第1話 予感
視界の隅っこの時計を、何度チェックしただろう。でも、それももうおしまいだ。
5……4……3……
心の中で、残り時間を数える。
先生が教室の前で話してはいるけれど、それに意識を傾けている生徒はほぼいない。
2……1……0!
終業のチャイムが鳴るやいなや、歓声が教室を満たした。
それもそのはず。今日は、夏休み前最後の授業日。その最後の授業が、たった今終わったのだ。そりゃ嬉しいよ。
宿題はあるけどね。
机の上に広げていたノートを閉じ、シャーペンと消しゴムを筆箱へとしまっていると、後ろの席の賢斗が話しかけてくる。
「ほんと、いつまで手書きノート使ってるのさ、薫は。重くないのか?」
小学校の頃はクラスに5人くらいはいたはずの手書きノート派も、今となっては俺ひとり。
確かに、机に埋まっている端末を使ってメモを取れば、ネットワーク経由でどこからでも見られるし便利なのはわかるんだけど、どうしても俺は手書きにこだわってしまうのだ。
書いてる! 勉強してる!って実感があるからかもしれない。これ話しても、クラスメイトは誰ひとり共感してくれないんだよね。俺は悲しいです。
「別にいいだろ、人の勝手だ」
「あっそ。絶対、端末使ったほうが便利だと思うんだけどな」
カバンにノートをしまい終わって、席から立ち上がる。まあ、なんだ、待っててくれるあたりがこいつの憎めないところだ。
「ところで、この後は? どうせ暇だろ?」
「あいにく、部活だ」
本当は、夏休み初日くらい休んで遊びに行こうかとも考えていたんだけどね。ふたりしかいない部員の片割れに呼び出されちゃ、断れない。
「暇じゃない……だと? 俺も入っておけばよかったかな、書道部。でもなあ、今のご時世、文字手書きとか、正直ないわ」
「うるせえ、手書きが好きな人だっているんだよ」
ごくごく少数派だけどな。
「はいはい、わかったわかった。じゃあ仕方ない、俺は帰って掲示板でも見るよ」
「掲示板? ゲームじゃないの?」
先月くらいから、賢斗は新しいゲームのβテストに参加していた。倍率100倍だか1000倍だかの抽選に、見事当選したのだ。全く、引きが強いことで。
「ああ、EOならβは終わって、正式サービスの開始が明日から。見逃した情報がないかどうかチェックしないといけないからな」
あー、アレのサービス開始、明日からなんだ。環境を揃えられそうになくて、断念しちゃったんだよな。ゲーム機本体の価格が、学生には厳しいお値段ですし。
「そっか。まあ、楽しんでくれ」
「言われなくても、しゃぶり尽くす気でいるぜ」
「ほー。じゃあしゃぶり尽くして骨だけになったら、どこか遊びに行こうぜ、プールとか」
「しゃぶり尽くせるかはわからないけど、たまには家の外に出た方がいいだろうな。また連絡するよ」
「じゃあ」
「おう」
そう言って、カバンを担いで教室を出た。渡り廊下を通って、向かうのは特別教室棟。2階の隅にある部屋が、我らが書道部の活動場所だ。
「こんにちは、水江さん」
ドアを開けると、片割れはもう既に来ていたようで、挨拶の言葉が飛んできた。
校則通りの膝小僧が隠れる長さのスカートに、背中の真ん中まで伸ばした、ストレートの黒髪。畳の上でしゃんと背筋を伸ばして正座する姿は、いっそ神々しさすら覚えるほど美しい。
彼女は、細川香織。俺と同じ書道部に所属する唯一の女子だ。もちろん、唯一の男子は俺である。
21世紀前半に端を発する、VR/AR技術の進展および電子部品の高性能・低コスト化により、文字を手書きする習慣は急速に衰えていった……らしい。らしい、というのは、これは俺が生まれる前のできごとだからである。
普通のノートみたいな紙に、シャーペンとか、ボールペンで手書きする人さえ少ないのだ。半紙を文鎮で固定し、筆に墨を浸してまともに文字が書ける人は、おそらく一万人に一人もいないんじゃないだろうか。ひとつの高校の書道部に複数人の部員がいる自体、奇跡みたいなものだ。
「今日はどうしたんだ? 前日にいきなりメッセージなんて、細川らしくないじゃんか」
靴を脱ぎ、畳の上に上がりながら、問いかける。
「昨晩は大変失礼しました。でも、どうしても水江さんに来ていただきたかったので」
今日、そんなに特別なことがあったか?
細川の誕生日は違うし、俺の誕生日でもないし、ほとんど部活に関わってこない顧問の誕生日も違うし。心当たりが、ない。
「今日、何かあったっけ?」
わからないなら、いっそのこと聞いてしまう方が早い。
「特には。一学期最後の部活、というくらいですね」
そうやって、はぐらかすような笑みを浮かべる細川。なんか隠していそうだ。
「さあ、書きましょう」
この話はおしまい、とばかりに、彼女は書道用品がしまってある棚の方へ歩いていく。
書道部に入部してから、一年と少し。特別教室棟の隅の日当たりが悪く薄暗い教室に、かわいい女子とふたりっきりで過ごす時間の時間の使い方も、だいぶわかってきた。というか、慣れてきた。
友人関係に、男女の関係、恋愛感情を持ち込もうとするから、テンパッてしまうのだ。まあ、その、なんだ。女子であることを、意識しすぎなければいい。
の、はずなんだけど。結局、細川の笑顔を見ると、追求する気がなくなってしまう。なんなんだろうね、これ。
下敷きを広げ、墨汁を硯に入れ、ふたりで並んで、練習を始める。俺は最近、楷書は一段落して、行書の練習を始めている。崩さないといけない分、きれいに書こうとすると、結構難しいのだ。
最初は向かい合わせでやったりもしていたんだけど、結局並んで書くのに落ち着いた。お互いに、自分の書いたものを見せやすいという利点がある。決して、向かい合わせで座るのがお見合いみたいで照れてしまったわけではない。
邪魔にならない時を見計らって、細川に話しかけた。
「ところで細川、今年の夏休みはどれくらい活動するんだ?」
我が書道部の部長は細川である。したがって、活動日の決定権も細川にある。まあ、書道なんて道具と静かな環境があればどこでもできるから、わざわざ部活する必要性は薄いけど。
「あ、えっと……まだ、決めていません。別の用事が結構忙しくなりそうですし」
「そうか。決まったら教えてくれ」
お嬢様だと、親戚付きあいとかも色々あるんだろうか。
さて、もう一頑張り。夏休み前に、この文字くらいは仕上げてしまいたい。
何枚も書いて、そのたびに納得が行かず、紙を畳んで。それを繰り返しているうちに、だいぶ時間が経っていたようだ。
「水江さん、水江さん」
ふと気付くと、細川が真正面に座って、俺の顔を覗き込んでいた。下敷きと半紙を挟んで、俺と向かい合わせだ。思わず、どきりとしてしまう。
「そろそろ、下校時刻ですよ。片付けましょう」
「ああ」
生返事をして、立ち上がった。
硯と筆を水道に持って行き、洗う。廊下は暑いが、生ぬるい水が心地よい。そんなことを思っていると、細川が部室から出て、こちらへやってくるのが鏡越しに見えた。
どうした、と言う間もなく。手が墨と水で汚れているから動けるはずもなく。彼女は俺の背後に立つと、あろうことか、俺の右耳にこんなことを囁いた。
「今夜は、楽しみにしていてくださいね?」
脳が、聞こえてきた言葉の意味を処理しきれなくなったようで、何も考えられなくなる。彼女に言葉を吹きこまれた右耳が妙に熱を持っていることに気付き、その熱が顔全体に広がっていくのを感じる。これ、ぜったい、顔真っ赤になってるわ。やばい。どうしよう。
「え、えーっと……」
ええい。顔の赤さを隠すのは諦め、ゆっくりと彼女の方を振り向く。
ちょうど西日の差し込んできた廊下全体がオレンジ色に染まっており、その中で、彼女は後ろに手を組んで、立っていた。
化粧っ気がないにもかかわらず、完璧なきめの細かさを誇る彼女の頬から、首筋、ブラウス越しに覗く鎖骨のあたりまで全部が、ほんのり赤くなっている。
「今は、これだけしか言いません。後でのお楽しみ、です」
照れたような彼女の仕草と口調に、ひとことだって返事ができなかったのは、仕方のないことだと思うんだ。
何も言えないまま、廊下を部室へと戻っていく彼女の後ろ姿を見つめる。
いつもながらきれいな姿勢――ではない。右手と右足が一緒に出て、奇妙な歩き方になっている。なんだあれ。
乾いた雑巾で、洗い終わった硯と筆をくるみ、部室に戻ろうとした時、案の定、大きな音がしたので振り向く。
何もつまずくような物は置いていない廊下で、細川が見事にすっ転んでいた。
慌てて駆け寄って、ひとこと。
「えっと、大丈夫か?」
「はい……」
のろのろと、細川が起き上がる。幸い、怪我はなさそうだ。
何か話そうとはするものの、なんとなく恥ずかしさが邪魔をして、結局校門に着くまで、何もしゃべることができなかった。
校門のすぐ外に、黒塗りの高級車が待っている。いくら御令嬢だからって過剰じゃないかとも思うけれど、細川には車のお迎えがあるのだ。
まだ顔が熱くて彼女の方を直視できないのだが、一応挨拶だけはする。
「じゃあ、またな、細川」
「はい、また」
また一つ、違和感を覚えつつ、細川に手を振り、俺も家路につく。俺はもちろん一般市民なので、とぼとぼと歩いて帰るしかない。
道すがら、考える。
何かがおかしい。
何がおかしい?
普段と違うから、おかしく感じるんだ。普段の細川を思い出してみる。姿勢が良くて、きれいな顔をしていて、礼儀正しくて……
礼儀正しく?
そうだ。細川はかれこれ一年半、俺と別れるときはいつも「さようなら、水江さん」と、お辞儀までして挨拶していたのだ。雑にしか挨拶しない俺に比べれば実に丁寧なことだけど、たぶんあいつにとっては当然のことなんだろう。
それが、さっきは「また」とだけ。
まるで、今日また後で顔を合わせることが決まっているような素振りだった。
それに、水道の前での、あの囁き。「今夜」と彼女は言っていた。
総合して考えると――家に帰ったタイミング、もしくは帰って一息ついたタイミングで、何かがやってきそうな感じがする。
高校二年生の夏休み。初日から、あのお嬢様に振り回されることになりそうだ。
はじまりました。
私にとって、はじめての長編連載小説です。
読者の皆さんに楽しんでいただけるよう、がんばります。よろしくお願いします。