎を解いた人にだけ、商品を売ってくれるんです」
「金を出しても売らないのか」
「ええ。いくら積んでも駄目です。答えるか、帰るか。それがこのお店の規則ルールで」
レオンは人だかりを見渡した。
集まっている客層に、ある偏りがあった。
若い女性が多い。それも、身なりのいい女性ばかりだ。仕立てのいいドレス、手入れされた髪、控えめだが上質な装飾品。貴族の令嬢か、裕福な商家の娘か——いずれにしても、金に困っていない層だ。
金に困っていないのに、謎を解かないと買えない首飾り屋に群がっている。
レオンは前世の記憶を手繰った。こういう仕掛けは見覚えがあった。前世の東京にも、「クイズに正解したら割引」というカフェや、「謎解きクリアで限定グッズ」というイベントがあった。商品そのものより、「自分の知恵で手に入れた」という体験に価値がある。SNSで自慢できる。友達に話せる。
この世界にSNSはないが、構造は同じだ。
季節市にしか出ない謎かけ屋台。金では買えない。知恵で勝ち取るしかない。——もし解けたなら、社交の場で格好の話題になる。「あのヘルマン爺さんの謎を解いたのよ、私」と。
つまりこの老人は、首飾りを売っているのではない。「知恵で勝ち取った」という物語ストーリーを売っているのだ。
元宝石職人で、引退後の趣味。道理で商売っ気がないわけだ。儲けは二の次で、自分の謎を解ける人間に出会うのが楽しいのだろう。
なかなか食えない爺さんだ、とレオンは思った。
◆◇◆
露店の前に、二人の若い女性が立っていた。
一人は亜麻色の髪を編み込みにした、柔らかい雰囲気の娘。もう一人は黒髪を肩まで垂らした、少しきつめの目元をした娘。どちらも仕立てのいいドレスを着ている。
レオンは二人を一目見て、ある程度の推測を立てた。
貴族か、大商家の令嬢。それも、それなりに教育を受けている。字が読めなければ謎かけに挑もうとすら思わないし、三問も挑戦しているということは、自分の知力にある程度の自負がある。
この手の女性には共通した傾向がある——前世の言葉で言えば、「意識が高い」。文化的な嗜みを持っていると思われたい。社交の場で知性を示したい。だからこそ、金で買える普通の首飾りではなく、わざわざ謎かけ屋台に来る。
悪いことではない。ただ、この老人の謎は、その程度の意識の高さでは解けないレベルに設定されている。だからこそ人だかりができ、だからこそ屋台は十年続いている。
よくできた商売だ。
亜麻色の髪の娘が、台の上の髪飾りを指差していた。銀の蔓草に小さな青い石が嵌め込まれた繊細な品だ。
「あれが欲しい。ねえ、お爺さん、お金なら出すから——」
「駄目じゃよ」
ヘルマン老人は笑顔で首を振った。
「うちの規則は規則だ。まずは謎に答えてもらおう」
「もう三つも間違えたのに……」
「何度でも挑戦できるよ。では、次の謎だ」
ヘルマン老人は指を一本立てた。
「——買えば買うほど減るが、使えば使うほど増えるもの。これは何だ?」
亜麻色の娘が唸った。黒髪の娘が腕を組んで考えている。
「買えば減る……お金? でもお金は使えば減るわ……」
「食べ物? いや、使えば増えるって何よ……」
レオンは二人の後ろで、腕を組んで聞いていた。
前世で聞いたことのある謎かけだった。小学校の頃、学級文庫のなぞなぞ本に載っていた類だ。テレビのクイズ番組でも定番のネタだった。まさか異世界の祝祭市場で再会するとは思わなかったが。
答えは「知識」。
金を払って書物を買えば懐は減るが、学んだ知識は使うほどに身につく。前世でも異世界でも、真理は変わらないらしい。
脳裏でオーグリが考え込んでいる。
『……買えば減り、使えば増える? 矛盾しているな。錬金素材か? いや、素材は使えば減る。魔力? 魔力は——』
千年前の大錬金術師は、どうやらこの手の言葉遊びに慣れていないらしい。学問や魔術の知識は膨大だが、庶民の謎かけは専門外ということか。
「お嬢さん方、降参かな?」
「……ヒントは?」
「ヒントはないよ。答えるか、帰るか」
二人の令嬢は肩を落とした。台の上の髪飾りに未練たっぷりの視線を投げながら、露店の前を離れようとする。
亜麻色の娘の横顔に、はっきりと落胆が見えた。あの髪飾りが本当に欲しかったのだろう。金なら出せるのに、知恵が足りなくて買えない。この屋台のもどかしさは、そこにある。
レオンが一歩前に出た。
「俺が挑戦してもいいか?」
ヘルマン老人が顔を上げた。レオンを見る。十四歳の少年。質素だが仕立ては悪くないローブ。
老人の目が一瞬、値踏みするように細くなった。この老人は長年、挑戦者の目を見てきたのだろう。答えを知っている者の目と、当てずっぽうの者の目は違う。レオンの目に何を見たのかはわからないが——老人は、少し姿勢を正した。
「もちろん。何度目でも挑戦は自由だ。では——同じ謎から行こうか」
「買えば買うほど減るが、使えば使うほど増えるもの」
「知識だ」
即答だった。
ヘルマン老人の目が丸くなった。
二人の令嬢が足を止めて振り返った。
「——正解だ」
老人の声に、驚きの色が混じった。
「金を払って書物を買えば懐は減るが、学んだ知識は使うほどに身につき、増えていく。正解だよ、坊や。随分と早いな」
『——知識だと?』
オーグリの声が脳裏に響いた。呆気に取られている。
『くだらん小謎かと思ったが……なるほど、言われてみれば確かにそうだ。貴様、何故即答できた?』
前世のなぞなぞ本のおかげだ。とは言えない。
『勘だ』
『勘で即答する奴があるか』
「次を」
レオンは淡々と言った。
ヘルマン老人の目が細くなった。面白い、という顔だ。この老人にとって、謎を解かれることは悔しさではなく喜びなのだろう。自分の謎に正面から答えられる相手に出会えた嬉しさ。職人気質の人間は、どの世界でも似ている。
「では二問目——自分のものなのに、他人の方がよく使うもの。これは何だ?」
周囲の人だかりがざわめいた。先ほどの即答を見て、注目している者が増えている。
二人の令嬢も足を止めたまま、レオンを見つめていた。亜麻色の娘は口元に手を当てて、黒髪の娘は腕を組んだまま——どちらも、好奇心を隠せていない。
レオンは内心で苦笑した。
これも知っている。前世の定番なぞなぞだ。小学生でも知っている部類の。
答えは「名前」。自分の名前は自分のものだが、自分で呼ぶことはほとんどない。呼ぶのはいつも他人だ。
前世の記憶がこんな形で役に立つとは思わなかった。異世界転生の特典が、剣でも魔法でもなく、なぞなぞの知識。笑えない。いや、少し笑える。
『自分のものなのに、他人が使う……? 魔術回路か? いや、それは自分が使う。武具? 紋章?』
オーグリが珍しく唸っている。千年の知識を持つ大錬金術師でも、この手の言葉遊びは勝手が違うらしい。考えれば考えるほど、専門知識が邪魔をする。答えは学問の中にはない。日常の中にある。
「名前だ」
沈黙が落ちた。
ヘルマン老人が、ゆっくりと頷いた。
「……正解だ。自分の名は自分のものだが、呼ぶのはいつも他人だ」
人だかりから感嘆の声が漏れた。二問連続即答。
亜麻色の髪の令嬢が、黒髪の令嬢の袖を引いた。
「ねえ、あの人——」
「見てる。黙って」
二人の視線がレオンに注がれていた。
『……貴様、この手の謎に妙に強いな。どこで覚えた?』
『言っただろう。勘だ』
『勘で二問連続即答する人間がいるなら、錬金術師など要らんわ』
ヘルマン老人は微笑んだ。だが、その微笑みの中に、職人の矜持が光った。
レオンはそれを見て、少し緊張した。あの目は「本気」の目だ。一問目、二問目は定番の謎だった。だが三問目は、おそらく老人が本当に試したい問題を出してくる。前世の知識で対応できるかどうかは、謎の内容次第だ。
「坊や、なかなかやるな。——では三問目。これは今日一番の難問だ」
老人は身を乗り出した。
「——上がることはできるのに、下がることができないもの。これは何だ?」
沈黙が落ちた。
人だかりの中から、誰かが呟いた。「煙?」「いや、煙はいずれ消えるだけで……」「階段? 階段は下がれるだろう」「太陽か?」
二人の令嬢も考え込んでいる。黒髪の娘が指を唇に当てて首を傾げた。
レオンは——一瞬だけ、間を置いた。
三問目にして、初めて即答しなかった。
答えがわからないからではない。わかっている。これも前世で聞いたことがある。中学の頃、クラスメイトが休み時間に出してきた謎かけだ。答えを聞いた時、「なるほど」と膝を打った記憶がある。
だが、あまりにも早く答えすぎるのも考え物だった。三問全て即答では、目立ちすぎる。レオンはヴァイスハウプト辺境伯家の嫡男だ。名前が知れれば面倒が増える。
——いや。
考えすぎだ。季節市の謎かけ屋台で、そこまで警戒する必要はない。
それに、あの老人は待っている。本気の問題を出して、本気の答えを待っている。ここで小細工をするのは、あの職人への無礼だ。
『上がるが下がらない……? 炎か? いや、炎は消える。温度か? 温度は下がる。山か? 山は——いや、山は上がりも下がりもしない。くそ、わからん。レオン、貴様わかるか?』
オーグリが珍しく苛立っている。千年の叡智が、言葉遊びに躓いている。少し愉快だった。
「年齢だ」
ヘルマン老人の手が止まった。
「年齢は上がる一方で、決して下がらない」
長い沈黙。
ヘルマン老人は——笑った。
深く、嬉しそうに笑った。
「十年この屋台をやっているが、三問全て即答したのはお前が初めてだよ、坊や」
人だかりから、拍手が起きた。まばらに、やがて大きく。
『……年齢、か』
オーグリが呟いた。その声に、悔しさと感心が半々で混じっていた。
『言われてみれば当たり前のことだ。だが当たり前すぎて盲点になる。——この手の謎は、知識の多さではなく、物の見方の柔らかさが問われるのだな。千年生きた分だけ、頭が固くなったということか』
レオンは心の中で薄く笑った。
頭が固くなったのではない。オーグリの知識はすべて「錬金術」という枠組みの中にある。謎かけの答えは、その枠組みの外にある。知識が多い人間ほど、自分の専門分野の中で答えを探してしまう。前世の大学教授が、小学生のなぞなぞに苦戦するのと同じ構造だ。
逆に言えば、前世の「雑学」は、この世界では意外な武器になる。剣でも魔法でもない、最も地味で、最も予想外の武器。
二人の令嬢が目を輝かせてレオンを見ていた。
「すごい……! ねえ、あなた、学院の方?」
亜麻色の髪の娘がレオンに駆け寄ってきた。黒髪の娘も、先ほどのきつい目元がすっかり柔らかくなっている。
警戒心が消えている。先ほどまでは見知らぬ少年にすぎなかったが、三問即答という「実績」が、レオンに対する評価を一変させたのだ。人間は、能力を示した相手には心を開きやすい。前世も今世も変わらない。
「ただの通りすがりだ」
「通りすがりであんな謎を——」
「さて、坊や」
ヘルマン老人が台の上を手で示した。
「三問正解だ。好きなものを三つ、持っていきなさい。これがうちの規則だ」
台の上に並ぶ首飾り、耳飾り、髪飾り。銀細工に宝石を嵌め込んだ品々が、祝祭の灯りを受けて静かに輝いていた。
三つ。
レオンは台の上を見渡しながら、素早く考えた。
一つはローシーに渡す。最初からそのつもりだった。さっきから露店の品物を横目で見ては視線を逸らしていた侍女の顔が、頭の片隅にあった。
残り二つ。自分には要らない。男物の装飾品もあるにはあるが、興味がない。
——なら、さっきの二人に渡せばいい。亜麻色の娘はあの髪飾りを欲しがっていた。金は出せるのに知恵が足りなくて買えなかった。悔しかっただろう。
善意だけではない。打算もある。見知らぬ令嬢に恩を売っておいて損はない——と言いたいところだが、正直そこまで考えていなかった。単純に、余った品物の使い道がそれしかなかっただけだ。
一つ目。銀の鎖に小さな碧い石が下がった首飾り。
二つ目。銀の蔓草に青い石を嵌め込んだ髪飾り——さっき、亜麻色の娘が欲しがっていた品だ。
三つ目。銀の細い輪に、淡い紫の石が一粒嵌め込まれた耳飾り。
レオンは三つを手に取った。
そして——振り返った。
亜麻色の髪の令嬢に、髪飾りを差し出した。
「これ、欲しかっただろう」
娘の目が大きくなった。
「え——でも、あなたが勝ち取ったものよ?」
「俺には使い道がない」
隣の黒髪の娘に、耳飾りを渡した。
「こっちはあんたに」
「わ、私に——?」
二人の令嬢は顔を見合わせ、頬を赤く染めた。
「あ、ありがとう——あの、お名前は——」
レオンはもう答えなかった。
二問目の答えが「名前」だったことを思い出して、少しだけ可笑しかった。自分のものなのに他人がよく使うもの。——だが、今は使わせるつもりはない。
手元に残った最後の一つ——碧い石の首飾りを持ったまま、半歩後ろに立っているローシーの前で足を止めた。
ローシーは一部始終を見ていた。坊ちゃまが三つの謎を即答で解いたこと。見知らぬ令嬢たちに品物を渡したこと。そして今、最後の一つを手に——自分の前に立っていること。
レオンは首飾りを差し出した。
「これ」
ローシーは目を瞬いた。
「……坊ちゃま?」
「お前に」
ローシーの手が止まった。
首飾りを見つめている。銀の鎖に、小さな碧い石が一粒。飾り気はないが、祝祭の灯りの下で、石が淡い光を放っていた。
「わ、私に——ですか?」
「他に誰がいる」
ローシーの顔が赤くなった。耳の先まで。
「で、ですが——私は侍女で——こんな——」
「季節市の土産だ。深い意味はない」
そう言いながら、レオンは自分の言葉の白々しさを自覚していた。
三つ選べる中で、最初に目が行ったのがこの碧い石の首飾りだった。ローシーの灰色の瞳に映えるだろうと——そこまで考えて選んだ時点で、「深い意味はない」は無理がある。
だが、それを認めるのは十四歳の自分には早すぎる。前世の三十代ならともかく。
『深い意味はない、か。まあそういうことにしておけ』
オーグリが脳裏で笑った。
『——しかし二問目の答えが「名前」だったな。自分のものなのに他人がよく使う。なるほど——名前というのは贈り物に似ている。持っている本人より、呼ぶ側の方が、その重みを知っている』
珍しく詩的なことを言う。千年も生きると、言葉遊びは苦手でも、言葉の奥行きには敏感になるのかもしれない。
ローシーは首飾りを受け取った。両手で、壊れ物を扱うように。
「……ありがとう、ございます」
声が小さかった。俯いているので表情は見えなかったが、首飾りを握りしめた指先が、微かに震えていた。
後ろで、二人の令嬢がこちらを見ていた。
亜麻色の娘が黒髪の娘の袖を引いた。
「ねえ、あの人——侍女さんにあげてる……」
「…………見てる。黙って」
黒髪の娘の声が、先ほどよりさらに小さかった。
レオンの耳にはしっかり聞こえていたが、聞こえないふりをした。




