第130話 海の常識と鉄甲
翌日。
帝都カルディアの中央港に、朝から人が集まっていた。
貴族、将校、下院議員、帝国技術院の学者たち。皆一様に厚手の外套を纏い、海風に顔をしかめている。
レオンは馬車を降り、潮の匂いを吸い込んだ。
「うわ……すごい人ですね」
背後からローシーが降りてきた。小柄な少女は亜麻色の髪を風に揺らし、寒さで鼻の頭を赤くしている。丸い灰色の目を見開いて群衆を見渡す。レオンの従者であり、幼少期から仕えてきた女中だ。平民の出だが、侯爵家の下働きだった母親の縁で、七つの頃からレオン付きとなった。
「侯爵家全員に召集がかかるとは、よほどのことだな」
レオンは呟いた。昨日、父カッセルリックから短い伝言が届いた。『明日の観艦式に出席せよ』——それだけだった。
前方の高台に、セレストーム家の面々が見えた。
父カッセルリックは将校たちの列に混じり、海軍大臣と何やら言葉を交わしている。その傍らに長兄ティモシーが正装で控え、エイドリアンが腕を組んで立っていた。
距離がある。レオンの立ち位置は、家族から二十歩以上離れていた。侯爵家の「正式な」席と、辺境送りが決まった四男の場所。その間に、見えない壁がある。
エイドリアンの視線が一瞬だけこちらを掠めた。だが——何も映していなかった。嘲笑でも、憎悪でもなく、ただの無関心。まるでそこに誰もいないかのように、すぐに視線を戻した。
あの激しい怒りの方が、まだ楽だった。無視されるのは——存在を消されるのと同じだ。
「レオン」
不意に、横から声がかかった。
オースティンだった。家族の列からわざわざ離れ、こちらに歩いてきていた。
「……何だ、オースティン兄上。あっちにいなくていいのか」
「別に。式が始まるまで暇だからな」
オースティンは隣に並び、何でもないように海を見た。だがその行為自体が——家族の輪を離れてレオンの傍に立つこと自体が、ひとつの意思表示だった。
かつてオースティンが向けていた罪悪感と嫌悪の入り混じった目は、もうない。代わりにあるのは、ぎこちないが確かな——兄弟の距離感だった。
「辺境の準備は進んでいるか」
「まあまあだ」
「……そうか」
オースティンは少し黙った。周囲を窺うように視線を巡らせてから、声を落とした。
「レオン。一つ、知っておいた方がいいことがある」
「何だ」
「辺境行きの件だが——父上の本意じゃない」
レオンは眉を上げた。
「……どういう意味だ」
「お前の演武を見て、父上の考えは変わりかけていた。あの一戦の後、親父は執務室で長老たちと随分揉めたらしい。ティモシー兄上から聞いた」
オースティンは海風に目を細めた。
「だが家というのは——父上一人のものじゃない。長老会がある」
セレストーム侯爵家は、当主の独裁で動く家ではない。侯爵家の重要な決定——領地の配分、継承権の序列、婚姻同盟——これらは全て、長老会の合議を経る。当主に最終決定権はあるが、長老たちの総意を無視すれば、家そのものが瓦解しかねない。
「今、長老会は二つに割れている」
オースティンは指を二本立てた。
「一派はティモシー兄上を推している。嫡男で、長子で、能力も安定している。正統派だ。ゲルハルト長老を筆頭に、古参の長老たちが名を連ねている」
「もう一派は?」
「エイドリアン兄上だ」
レオンは僅かに目を細めた。
「……母上——イザベラ様の実家か」
「ああ。イザベラ様の実家であるヴァイセン伯爵家との繋がりを持つ長老たちだ。ブルクナー長老が中心になっている。彼らにとって、エイドリアン兄上が継承権を得ることは、家の中での影響力を維持する手段でもある」
オースティンの声が、さらに低くなった。
「お前が演武で力を見せた後、父上は辺境送りを撤回するか検討したらしい。だが——両派が珍しく意見を一致させた」
「俺を排除することで、か」
「そうだ。ティモシー兄上派にとっても、エイドリアン兄上派にとっても、お前が帝都に残るのは都合が悪い。突然現れた実力者は、継承争いの変数になる。どちらの派閥にも属さない駒は——」
「盤上から消す方が安全、というわけだ」
「……ああ」
オースティンは苦い顔をした。
「父上は長老会の総意に逆らえなかった。いや——逆らわなかった、と言うべきかもしれない。家の安定を優先する判断だ。親父なりの、な」
レオンは黙って聞いていた。怒りはなかった。あるのは、冷静な理解だけだ。
家とは、そういうものだ。血の繋がりよりも、利害の計算が優先される。それを七年間で嫌というほど学んだ。
「それを俺に教えて、どうする」
「どうもしない。ただ——知らずに辺境に行くのと、知った上で行くのは違う」
オースティンは視線を海に向けたまま、静かに言った。
「気をつけろ。北の辺境は危険だと聞くが——本当に気をつけるべきは、魔獣だけじゃない。辺境で何か不都合なことが起きても、長老会が助けを送るとは限らない」
「忠告、感謝する」
「……礼を言うな。俺は——まだお前に借りがある」
その言葉に、七年分の重みがあった。
レオンは首を振った。
「借りなんてない。もう済んだことだ」
オースティンは何か言いかけて、口を閉じた。しばらくして、小さく息を吐いた。
「……お前は、本当に変わったな」
それだけ言って、オースティンは家族の列に戻っていった。
レオンはその背中を見送った。
視線を海に向けた。
そこで——息を呑んだ。
軍港の中央に、巨大な影があった。
従来の帆船とは、根本的に異なる存在。風帆がない。代わりに二本の太い煙突が天を衝き、黒い鋼鉄の船体が朝日を冷たく反射している。前後に配された砲塔。舷側に並ぶ速射砲の砲口。甲板に立つ兵士たちすら、その巨体の前では人形のように小さかった。
装甲艦。
いや——鉄甲艦だ。
「嘘……でしょ……」
ローシーが声を失っていた。
周囲からも感嘆が漏れた。
「あれが噂の——」
「本当に鉄だけで出来ているのか?」
「帆もなしにどうやって動く?」
「蒸汽機関だよ。高燃素蒸汽機関!」
この世界の海は、人間に優しくない。
沿岸にはまだしも帆船が航行できるが、外洋には海魔が棲む。深海蛇ディープサーペント、嵐喰いシュトルムフレッサー、鋼殻蟹パンツァークラーベ——これらの海棲魔獣は木造の帆船など木の葉のように粉砕する。
だからこそ、四大国は海上覇権を争いながらも、外洋への本格的な進出に限界を抱えていた。
海を制するには、魔獣に対抗できる船が必要だった。
そして——海の彼方の島国アルビオン連合王国が、世界で初めてそれを実現した。
アルビオンは蒸汽技術の発祥地であり、半世紀前に蒸汽機関を実用化したことで大航海時代を切り開いた国だ。島国ゆえに海軍こそが国力の根幹であり、その技術と経験は大陸諸国の追随を許さない。
三年前、アルビオンは「ソヴリン号」を進水させた。全長九十八メートル。鉄甲装甲。蒸汽機関駆動。海魔との交戦に耐える初の軍艦として、世界の勢力図を一変させた存在だ。以来、アルビオン海軍は外洋航路を独占し、その経済力と軍事力は急速に膨張している。
オルハイム帝国は、出遅れた。
資源はある。技術者もいる。しかし帝国は大陸国家であり、海軍への投資は常に後回しだった。アルビオンが鉄甲艦で海を席巻する間、帝国は帆船の改良と沿岸防衛に甘んじていた。
それが——今日、変わる。
「皆さん!」
壇上に立ったのは、帝国海軍大臣ヴィクトル・ゼルナー。白髪を後ろに撫でつけた壮年の男は、鋭い目で群衆を見渡した。
「我がオルハイム帝国は本日、歴史的な一歩を踏み出す!」
彼は鉄甲艦を指し示した。
「全長百五メートル。全幅二十二メートル。主装甲帯四百六十ミリ。排水量一万一千トン。前後に三百ミリ主砲四門、速射砲八門、六管機銃十二基、魚雷発射管四基。蒸汽機関による最大速力十七ノット」
数字が読み上げられるたびに、群衆からどよめきが上がった。
「しかし、諸君。この艦の真価は火力ではない」
ゼルナー大臣の声が低くなった。
「この艦の装甲には、フェルスタール合金——帝国技術院が七年をかけて開発した耐魔合金が使用されている。深海蛇の牙も、嵐喰いの雷撃も、鋼殻蟹の鋏も——この装甲は耐える」
場が静まり返った。
耐魔合金。
それはつまり、この艦が海魔との直接戦闘を想定しているということだ。
「外洋に出られるのか……」
誰かが呟いた。
「アルビオンのソヴリン号は耐魔合金を使っていない。通常の鉄甲装甲だ。海魔を避けて航路を選んでいる。だがこの艦は——」
ゼルナーは声を上げた。
「避ける必要がない!」
群衆が沸いた。
高台のカッセルリック侯爵も微かに目を細めた。武勲貴族として、軍事技術の革新は他人事ではない。
「陛下より命名を賜っている」
ゼルナーが居住まいを正した。
「帝国鉄甲艦第一号——『アイゼンヴィレ号』!」
艦上の士官と水兵が一斉に声を合わせた。
「アイゼンヴィレ!」
「アイゼンヴィレ!」
「アイゼンヴィレ!」
礼砲が鳴った。轟音が港を揺らし、海鳥が一斉に飛び立つ。
試験航行の命令が下された。
汽笛が鳴った。煙突から黒煙が噴き上がり、鋼鉄の巨体がゆっくりと港を離れる。海面に巨大な引き波を刻みながら、かつて木造船しか浮かばなかった軍港を、鉄の巨獣が滑り出していく。
港外に出た鉄甲艦が主砲を放った。
轟音。
衝撃波が海面を叩き、円形の白波が広がった。前方の無人岩礁が砕け散り、砂塵と水煙が高々と舞い上がる。
群衆が息を呑んだ。
二射目。三射目。
岩礁は消滅した。元々そこに何もなかったかのように。
ゼルナー大臣が静かに群衆に向き直った。
「諸君。アルビオンが海を支配した時代は、終わる。外洋の海魔が人間の航路を阻んだ時代も、終わる」
彼は言葉を区切った。
「鉄甲艦の時代が来たのだ——そして今度は、帝国が先頭に立つ」
◆◇◆
観艦式が終わった。
貴族や将校たちが三々五々散っていく中、レオンは遠くの家族を眺めた。
カッセルリックはティモシーと並んで馬車に向かっていた。エイドリアンがその後に続く。一度もこちらを見なかった。最初から最後まで、レオンという存在は彼の世界に存在しなかった。
オースティンだけが、馬車に乗り込む前に振り返った。軽く手を挙げる。それだけの仕草だったが、レオンには十分だった。
レオンも小さく頷き返した。
「レオン様」
ローシーが隣に立った。
「……行くか」
「え? どちらへ?」
「坊市だ。武器の素材を買いに行く」
『あの艦の装甲——フェルスタール合金と言ったか』
頭の中で、師匠オーグリの声が響いた。
『興味深い。耐魔合金の配合を変えれば、武器にも応用できる。小僧、素材を手に入れろ。辺境の魔獣相手に木の棒で戦うつもりか?』
レオンは小声で答えた。
「分かっている」
ローシーが不思議そうに首を傾げたが、何も聞かなかった。彼女はレオンが時折独り言を呟くことに慣れていた。その相手が誰なのかは知らないが。
二人は港を背にして歩き出した。
鉄甲艦の汽笛が、遠くでもう一度鳴った。
◇
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本作が週間ランキング18位にランクインし、PVも60万を突破いたしました。
連載開始当初は、こんなにも多くの方に読んでいただけるとは思っておりませんでした。ここまで来られたのは、毎話読んでくださる皆様のおかげです。
評価、ブックマークが、本当に執筆の励みになっています。
皆様からいただいた星の数だけ、レオンの物語を先へ進める力をもらっています。
これからも、面白いと思っていただける話を書き続けてまいりますので、引き続き応援よろしくお願いいたします。




