第131話 坊市の地下
観艦式が終わった午後。二人は港から坊市に向かった。
内環区を抜け、深層区の最奥にある階段の前に来た。
「レオン様、あの……地下って怖くないですか」
ローシーが小声で言った。灰色の目をきょろきょろさせている。
「ついてくるだけでいい。余計なことは言うな」
「はいっ」
階段の手前で門番に錬金術師協会の会員証を提示した。六級の証。ローシーは従者として通された。
◆◇◆
地下の灰色区グラウゾーネに降りた。
天井は低く、照明は魔石灯の薄い青だけ。だが通路の両側には店が並び、人の往来は地上に劣らない。客層が違う。フードで顔を隠した魔導師、無表情な商人、甲冑の下に目だけを覗かせた傭兵たち。
灰色区は——坊市の管理体制の中で、公には存在しないことになっている区画だ。だが実態は、帝都の裏経済を支える巨大な流通網の末端にあたる。
ここで扱われる品物の多くは、密輸品だ。
帝国は魔導素材の流通を厳しく管理している。特に軍事転用が可能な素材——耐魔鉱石、高純度の魔晶、特殊触媒——は帝国技術院の認可なく売買できない。正規の流通に乗せるには、書類の山と半年以上の審査が必要になる。
だが需要はある。冒険者、傭兵団、地方の貴族、そして——辺境に赴く者。正規の手続きを踏んでいる暇がない人間にとって、灰色区は唯一の選択肢だった。
密輸のルートは主に三つ。北の辺境からエリニエータ王国経由で流れてくる魔鉄鉱。東の沿岸部からアルビオン商人が持ち込む海洋素材。そして南の大森林地帯から亜人の行商人が運んでくる希少薬草。いずれも帝国の関税と認可を避け、坊市の灰色区に集まる。
管理局は見て見ぬふりをしている。理由は単純だ。灰色区の取引から上がる「寄付金」が、坊市の運営費の三割を賄っているからだ。
ローシーがレオンの袖を掴んだ。
「……空気が怖いです」
「慣れろ」
『三番通路を右だ。「灰の瓶アッシェンフラッシェ」という店だ』
三番通路に入った。通路の両側に怪しげな店が並ぶ。乾燥した魔獣の部位。瓶詰めの液体。出所不明の鉱石。
奥に、看板のない小さな店があった。棚の上に灰色の瓶が一つ。
レオンは扉を開けた。
◆◇◆
店内は狭く、薄暗い。壁面の棚に素材が並び、カウンターの奥に太った禿頭の男が座っていた。丸い眼鏡。金の指輪が三つ。
「いらっしゃい。何をお探しで」
「耐魔素材だ。魔鉄鉱マギアイゼンと耐魔触媒レジストカタリュサートル」
店主の目が光った。
「お目が高い。——ただし、魔鉄鉱が一塊で金貨三十枚。耐魔触媒が一瓶で六十枚。合わせて九十枚になります」
『相場の倍だ』
「高いな。北ルートの魔鉄鉱なら相場は十五。触媒は東ルートのアルビオン精製品で三十。合わせて四十五だろう」
店主の笑顔が固まった。密輸ルートの相場まで把握している客は、そう多くない。
「……お客さん、お詳しいですね」
「純度九割五分なら二十枚。触媒の三回精製なら四十枚。合わせて六十枚。それ以上は出さない」
店主は数秒レオンを見つめ、ふっと笑った。
「六十枚。いいでしょう」
レオンは金貨を並べた。正確に六十枚。店主は棚の奥から品物を出した。
黒い布に包まれた拳大の鉱石——魔鉄鉱。表面が微かに青黒く光っている。そして封をされた小瓶——耐魔触媒。
『本物だ。純度も悪くない』
レオンは確認し、鞄に収めた。店を出た。
◆◇◆
三番通路を戻り、中央通りに出た。
前方から、甲冑の音が響いた。
規則正しい足音。二十人以上。通路の角を曲がって、帝国騎士の一隊が現れた。灰色区の定期巡回だ。完全に取り締まるのではなく、秩序を維持する程度の——管理局と暗黙の了解がある巡回。
先頭に立つ男を見て、レオンは足を止めた。
四十代半ば。短く刈り込んだ灰色の髪。四角い顎。胸甲に刻まれた紋章——獅子と剣。セレストーム侯爵家の家紋。
ヴォルフガング・ブレンナー。侯爵家直属の騎士団、第三中隊百人隊長ケントゥリオ。父カッセルリックの代から仕えている古参の武人。今年はセレストーム家の坊市管理当番年だ。騎士団が灰色区の巡回にあたっているのも、その一環だろう。
レオンとの接点は多くない。侯爵家の行事で何度か顔を合わせた程度。レオンが「天才」と呼ばれていた七、八歳の頃、稽古場で体術の手本を一度だけ見せてもらったことがある。それきりだ。
壁際に寄ってやり過ごすつもりだった。だがヴォルフガングの目は——戦場で鍛えた目は、通行人の顔を見逃さなかった。
視線がレオンの上で止まった。僅かに眉を上げた。
副官に短く告げてから隊列を離れ、レオンの前に歩み寄った。
「……レオン坊ちゃまか」
低く、落ち着いた声だった。
「ブレンナー隊長。お久しぶりです」
レオンは軽く頭を下げた。
ヴォルフガングは周囲をちらりと見た。灰色区の通り。怪しげな店。
「……こんな場所で何をしておられる」
詰問ではなかった。だが心配の色が滲んでいた。
「買い物です。錬金素材を」
ヴォルフガングの目がレオンの鞄に一瞬向いたが、それ以上は覗き込まなかった。
「……辺境行きの話は、聞いております」
短い沈黙。
「侯爵閣下の命で、北の封地に赴かれると。——儂は、あの決定を聞いた時……」
言葉を切った。軍人として主家の決定に私見を述べるのは越権だ。だがその沈黙自体が、一つの意見だった。
「お気遣いなく。やることがあって辺境に行きます」
ヴォルフガングはレオンの目を見た。七、八年前の子供の目ではなかった。
「……そうですか」
懐から一枚の名刺を取り出した。質素な紙に、名前と所属だけ。
「北の辺境には、儂の旧友が何人かおります。エリニエータ王国との国境付近にいる退役軍人たちです。もし何かあった時は、この名前を出してください。力にはなれんかもしれませんが、少なくとも敵にはなりません」
レオンは名刺を受け取った。
「……ありがとうございます」
「いえ。——坊ちゃまが稽古場で転んでも立ち上がっていた頃を、儂はまだ覚えております」
四角い顔に僅かな笑み。すぐに消え、軍人の顔に戻った。
「では。巡回がありますので」
ヴォルフガングは踵を返し、隊列に戻った。騎士たちの足音が遠ざかっていった。
◆◇◆
「……レオン様、今の方は?」
ローシーが恐る恐る声をかけた。
「うちの騎士団の百人隊長だ」
「お知り合いなんですか?」
「昔、少しだけ」
レオンは名刺をポケットにしまった。北の辺境の退役軍人。使えるかどうかは分からない。だが繋がりは多い方がいい。
『ほう。あの男、なかなかの好漢だな。主家の落ちこぼれに自分の人脈を渡すとは。損得勘定ではなく、人を見ている』
二人は地上に出た。
午後の陽が傾き始めていた。レオンは鞄の中身を確認した。魔鉄鉱。耐魔触媒。そして——遺跡で得たクィンテッセンツの破片。
素材は揃った。
坊市の外環区に戻ると、いつもと違う雰囲気だった。
大通りに色とりどりの旗が掛けられ、露店が道の両側にずらりと並んでいる。焼き菓子の甘い匂い、香辛料の香り、子供たちが走り回り、楽師が角笛を吹いている。
「あ——レオン様、今日は季節市ヤールマルクトの日でした!」
ローシーが思い出したように声を上げた。目が輝いている。
「少し見て回るか」
「いいんですか!?」
返事を待たず、ローシーの足取りがもう速くなっていた。
レオンは小さく息をつき、その後に続いた。




