護りたいもの(6)
その日の夕方、事務所を出たところで、イーシャが私に囁いた。
「さっきの言葉の意味、アストにちゃんと聞きなさいよ」
机の上に置きっぱなしにしていたはずのノートを手渡され、私は驚いてイーシャを見上げた。
「ええっ」
「じゃあ、また明日ね」
イーシャは軽やかに手を振ると、私とは別の方向へ歩き出してしまった。私はノートを抱えたままで、少し離れたところに立っているアストに駆け寄る。
「ごめんね、遅くなって」
思わずそう謝ると、アストは悪戯っぽく笑った。
「あ、また謝った」
「あ」
ノートを持っていない方の手で口を押さえると、アストは目を細めた。
「で、なんですか、そのノート。イーシャに貰ってたみたいだけど」
「あ、違うの。これはね、私のノート」
私とアストは並んで、保育園に向かって歩き出す。どうしよう。この文字について聞くなら今のうちかなとも思うけれど、アストに聞いていいんだろうか。今のアストも、この言葉の意味を知っているのかな。
──なんといっても指輪に刻まれた言葉だから、本当は、勝手に愛の言葉を期待してしまっていた。けれど、イーシャは古い魔術だと言っていたから、そんなことはなさそうだ。アストは魔法が大好きだし、何か好きな魔法の呪文でも刻んでみたのかもしれない。それなら、今のアストに聞いてみてもいいよね?
一瞬躊躇ったけれど、アストが選んで入れてくれた刻印の意味を、アストの口から聞きたいと思ってしまった。
私は意を決して、口を開いた。
「昨日ね、不思議な文字を見て。それをイーシャに見せたら、その文字は魔術文字で、古い魔術を表してるって言われたの」
「古い魔術?」
アストは怪訝そうに私を見た。
「アストなら解読できるだろうって。……見てくれる?」
逡巡しながらそう問い掛けると、アストは優しく笑ってくれた。
「勿論。どれですか?」
私はノートをぱらぱらとめくって、朝、私が書いた文字をイーシャが訂正してくれたものを見せる。
「これなんだけど……」
アストは私の手から受け取ったノートを、暫く呆然としたように眺めていた。
「……どこに、こんな文字が?」
やがて、何だか慎重にそう切り出した。
「え?」
何か、まずい文字なのだろうか?
「貰い物に、書いてあったんだけど……」
段々と不安になってくる私の心に気付く様子も無く、アストは翠の瞳で、じっとノートに書かれたその短い文字を見つめている。
そして、静かに言った。
「その”指輪”、ガザックに貰ったんですか?」
「えっ」
大げさなほどに肩が震えてしまい、しまった、と思った。もしかしてアストは、あの箱の中身を知っていたの? それで、ガザックがアストに何も言わずに、私にそれを渡したのだということに気付いてしまった──…?
アストは一瞬瞠目して、それからふと笑った。
「……そうなんだ」
何故だかそれがとても寂しそうな笑みに見えて、私は慌てて頭を振り、ノートを手に取った。
「ち、違うの。あのね、確かに渡してくれたのはガザックだけど、それはアリシアの父親が……私にくれるつもりだったものなんだって」
咄嗟に、そう弁明していた。アストが気にしているところはそこじゃないと思ったけれど、もし万が一、アストがイーシャと同じような勘違いをしていたらどうしよう、と思ってしまったのだ。ガザックが個人的に私に贈ってくれた指輪だなんて思っていたらと、考えてしまった。
だけど、もしアストがあの箱の中身を知っていたのなら、今の余計な一言で、アストがアリシアの父親だと知らせてしまうことになる。言ってしまった後でそのことに気が付いて、私は一瞬で背筋が凍りつくのを感じた。
けれど、アストは予想外だったとでも言うように瞳を二、三度しばたたいた。
「くれるつもり、だった?」
「うん、これをくれる前に、死んじゃったから……。ガザックが預かってくれていたみたいなの」
「え……」
アストは愕然としたように私を見た。その表情で、その指輪の贈り主がかつての自分だったということに、アストは気付いていなかったのだと知った。
「ごめんね、イーシャがアストならきっと読めるって言ってたから。変なこと聞いて、ごめんなさい」
なんだか空気が変になってしまった。どうしよう……。あの指輪に彫ってあった文字は、そんなにおかしな意味の言葉だったんだろうか。私は内心戸惑いながらも、ノートを素早くかばんの中に仕舞った。
「……。なんだか俺は、イーシャにはとことん嫌われているみたいだ」
アストは小さな息を吐くと、まるで自嘲するように笑った。
「え?」
イーシャに嫌われているって、どういう意味だろう。驚いてアストを見上げると、アストは私から目を逸らすように双眸を伏せた。
「それは……、ひとことで言うなら、プロポーズの言葉……かな」
私は一瞬、その言葉の意味が理解出来なかった。……プロポーズの言葉? 指輪に刻まれていたあの不思議な文字が? 吃驚してただアストを見上げていると、アストはちらりと私を一瞥し、すぐに目線を逸らした。
「リディはアリシアのお父さんと、結婚していなかったんだ?」
最初、アストはアリシアの父親のことを亡くなった旦那さん、なんて呼んでいたくらいだし、私はそれを否定しなかった。だからアストは、私は結婚していたものと思っていたみたいだ。私は、黙って頷いた。
「きっとアリシアのお父さんは、それを渡してあなたに結婚を申し込むつもりだったんだと思う」
アストは私を見下ろして、静かに言った。
「言葉の意味は……、知りたければ、イーシャに聞いて下さい」
イーシャに聞いてって、どうしてだろう。イーシャは知らないと言っていたのに……。不思議には思ったけれど、アストの言葉はそれ以上聞くなという意味だと思ったから、私はただ頷いた。
「うん……、分かった。ありがとう」
アストは黙ったままで、どこか苦味を孕んだ微笑を浮かべた。そのまま、自然な動作ですっと目を逸らされる。
──その瞬間、私は余計なことを聞かなければ良かったと後悔した。
アストは、私のことを好きだと言ってくれたのに……。知らなかったとはいえ、亡くなった恋人のプロポーズの言葉の意味を訊くだなんて、無神経にも程がある。
貰えるなんて思ってもいなかった指輪を貰えたことだけで、満足しておくべきだった。彫ってある文字がどういった意味を表すものであろうと、アストが私を想って入れてくれた文字だという、それだけ分かっていれば良かったのに。
こんなこと、今のアストに訊くべきじゃなかったんだ。そう気付いた途端、私は自分をなじりたい気持ちでいっぱいになった。だけど、後悔したって一度口にした言葉は取り消すことは出来ない。謝るのも何か違うような気がして、私はきゅっと口を噤んだ。
「あの……ね」
けれど、黙っているのもいたたまれない。何か楽しい話題をと思って、逡巡しながらも口を開く。
「ん?」
アストは不思議そうに私を見下ろした。
だけど、咄嗟に楽しい話題なんて思いつくはずも無くて、私は頭に浮かんだことをそのまま口にしていた。
「昨日事務所に現れた黒魔術師がね……、凄く分厚い辞書を一瞬で燃やしちゃったの。全部燃えて、細かい灰になったんだけど、あれも黒魔法なのかな?」
ああ、全然楽しい話題じゃない……。気になっていたことではあるけれど、別に今訊かなくても良かったのに。私が内心でうなだれていると、アストは苦笑しながら頭を振った。
「ううん。それは、炎魔法の一種だと思う」
「そうなの?」
そういえば、たとえ炎魔法一つでも、魔力を持たない人間を殺すことは出来るってガザックが言っていたっけ……。
「多分、紙だから一瞬で燃えたんだと思う。心配しなくても、人間を一瞬で灰にするような炎魔法なんて無いよ」
アストはそう言ってくれたけど、私を安心させようと思って言ってくれただけかもしれない。私は小さく笑って頷いて、すっと目線を下ろした。地面を見つめ、考えながら歩く。
本当に、人間を灰にする炎魔法が存在していないとしても、黒魔法ならばどうなのだろう。アストの六年間を切り落としたような即死系の黒魔法なら──、人を一瞬で灰にすることさえ、きっと造作も無いことなのだろう。
ぞ、と全身が粟立つ感覚を覚えた。
「……不安ですか?」
アストがふいに立ち止まった。その声にはっとして、私も立ち止まって振り返る。アストはまっすぐに私を見下ろした。
「大丈夫です」
「え?」
「あなたに向けられる魔法は、たとえどんな魔法だろうと跳ね除ける。……必ず、俺があなたを護るから。だから、心配しないで」
アストは、笑っていなかった。真剣な翠の瞳が、私をじっと見据えている。
「あり、がとう……」
アストの言葉は、とても嬉しかった。心の中に温かい灯を点されたように、確かなぬくもりを感じる。その言葉を疑う気持ちは少しも存在しなかった。アストは絶対に私のことを護ってくれると、そう思えた。だけどそんな気持ちとは裏腹に、アストが優しければ優しい程、私の中の不安は膨らんでいくようにも思えた。
一体何なのだろう、まるで背中を駆け上っていく寒気のような、この嫌な予感は──。
それから少しの間は、会話も無く歩いていたけれど、保育園についた後は、アリシアを挟んで和やかに帰り道を辿った。にこにこと幸せそうに笑うアリシアを、アストは優しい瞳で見下ろしていた。
「おにーさん、あしたもくる?」
「うん」
アストは微笑を浮かべたままで首肯した。
「えへへ。しあ、さいきん、みんないっしょでうれしいな」
アリシアはアストを見上げて、屈託の無い笑顔を浮かべる。
「しあ、おかあさんとおにーさんと、さんにんがすき」
アストは優しく目を細めると、ただ黙って、繋いでいる方の手とは反対の手でアリシアの頭を撫でた。アリシアも、嬉しそうに目を細めた。
「あ。あのね、おにーさん。おかあさん、うさぎさんつくってくれたんだよ」
アリシアはふいにそう言って、アストと私と繋いでいた両手を離すと、制服の下に掛けていたうさぎのポシェットを引っ張り出す。一昨日私が作った、アストに貰った翠色の魔石を入れるためのポシェットだ。
「かわいいでしょ?」
にこにこと問い掛けるアリシアに、アストは笑って頷いた。
「うん、可愛い。中身は何?」
「あのねぇ、おまもりがはいってるんだよ」
アリシアはポシェットの口を開けて、アストに見せる。
「なるほど。リディが作ったの?」
アストはポシェットの中身を覗いた後で、私に向かってそう問い掛けた。
「失くさないように、と思って」
私がそう返すと、ふっと笑ってくれた。
「そっか。可愛いかばん作ってもらえて良かったな」
「うん」
アストがアリシアの頭を撫でると、アリシアは手を伸ばしてその手を掴んだ。そうしてまた手を繋ぐ。反対の手は、私の手をぎゅっと掴んだ。
私たちはまた三人で手を繋いで、家までの帰路を辿った。
その日の夜、アリシアを寝かしつけた後で、私はまたリビングの椅子に腰掛けていた。昨日ガザックが渡してくれた、指輪の入った箱を戸棚の奥から取り出して、机の上に置く。
ダイヤルを合わせて、鍵を開いた。爪を外して箱を開け、中に入っていた木箱を慎重に取り出す。昨日もう見たから中身は分かっているはずなのに、どうしてこんなに開けるだけで緊張するんだろう。昨日のことは全部夢で、この箱を開けても何も入ってはいないんじゃないか──そんな不安さえ覚えながら、私は恐る恐る木箱を開けた。
木箱の中には勿論、柔らかな薄紫の布も、指輪も、昨日と同じように入っていた。
私は布を持ち上げて、布に包まれた指輪を取り出した。昨日あれだけ見たというのに、また目の高さまで持ち上げて、指輪をじっくりと眺めた。
内側に彫られた不思議な文字。──イーシャは、魔術文字だと言っていたけれど、アストはプロポーズの言葉だと言っていた。一体これは、どういう意味を表す言葉なんだろう。アストは知っているようだったけれど、教えてもらうことは出来なかった。アストは、イーシャも知っていると思っているようだったけれど、イーシャは本当に知っているんだろうか。もし知っているのなら──…どうしてそれを私に教えてくれずに、アストに訊くように言ったのだろう。
私は、自分には読むことの出来ない不思議な魔術文字をじっと見つめた。どれだけ見つめても解読す
ることは出来なかったけれど、アストがこの文字を選んで入れてくれたのだと思うと──この短い文字にプロポーズの意味が込められているのだと思うと──胸が甘く、切なく疼いた。
もしもアストが切り落としを受けていなければ、アストは、どんな風にこの指輪を渡してくれたんだろう。アストは私が妊娠していることは知らなかったはずだけれど、私と結婚しようと思ってくれていたんだ。私を、一生の伴侶に選んでくれるつもりだったんだ。
そう思った瞬間、私はふいに帰り際のアストの姿を思い出した。困ったような微笑を浮かべて、プロポーズの言葉だと言ったアストの姿が脳裏に浮かび、胸がつきんと痛む。私は咄嗟に心臓の辺りを、指輪を持っていない方の手で押さえた。心が、ちくりと針で刺されたように痛んだ。
貰えるだなんて思ってもいなかった指輪を貰えて、戸惑いながらも、私は浮かれていたのだと思う。今のアストには、あの指輪を用意していた記憶なんてないのだから、不用意に言葉の意味を聞いたりするべきじゃなかったのに……。
私にとっては同じ人でも、アスト自身にとってはそうではないのだ。アストの中には、お城で私と過ごした記憶なんて、何一つ存在していない。付き合う前、ガザックの部屋でよく三人で話をしたことも、私たちが二人で交わした些細な言葉のひとつひとつも──初めて交わした口付けのことすら、今のアストは何も覚えてはいないのだ。
──ううん。覚えていないんじゃない。私が大事に抱える想い出は一つとして、今のアストの中に存在していないのだ。
またそんなことを考えて、胸が張り裂けそうな程に切なくなったけれど──私は頭を振ってその気持ちを追い払った。今考えて落ち込んだところで、そんなものは無意味だ。こんなの、ただの自己憐憫でしかない。
やめよう。今はただ、アストが贈ってくれた指輪のことを考えよう。
──私は一瞬躊躇った後、指輪を持った手をテーブルの上に下ろした。
指輪を嵌めてみようとして、嵌める指に悩む。指輪を嵌める指には決まりがあって、例えば、右手の小指は、最愛の人に貰った指輪を嵌める場所だ。最愛の人が亡くなった場合には、左手の小指に付け替えるのが普通だ。ただのファッションリングなら、右手の人差し指と決まっている。
私は少し悩んだけれど、結局、右手の小指に嵌めることにした。心の中で別人だと割り切ろうとしても、私の愛したアストは亡くなったのだと考えようとしても、結局無理だったのだから。私の愛するアストは今も確かに生きているのに、左手の小指に嵌めることは流石に躊躇われた。だからと言って、ファッションリングとして扱うのも嫌だと思ったのだ。
私は指輪を、そっと右手の小指に嵌めてみた。小指に嵌めるには少し大きすぎるかなと思ったけれど、指輪はすっと指の付け根に収まった。まるで今あつらえたかのようにぴったりなサイズの指輪は、驚くほど私の小指にフィットしている。
普通は指輪というのは、贈ってくれた相手に嵌めてもらうものだ。自分で自分の小指に指輪を嵌めるなんてなんだか虚しいな、と一人でくすりと笑った。
人生で初めて貰った指輪。──そして恐らく、私の人生で貰う最後の指輪。
「……ふふっ」
私は小さく笑った。嬉しい気持ちで笑ったつもりだったのに、視界が滲んでぼやけてくる。私は瞬きを繰り返して何とか視界を鮮明にすると、右手を持ち上げて、指輪をじっと見つめた。透き通るような翠の石は、暗闇でほのかに光を放っているようにも見える。
アストの目は宝石のようだと私はいつも言っていたけれど、本当にそうだったんだな、と思った。ううん、寧ろ、宝石の方がアストの目に似てるのかもしれない、なんて、ちょっと馬鹿なことを考える。
この翠は、アストと同じ色。アストの色を持つ、綺麗な石。
「……大切にするね」
指輪に囁きかけるように呟いて、私はそっと目を伏せた。本当は一度嵌めてみたら、直ぐに外すつもりだったのだけれど、いざ嵌めてみると外したくないという気持ちが強くなってしまった。
アストが私のために用意してくれていたものだと思うからか、この指輪には不思議な安心感があった。嵌めているだけで、優しく包み込まれているような気持ちになる。これは、アリシアにとってのお守りのように、私にとってのお守りになってくれそうな気がする。
嵌めたままにしておくことは少し躊躇われたけれど、それでも、指輪を外すことの方に強い抵抗を感じてしまって、私は空っぽになった木箱に薄布を入れると、白い箱の中に入れた。もう指輪は入っていないというのに、昨日と同じように鍵を掛け、戸棚の奥に仕舞いこんだ。
指輪に傷がついてしまうかなってまた少し悩んだけれど、世の中の女性は普通指輪をつけたままで生活しているのだから、ちょっとやそっとでは傷ついたりしないだろう。私はそう判断して、指輪を嵌めたままで寝室へ向かい、アリシアを起こさないようにそっとベッドにもぐりこんだ。
ベッドの中で、小指をそっと鼻に押し付けたら、柔らかい微風の匂いがしたような気がした。きっと、気のせいだろうけれど。