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第十二話 知性体 中編



灰のような風が瓦礫の隙間を擦り抜けていた。崩れた石壁の影に身を沈めながら、クロアは機体の姿勢を低く整える。


――妙だ。


気配が散らばらない。本来、斥候同士の接触は点で終わる。だが今、周囲にあるのは面の圧力だった。


視線を動かした、その瞬間。影が弾けた。


低い姿勢から滑り込むように現れた何者かが、音もなく間合いを詰める。速い。反射的に刃を構えるクロアの前で、黒髪のツインテールが揺れ、猫耳がぴくりと動いた。


「おみゃー、神様の声が聞こえてるにゃ?」


軽い声音。だが距離はすでに致命域だった。


次の瞬間、火花が散る。鋼と鋼が打ち合う音ではない。削り取るような、異質な衝突。


「にゃに!?」


ネフティスの金色の瞳がわずかに見開かれる。クロアの刃は確かに爪撃を受け止めていた。彼女の鉄爪は、斬り裂くはずの軌道で弾かれていた。


「うみゃ〜、刃が通らないのにゃ〜」


言葉とは裏腹に、その足はすでに次の位置へ移っている。残像めいた軌跡を残し、側面へ回り込む。この猫耳女、速すぎる。


クロアは一歩退いた。踏み込みではない。引きの選択。その判断に、ネフティスの口元が楽しげに歪む。


「これにゃらどうにゃ!」


振るわれたのは、先ほどよりも深い一撃。だがその瞬間、空気が変わった。


「……我が真力に並ぶものにゃし、【フェリカトゥス・プリベイル】」


短い詠唱。だがそれは宣言だった。

ネフティスの全身を走る魔力が瞬時に収束する。筋繊維が震え、視線が鋭利さを増し、呼吸が消える。五感が拡張され、反射が思考を追い越し、思考が反射に追いつく。

そして――境界が消える。


(……加速)

(……いや、違う)

(……思考と動作が統合されている)


クロアの演算がわずかに遅延する。理解が追いつかない現象だった。


次の瞬間、ネフティスは消えた。巧妙な位置取りと純粋な速さで視線を欺かれているのだ。


斬撃は視界の外から、すでに振り下ろされている。受ければ崩れる。よってクロアは受けない。

半歩、ずらす。それでも衝撃は機体を揺らし、瓦礫が砕け、石粉が舞った。


「にゃはは!これでもダメにゃ!?」


声は近い。だが姿はもうそこにない。次の瞬間には別の位置。さらに次の瞬間にはまた別。連続ではなく断続でもない。最適な位置に、常に存在し続けている。


(……戦闘様式の逸脱)

(……予測不能域)


クロアは踏み込まない。下手に踏み込めば終わる。その確信だけが明確だった。


その時、背後に鋭い気配が走る。矢が地面に突き刺さった。


それはただの矢ではない、重い轟撃。

衝撃が地面を抉り、破片が弾ける。そこに立っていればただでは済まなかったであろう。


クロアは視線だけを動かした。遠方、高所に何者かの影。はっきりとは見えない。


(……一射目で弾道修正済み)


すでに照準は更新されている。二射目は外さない。


「……敵性体脅威度水準、更新」


小さく呟く。単独ではなく連携している敵。そして、攻撃の精度と威力。


(……これは斥候ではない)

(……前衛接触部隊)


クロアの内面で定義が更新される。


「おみゃー、強いにゃ」


ネフティスが、今度は少しだけ真面目な声で言った。その姿は再び見える位置に戻っている。

戦意は消えていない。だが踏み込んでこない。


「これ以上やると、面倒にゃ」


軽く肩を回す。その言葉の裏には、冷静な判断があった。

クロアもまた動かない。追えば狙撃に晒される。側面を突かれ、悪くすれば包囲される。


(……予測損失過大)


結論はすでに出ていた。


「肯定」


短い返答。それで十分だった。

一瞬の静寂に、涼風が抜ける。


「また会うにゃ」


その言葉と同時に、気配が散った。今度こそ本当に消えた。

しばしの沈黙。やがて、緊張の糸が少しほどける。クロアの背後の兵士の一人がようやく息を吐いた。


「……今のは」


「敵」


即答。だが、それだけでは今の敵性体を形容するには全く足りない。

クロアの単眼がわずかに収束する。


(……連携)

(……個体性能)

(……未知の戦術)


すべてが従来の枠を逸脱している。


(……これは)


一瞬、思考が止まった。


(……新しい戦争)


あれはただの魔物ではない。ただの兵でもない。

意志と技術と進化を持った――“戦士”だ。



斥候部隊救援から数刻、本隊との合流が近づいたその時、音が変わった。

風ではない。鉄と鉄が打ち合う音と、焼けた金属の臭い――衝突だ。


クロアの視界に広がったのは、すでに始まっている戦場だった。

土煙が空を覆い、叫びが交錯し、その中心を質量が貫いている。


オーク。ガリア氏族。その先頭に立つ一体、赤い巨躯、ゲブ。異様なまでに整った大剣の軌跡が空間を裂く。

一振りで三人、二振りで防衛線が崩れる。無理やりではない。押し潰すのでもない。そこには明確な剣術の理が通っていた。


(……あれが中核)


演算が対象を固定する。名を知らずとも理解できる。あれが前線を成立させているのだと。


その背後、高所に静止し周囲と同化する影。そこから放たれる矢が空気を裂き、次の瞬間には標的を貫通する。

盾も鎧も人体も関係ない。オーク、ザガル氏族の射手、バビ。

一射ごとに戦場の要が消えていく。指揮官、旗手、魔術師――狙いが正確すぎる。


(……排除順序、最適化済み)


さらに地面が弾けた。設置されていた兵器が起動したかのような爆発。杭が突き上がり、火炎が噴き上がり、簡易砲座が角度を変えて連続射撃を行う。

マテバ氏族の即席戦場兵器群。戦場そのものが変質している。

進むほどに不利になる。踏み込むほどに削られる。


(……地形そのものが、敵になる)


その隙間を影が走る。低く、速く、迷いがない。ホブゴブリン。

足元へ刃を投げ込み、補給箱に火を放ち、負傷兵を確実に仕留める。

戦線ではなく、戦場そのものを侵食している。


それでもなお、人類側は踏みとどまっていた。


「押し返せ!押し返せば勝てる!」


声が上がる。皆、前だけを見ている。戦線は固定され、押し合いの果ての均衡。

大局は保たれているように見える。


(……違う)


クロアの演算が即座に否定する。


(……これは罠だ)


次の瞬間、側面が崩れた。

風ではない。意思を持つ群れ。フェリカトゥス――猫の特性を持つ女戦士たちが地を滑るように疾走し、オークの影を縫って視界の外から侵入する。

気づいた時には遅い。鋼の鉄爪が振るわれる。鎧の隙間を裂き、腱を断ち、喉を抉る。悲鳴が遅れて上がる。


「なっ……側面だ!?」


叫びが上がるが、戦線は前方にしか向いていなかった。その代償に側面と背後を喰われている。

そしてその先頭に、あの黒髪ツインテールの毛並み。


「にゃはは、獲物がいっぱいにゃ〜」


フェリカトゥス族のネフティス。その鉄爪が一振りで兵を両断する。

止まらない。止まる必要がない。彼女の周囲だけ戦場の密度が変わり、恐怖が伝播していく。


「散れ!散るんだ!」


命令は介在しない。動きそのものが最適解となるからだ。

フェリカトゥスが散開し、包囲、分断、孤立を一手に完成させる。


(……連携)

(……完全な連携)


クロアの思考がわずかに停止する。


(……一つの軍だ)


個でも種族でもない。研ぎ澄まされた役割の集合体。そのすべてが精密に噛み合っている。

次の瞬間、さらに一人が倒れる。見えない射手によるものだ。


(……まだいる)


逃げ場はない。だがクロアは立ち尽くさず、既に動いていた。


「全隊、再編。側面警戒を最優先――」


しかしその声は、全く届かない。

悲鳴と爆音と祈りに飲み込まれる。誰も聞いていない。


(……遅い)


結論。


(……すでに、遅い)


戦場は崩れている。

響いているのは、金属でも骨でもない。もっと根本的な音――戦いそのものが壊れていく音。


クロアの碧い単眼が戦場全体を捉える。


(……これが)


一瞬、先の邂逅がよぎる。


(……あれの正体)


ネフティス。バビ。ゲブ。この連携は、予測される帰結の前触れに過ぎないだろう。


(……新しい戦争だ)


その認識が、今ようやく現実として突きつけられていた。



しかし崩壊は一直線には進まなかった。


「――下がるな、列を詰めろ!」


鋭い声が戦場を切り裂き、乱れた隊列の中を三つの影が駆け抜ける。ベルティス、ルフト、ローガ。それぞれが異なる戦い方で、だが同じ現実を見ていた。


「前に出すぎるな、削られるぞ!」

「風を読む、次の射線は右高所だ!」

「盾持ち、オレの後ろに続け!」


即応、修正、再構築。崩れかけた戦線に、形が戻る。


さらに統制された動きで進み出る一団がある――B級冒険者パーティ“真理の瞳”。

無駄がない。視線が交わるだけで次の行動が共有される。


「左翼が薄い、抑える!」

「了解、同時に展開!」


短い言葉で足りる。

経験で戦う者たちが、戦場に理性を引き戻していく。


その時、空気が静かに変わった。

両手剣が振るわれる。速い一撃ではない。剣筋の最適を極めた達人の一撃だ。

その一振りでオークの巨躯が崩れ、次の一歩で間合いが支配される。

ラテア。剣聖であり預言者であり、そのどちらにも収まらない存在。

彼女の周囲だけ戦場のノイズが消え、迷いが消える。


「前へ!」


ただそれだけで多くの兵が続き、整い、踏みとどまる。


(……収束)


クロアの演算が更新される。崩壊しかけた戦線が再び機能し始める。


(……持ち直す)


確率がわずかに上昇する。だが、その時だった。

低く湿った笑いが落ちる。


「――美しい」


オース。その手には分厚い書――スペルバイブル。ページが音もなくめくられる。


「祝福とは与えられるものではない。……捧げた者にのみ満ちるものだ」


甘く深い声とともに光が走り、拝兵たちの身体に刻印のように刻まれる。

次の瞬間、彼らは走っていた。躊躇も恐怖もなく、痛覚すら意味を持たない。


「おおおおおおおおおッ!!」


突撃。完全なる捨て身。いや、人命の消費と言っても過言ではない無謀。

盾を構えず、防御せず、届くことだけを目的に進む。

刃がその身に刺さり血が噴き出しても止まらない。

大剣に叩き潰されながらも腕を伸ばし、爪を届かせる。


(……戦術の放棄。だが……有効)


理に反しているが、前線は押し返せる。クロアの演算が矛盾を抱えたまま更新される。


その時、大気が震えた。

低く重い振動、腹の底に響く咆哮。


ガリア氏族、その中心――ゲブ。


「――――――ォオオオオオオオオオオオッ!!」


声ではない。魔力を帯びた波が戦場を走る。

オークたちの動きが一瞬止まり、そして一変する。

筋肉が膨張し、呼吸が荒れ、瞳が赤く染まる。


狂戦士化。理性が消えたのではない。抑制が外れたのだ。


「――行くぞ、戦士たちよ!」


その一言で十分だった。オークたちが吼え、次の突撃は別物となる。

重く、速く、止まらない。


それが拝兵の大部隊とぶつかる。狂信と狂気、捨て身と暴力。均衡が軋む。


(……再均衡。拮抗状態へ移行)


だが安定してはいない。歪んだ均衡に過ぎなかった。

ラテアの剣、オースの祝福、ゲブの咆哮――それぞれが戦場の理を捻じ曲げている。


(……通常戦闘ではない。これは――信仰と本能の衝突)


その中央で、クロアは立っている。

彼もまた、選ばなければならない。どちらの理に立つのかを。

迷いは数瞬、それで十分だった。


(……中核排除。最短経路算出。成功確率――)


計算は途中で切る。


(……実行)


「マスターラテア、乗って」


短い言葉に、ためらいは返らない。


「ああ、行こう」


ラテアがクロアの背に乗る。軽やかに。しかしその存在は重い意味をもつ。


(……最適化、完了)


脚部にストラクチャーゲルが走る。流動し絡み固着し、四脚が変形する。

関節が沈み、軸が統合され、接地面が広がる――履帯形態。

次の瞬間、地面が砕けた。


止まることを知らず徐々に加速する重量級の戦車突撃。

敵勢の壁が割れ、盾が跳ね飛び、オークの巨体すら質量の前に弾かれる。


「――道を開けろ!」


叫びではない。それはもはや現象だった。

クロアは決して止まらない。マテバの障害物を踏み潰し、ホブゴブリンの攪乱を突っ切る。

ザガルの射線が来る。弩矢の雨に晒され連続する衝撃。

ラテアはクロアの背部に身を潜め、回避する。


(……回避、並立演算再開)


背に乗るラテアのわずかな重心移動。

それが重要なヒントとなって弩矢の軌道を読める。


「クロア、右に回避しろ」


静かで確信に満ちた声。クロアは思考せず従い、再加速する。


クロアの碧い単眼、その視界の中心には赤き巨躯――ゲブ。

あちらも既にこちらを見ている。動かず、逃げない。ただ大剣を正中に構えている。


(……迎撃態勢)


クロアは減速しない。そのまま突っ込み、間合いをゼロへ集約する。

衝突――ではない。見事に受けられた。

ゲブの大剣が履帯を叩き止め、衝撃が機体を震わせる。地面が沈む。


(……停止)


大質量が止められた。赤きオークは一歩も退かない。


「……いい突進だ」


低い声に確かな評価が混じる。


「だが、あまりに雑だ」


振り上げる斬撃。速く、重く、無駄がない。

クロアは履帯を解き四脚形態へ戻り、跳ねるように距離を取る。

斬撃が空を裂き、直後に地面が割れる。


(……脅威度、大)


瞬時に理解する。当たれば終わる一撃だと。

ラテアが静かに囁いた。


「正面から行く必要はない」


的確な助言。だが――


(……否定)


クロアの内部で何かが定まる。


(……中核はここにある)


ゲブ。この個体が戦線を支えているのならば――ここで断つ。


四脚が再び踏み込む。それは加速ではなく“圧縮”だった。間合いを瞬時に詰める。

ゲブが刃を振るう。クロアが装甲で受け流す。火花が散り、衝突は深まり、圧力が高じる。

その末に陥る拮抗。

ゲブの瞳がわずかに細められる。


「……いい目だ。だが、まだ浅い」


鋭い踏み込みからの逆撃。

クロアはそれを受けずに、逸らして滑らせる。

それでもなお衝撃は深かった。


(……重い。だが対応可能)


ラテアの声が重なる。


「クロア、剣を抜け!」


その言葉を理解する前に、機兵は反射的にストラクチャーゲルを走らせていた。

黒銀の流体が凄まじい速度で漆黒の大剣を編み、瞬時にその強靭さを極める。

四脚の剣士が、武骨な直方体の大剣を正中に構える。

ラテアの剣技を間近で学習してきた黒き機兵の構えは、歴戦の圧を感じさせて止まない。


初めて、ゲブの動きがわずかに遅れる。

一瞬の沈黙に、不敵な笑みが混ざる。


「……いいぞ、来い」


戦士としての誘い。

戦場の中心で、クロアとゲブの大剣同士が対峙する。


その周囲で戦いは続いている。

だが、既に。この対局が戦場の核だった。



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