7.承諾しておいた
その夜、夕食と入浴を済ませてからノートPCを開いた刃兵衛は、通話アプリを起動し、異母兄の厳輔との通話に臨んだ。
厳輔は内閣官房御用達のハッカー集団『マインドシェイド』のリーダーである。
これまで厳輔と彼のチームは、海外からの国家レベルでのネットワーク攻撃を片っ端から弾き返してきた。
その防衛対象は政府関連機関に留まらず、国内の財閥系大企業や大手銀行など多岐に亘り、もしも突破されていれば政治的にも経済的にも大打撃を被っていたかも知れない。
そして攻撃者は大体、限られてくる。その筆頭が北朝鮮だが、その次がイラン或いはロシア、ベラルーシといった辺りで、中には直接物理的な攻撃部隊を投入してくる国もあった。
事実、昨年厳輔は北朝鮮が派遣してきた情報戦術革命隊に自宅を襲撃された。
その当時、同居していた刃兵衛も攻撃対象に含まれていると目され、公安庁と自衛隊双方の護衛によって一時的に身を隠さなければならない事態に陥ったこともあった。
刃兵衛が昨年、付き合っていた元カノと別れる原因となったのも、こういった敵対国からの攻撃の恐怖に耐え切れなくなったという部分が大きい。
それは当然の結末であり、一般人には余りに過酷な話であろう。
そして東京都内での生活は危険に過ぎるということで、わざわざ神奈川の非都心部にある高校へと転校してきた。
今だ不安材料はかなり多く抱えているが、それでも都内に居た頃に比べると、襲撃回避率は相当に跳ね上がったということらしい。
「元気そうやな、刃」
「兄やんはちょっと顔色悪い?」
ビデオ回線で双方の顔を見ながらの通話だが、画面越しの厳輔の端正で精悍な面には、幾らか憔悴の色が見られた。
日々の対外ネットワーク防衛に相当、神経をすり減らしている証拠であろう。
しかし厳輔は、この程度は昔に比べたら大したことは無いと薄い苦笑を浮かべた。
「んで、候補生の件はどうすんねん。小堺さんにはもう連絡入れたんか?」
厳輔は過日、内閣官房付特殊人事調整担当の小堺直樹が示した内閣官房直属護衛士候補生のことをいっている。
我天月心流の拳士の一部は将来、内閣官房直属の秘密実働部隊への採用が約束されている。
その準備期間として学生の内から実戦経験を積むことが極秘裏に奨励されており、その権限と身分を保証する為の資格が、内閣官房直属護衛士候補生なのだという。
この候補生就任の打診を、刃兵衛は一カ月程前に小堺担当官から直々に申し入れられていた。
刃兵衛は我天月心流開祖以来の天才といわれており、その実力は現正統継承者である厳輔でさえも認めている程の技量に達していた。
「うん、一応承認サイン入りの文書は出しておいたけど……でも、ここら辺で実戦経験なんて積めるやろか」
刃兵衛は小首を捻った。わざわざ敵の少ないところへ避難してきたというのに、どうやって実戦経験を重ねてゆけというのだろう。
「恋乃丞君とか拾蔵君のとこみたいに、ヤバいヤリサーとか過激な半グレとか、そういうのがうようよ居るところやったら実戦経験なんてなんぼでも積めるんやろうけど……」
しかし今、刃兵衛が住んでいる私立K高校周辺は極めて穏やかで、そういう大規模な荒事の類の話は余り聞いたことが無い。
「まぁお前の腕なら、実戦配備されてからの研修でも十分、御釣りがくるやろうけどな」
厳輔は画面の向こうで苦笑を滲ませた。
対する刃兵衛は、どうやろねと小さく肩を竦めた。
「まぁどっちにしても、資格だけは受け取け。何ぞ役に立つかも知れんしな」
「うん、そうする」
この後、ふたりは今後の予定や最近の出来事などについて言葉を幾つか交わしてから、回線を切った。
ノートPCの蓋を閉じ、ソファーの上に仰臥した刃兵衛は、淡いシーリングライトの光を茫漠と眺めた。
(僕にはまだ、政府の仕事は早いんとちゃうかなぁ……)
そんなことを考えているうちに、睡魔が襲って来た。
これは刃兵衛の個人的な観測に過ぎないが、今住んでいるこの街では、内閣官房直属護衛士候補生の権限を行使せねばならぬ様な事態は絶対に起きない様な気がする。
それ程に、平和な街だった。
◆ ◇ ◆
そして翌日から通常の授業が開始となった。
どの科目も初回は担当教諭の自己紹介と、今後一年間の予定の話などに終始し、本格的な授業は次回からというのが大半であった。
更にこの日は最後の六時限目でホームルームが組まれており、席替えが実施された。
刃兵衛の新たな席はほぼ中央の最後尾から二番目で、彼の後ろには瑠斗が移動してきた。
加えて、前の席には梨衣南が座ることになった。
「おー、やったじゃん。オタ活三連星ってカンジ?」
「ホンマっすねぇ。こんなこと、あるんや」
ギャル系美少女のすぐ後ろというのは、かつての元カノとの生活を何となく思い起こさせるが、あれはもう過去の話だ。
これからはこの教室で一年間を過ごす。早々に頭を切り替えるべきだろう。
「阿須山君も、オタ活頑張ろねぇ」
「うん……宜しく!」
笑顔で応じた瑠斗に笑みを返した刃兵衛。その彼の面が、今度は違う感情に彩られた。
(ほっほぅ……阿須山君のお隣、まさかのまさかやなぁ)
瑠斗の席から見て右隣には、咲楽の姿があった。
彼女が移動してきたことを受けて、瑠斗は途端に全身がかちこちに硬くなった。
(んまぁ、分かり易いおひとやねぇ)
刃兵衛は内心で苦笑した。
これから夏休みまで、どの様な進展があるのか、或いは無いのか。
少し楽しみになってきた。




