護りたいもの(7)
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17歳の私は、私服姿で従業員棟の廊下を歩いていた。たまの休日がアストと被って、私はとても機嫌がいい。誰にも聞こえないくらいの声量で鼻歌を歌いながら、心持ち早足に歩みを進める。今日は、アストと城下町まで買い物に行く約束をしている。本当は、待ち合わせの時間まではもう少しあるのだけれど……待ちきれなくなって、部屋を出てきてしまった。実習の開始と共にアストは個人部屋を与えられたから、最近は気兼ねなくアストに会いに行くことが出来て嬉しい。
アストの部屋の前に着き、扉の前に立つと、小さくノックした。
「どうぞ」
返事を確認してから、私はそっと扉を開ける。椅子に座って本を読んでいたアストが、私の姿を認めるなり、驚いたように目を丸くした。
「リディ。おはよう」
閉じた本をテーブルに置くと、立ち上がり、私の方へと歩いてくる。私は後ろ手に扉を閉めると、小走りでアストに駆け寄って飛びついた。ぎゅっと抱き締められて、自然と頬が緩む。
「驚いたな。こんな朝早くから来てくれるとは思わなかった」
「早く会いたくて、いても立ってもいられなくて」
私がそう答えると、アストはふっと笑った。
「俺も。早くリディに会いたかった」
抱き締めた腕を緩めると、アストは私の顔を見て目を細めた。
「ねえねえ、アスト、何の本読んでたの?」
テーブルの上に置かれた本を一瞥して問い掛けると、アストはああ、と言って右手を伸ばして本を取った。
本は思いの外分厚い。手渡された本を受け取り、私はその表紙に視線を落とす。
「”魔術応用・上級3”……?」
なんだかタイトルからして難しそうだ。私はアストの背中に回していた手を自分の元に引き寄せ、本をぱらぱらと捲ってみた。見たことのない言語がびっしりと並んでいて、私は思わず眉根を寄せて本を閉じた。
「全然読めない……」
アストに本を渡すと、アストはおかしそうに笑った。
「魔術言語で書かれてるから、読めなくて当然」
「休みの日まで魔術書読んでるなんて、アストは本当に魔法が好きだよね」
また右手を伸ばして本を机の上に戻したアストは、私を見下ろすとふっと笑った。
「うん、好きだよ。魔法。……リディの方が好きだけど」
悪戯っぽく向けられた言葉に、胸がきゅんとなる。私は背伸びをして、アストの頬に唇を寄せた。
「アスト、大好き!」
アストは瞳を優しく細めた。私は、アストのその表情が大好きで、そうやって笑いかけられるだけで胸が甘く疼いた。
「俺の方が、リディのこと好きだよ」
アストは囁くようにそう言うと、私の肩に軽く両手を乗せた。私はそっと目を瞑る。近づいて来るキスの予感に、私の心は愛と喜びで溢れていた。
そう。とても幸せだった。
幸せはずっと続いていくものだと信じて、疑いもしなかった。
──ずっと傍にいられると、思っていたのだ。
「アストは命の代償に、この六年間をすべて失った。これも、"切り落とし"と呼ばれる……リフクトの一種だ」
「……っ!」
はっと目を覚ました時、まだ外は仄暗かった。私は一瞬、今の状況を理解できなくて、きょろきょろと辺りを見回した。隣ですやすやと寝息を立てているアリシアをじっと見つめて、それから漸く、過去の出来事を夢に見ていたのだと気付く。背中がしっとりと汗ばみ、パジャマが張り付いて気持ちが悪い。あまりの暑さに、私はベッドから抜け出した。リビングへ移動して、コップに注いだ水を一気に飲み干す。
昔の夢を見たのは、随分と久し振りだった。モーデンに来た頃は、それこそ毎夜のようにアストの夢を見ていたけれど、アリシアが生まれてからはとんと見なくなっていた。もう何年も見ていなかった夢を見たのは、指輪を見て過去のことを回想した所為かもしれない。──それとも、指輪に彫られた魔術文字を見たからだろうか。見覚えなんて無いと思っていたけれど、あの本に書かれていた不思議な言語と、指輪に彫られていた文字は、確かに似ていた気がする。
私は汗をかいたパジャマから外出着に着替えて、リビングの椅子に腰掛けた。持ち上げた右手を天井に翳して、小指に嵌められた指輪を見つめる。気のせいだろうけれど、まだ暗い部屋の中で、翠色の石はほのかに光って見えた。
私はそのままテーブルについて、静かに朝が来るのを待つことにした。もう一度眠れるだけの時間はあったけれど、また同じ夢を見ることが怖くて、眠りに就くことが出来なかったのだ。
アストが切り落としされたと言ったときのガザックの顔が、脳裏に焼き付いて離れない。何故だか、酷く胸騒ぎがした。
──リビングでぼんやりとしていると、ふいに、コンコン、と小さく扉をノックする音がした。私は驚いて、玄関の方に目を向けた。一瞬、アストかなと思ったけれど、こんなに朝早く、まだ陽も昇っていないような時間に来る訳が無い。
控えめにもう一度叩かれたかと思うと、次の瞬間には、力強く何度も手の甲を叩きつける音がした。 「助けて! 助けて!!」
扉の向こうから聞こえた若い女性の声に、私ははっと顔を上げた。
今確かに、助けて、って切羽詰ったような女性の声が聞こえた。
「お願い! ここを開けて! 私を助けて! お願いします!」
今にも泣きそうな──ううん、もしかしたらもう泣いているのかもしれない。悲鳴のような女性の声に、私は思わず扉に駆け寄った。誰か、不審者にでも追われているのかもしれない。だったら、直ぐに家の中に入れてあげなくては危険だ、とそう思ったのだ。
けれど、扉の鍵に手を掛けたところで、アストの言葉を思い出す。アストは、誰が来ても、絶対にドアを開けないようにと言っていた。もしも扉の向こうにいる女性が、黒魔術師に関わる人間だったとしたら? これが罠だとしたら、絶対に扉を開けてはいけないはずだ。私は、鍵に掛けていた右手をそっと下ろし、左手で包み込んだ。
「お願い! 助けて! 助けて……」
扉の向こうから聞こえる女性の叫び声に、私はぎゅっと目を瞑った。確かに、これが罠なら、扉を開けてはいけないに決まっている。だけれど、もし扉の向こうにいる女性が、黒魔術師とは全く関係の無い女性で、不審者に追われているのだとしたら? 右手を左手で包み込んだまま、私は静かに扉の前に立ち尽くしていた。自ら危険を呼び込むような真似は、出来ない。この家にいるのは、私だけではないのだから。アリシアに危険が及ぶような真似だけは、したくない。だけど、だけど……。
もし今がもう外が明るくなるような時間帯で、アリシアも起きていれば、私は迷わずにアストに連絡を取っただろう。けれど現実にはまだ外は暗くて、アリシアは眠っている。アストだって、きっと眠っているだろう。二人を起こすのは忍びない。
それでも……。このまま、黒魔術師とは無関係かもしれない女性を見殺しにするようなことは、したくない。私は意を決すると、踵を返して寝室へと向かった。すると、私が寝室に着くよりも早く、アリシアが寝室から飛び出してきた。
「おかあさあああああん!」
扉を叩く力強い音と、女性の悲鳴で目を覚ましたのかもしれない。目が覚めて一人で、怖かったのだろう。泣きながら駆け寄って来たアリシアを、私は慌てて抱き上げた。
「アリシア、起きちゃったんだね。ごめんね、怖かったね」
「おかあさああああん!」
アリシアは小さな手で私にぎゅっとしがみ付く。扉を激しく叩く音と同時に、外からまた女性の叫ぶような悲鳴が聞こえた。
「いるんでしょ! 開けてよ! お願い、私、まだ死にたくない!」
”まだ死にたくない。”
不穏な言葉に、胸が震えた。
大きな声にびくりと震えて泣きじゃくるアリシアを、私はぽんぽんと背中を叩いて宥めながら、寝室へ連れて行った。
──幸いにも直ぐに落ち着いたアリシアをベッドの上に下ろすと、私は小さな声で言った。
「アリシア」
「なあに……?」
「あのね、おまもり、握っていてくれる?」
アリシアは不思議そうに私を見上げた。
「今から、お母さんは玄関の方に行くけど、アリシアは、ここで待っててね」
アリシアは悲壮な顔で私を見上げた。私が不安げな顔をしていたのだろうか、アリシアは私の服をぎゅうっと掴む。
「なんで? しあ、おかあさんといっしょがいい」
「大丈夫、お母さん直ぐに戻ってくるから。ね?」
扉の外の女性の声は、まだ聞こえている。もし誰かに追われているのなら、あんなに大きな声を出していて、居場所に気付かれないのかと不安になる。
もしかしたら、罠かもしれない。そう思う気持ちもあったけれど、このまま放っておくなんてことは出来なかった。
私はベッドサイドに置いてあった翠の石を手に取り、アリシアの手に握らせた。
「アリシア。おまもりを握って」
アリシアは素直に翠の石を握った。
「お兄さんを呼んでくれる?」
アリシアはこくりと頷く。その瞬間も、扉をノックする音は響いていた。アストに迷惑を掛けることはとても忍びなかったけれど、これが罠であってもそうでなかったとしても、非常事態なことには変わりない。魔力も持たない私一人で、対処しきれる自身は無かった。
「お願いします! 私を助けて……!」
泣きそうな女性の声に、私は顔を上げた。
「おにーさん、おにーさん」
アリシアが翠の石に呼びかけるのを確認しながら、私は寝室の扉を開ける。
「アリシア、絶対に寝室から出てきては駄目よ」
アリシアは光を放つ石に声を呼び掛けながら、私の言葉に小さく頷いた。私は寝室の扉を閉めると、念の為に鍵を掛けて、玄関に向かった。
玄関の扉の前に立った私は、一瞬躊躇ったけれど──意を決して、鍵を開けた。すぐに扉を開けると、目の前には悲壮な顔をした女性が立っていた。年齢は、私と同じくらいだろうか。見たことの無い女性だ。瞳は泣きすぎて真っ赤になり、ひどい顔をしていた。
私が扉を開けた瞬間、女性はほっとしたような表情を浮かべた。
やっぱり、黒魔術師とは関係なかったのかもしれない。瞳の色も赤では無いし、演技でこれだけ泣くことは難しいと思う。
「上がって下さい」
私が素早くそう言った瞬間──女性の背後から、マスクを被った男が現れた。私ははっとして、扉を閉めようとする。けれど、その瞬間には男は私の直ぐ目の前に立ち、扉を押さえつけていた。
「っ!」
やっぱり罠だったんだ! どうしよう。そう思った瞬間には、私は家の中に向かって突き飛ばされていた。扉のところに立つマスクの男を見上げた時、その後ろで、女性が怯えたように後ずさるのが見えた。女性は二、三歩後退した後、もの凄い勢いで駆けて行った。彼女は、黒魔術師の味方では無かったのかもしれない──。
私はすぐに立ち上がった。その瞬間、寝室からアリシアが飛び出してきた。しまった! アリシア、内側から鍵を開けたんだ! 出てきては駄目だと言ったのに!
「おかあさん、おにいさんおへんじくれないよぉ……」
「アリシア、来ちゃ駄目!」
振り返った私が、叫ぶようにそう言うと、翠の石を握ったままこちらを見つめたアリシアが、肩をびくりと震わせた。
私がアリシアに駆け寄るよりも早く、マスクの男はアリシアに近寄り、その小さな腕を掴んだ。アリシアは驚きで声も出ないのか、ただマスクの男を見上げている。男はアリシアの持っていた翠の石を床に叩き落すと、小さな声で何か呟いた。
「фя-реёноъ」
聞き取れない不思議な言葉に、魔術だと思った瞬間、私は二人に駆け寄って渾身の力でアリシアを突き飛ばした。その瞬間、視界が白く染まる。
「──おかあさん!!」
アリシアが悲鳴に似た声で、私を呼んだ。大丈夫、って答えようとしたけれど、言葉は声にならなかった。まるで上空から突き落とされたように、体が奇妙な浮遊感に包まれる。叩きつけるような風に、口を開くことさえ叶わない。私はぎゅっと目を瞑った。




