恋の炎(1)
バッカスと公園で会った日から、あっという間に一ヶ月が経っていた。アストたちは、もう一ヶ月程で王都へ帰ってしまう。・・・王都へ帰ってしまえば、もう二度と会うことは無いだろう。アストにもう二度と会えないと思うと、胸がつきんと痛んだ。もう二度と会わない、って、四年前にそう決めて、モーデンに来たはずなのに。
ガザックには、このまま会わない訳には行かないだろう。バッカスに聞いた話が本当なのか確かめる必要がある。寮に会いに行きたいけど、結局勇気が出ないままだ。ガザックが王都に帰ってから会いに行こうかな。そうしたら、アストに会わなくて済むだろうし・・・。幼いアリシアには長旅はしんどいかもしれないけれど、一度は華やかな王都を見せてあげたいと思っていた。
でも、実習が終わって王都に行けば、町はアストとティアナ王女の婚約話で賑わっているかも知れない。お弁当をつつきながら、どうしよう、と考えていると、イーシャが隣で苦笑いした。
「そんなに気になるなら会いに行けばいいのに」
「え?」
私がイーシャに顔を向けると、イーシャはパンを齧りながら素気無く言った。
「王都に帰ったらもう会えなくなるのよ?あんたこのままじゃ、絶対後悔すると思うけど」
私は俯いて、お弁当箱に目線を落とした。もう会わない、というのは、自分で決めたことだけど、アストが王都に帰ってしまった後で、後悔しないと言い切れる自信は無かった。だけど、今更何か行動を起こすつもりも無かった。アストは王都に帰って、ティアナ王女と婚約する。ガザックの言う通り、陛下がアストを気に入っているのなら、アストはきっとまたデイラートに選ばれるのだろう。魔術師としての花形職に就き、王家とも縁続きになって、美しい奥方を貰って…アストには、絵に描いたように幸せな未来が待っているはずだ。これで、良かったんだ。私たちの未来が交わることはもう無い。きっと、それでいいんだ。
最後に見かけたアストの後ろ姿を思い出し、胸がずきりと痛んだけれど、それには気付かない振りをした。
「イーシャ、ありがとう」
私が小さく呟くと、イーシャは怪訝そうな目を向けた。
「何がありがとうなのよ」
イーシャはじっと私を見つめていたかと思うと、やがて目を逸らし、小さくため息を吐いた。
「そうね、もう何も言わない。あんたの好きなようにしたらいいわよ」
私はもう一度、ありがとう、と呟いた。
仕事を終えて事務所を出た後、私はアリシアを迎えに行くために、一人で歩いていた。明日は休日だ。何をして過ごそうかな、なんて考えながら歩いていると、道の途中で一組の男女が立ち止まっているのが目に入った。そろそろ夕ご飯の時間だからか、私の他に歩いている人はいない。あそこで立ち止まっているのはカップルかな?邪魔にならないようにと早歩きで通り過ぎようとすると、女性と一瞬だけ目が合った。女性は困ったような表情を浮かべている。私からすっと目を逸らし、目の前の男を真っすぐに見据えた。
「私、急いでいるんだけど、もういいかしら?」
「はぁ?良い訳ないだろ?」
なんだか、様子がおかしい。カップルじゃなさそうだ。困ったような顔をしている女性を見て、助けなきゃ、と咄嗟に思った。他に人通りも無いし、私が行くしかない。
一瞬の躊躇いの後、私は慌てて駆け寄ると、女の人の腕を掴んだ。
「──は、ハノンったら。どこに行ったのかと思った。探したよ?」
初対面の女性の名前を知っている訳もなく、咄嗟に侍女をしていたときに仲良くしていた友人の名で呼び掛ける。女性のオリーブ色の瞳がはっと見開かれた。美しい人だ…。女同士だというのに、少しドキッとしてしまった。だけど、女性と言うよりは、まだ女の子と言った方が適切かもしれない。私よりはいくつか年下に見えた。
「おい、あんた、なんだよ」
女の子の腕を引いてその場を離れようとしたけれど、すぐにその男に止められた。近くで見ると、随分と若い男だった。私と同年代かもしれない。だけど近くで見下ろされると少し恐怖を感じた。緊張で胸がバクバク言っている。その男の瞳は燃えるような赤色をしていた。こんな風に、絵の具のように赤い瞳は見たことが無くて、なんだか気味が悪いと思った。その男は、髪もオレンジ掛かった赤の派手な色合いをしている。
「この子の姉です。この子がどうかしましたか?」
身構えてそう言うと、その男は下卑た笑いを浮かべた。
「似てない姉妹だな。まあいいや。あんたが代わりに払うってんなら、それでもいいけど?」
代わりに払う?一体何の話だろう。
「こいつはさっき走ってきて、俺にぶつかったんだよ。お陰で俺は右腕が千切れそうに痛いんだ。アー、イタイイタイ。金払ってくれるよなあ」
その男の大げさな芝居に、やっと合点がいった。女の子は運悪くこの男にぶつかって、いちゃもんをつけられていたんだ。
でも、どうしよう。お金を払う筋合いが無いのは分かるけれど、どうやって逃げ出そう。誰かを呼んで来た方が良かったのかもしれない。そう思った瞬間、視界を鋭い光が横切った。その光は男のみぞおちに直撃し、男は派手な音を立ててその場に仰向けに倒れた。
「えっ」
な、何、今の!?
──魔法!?
びっくりして振り返ると、女の子は私の顔を見て頷いた。
「今のうちに逃げよう!」
この子が魔法を使ったの…?私は混乱したまま、女の子に手を引かれてその場から走り出した。
暫く走って角を曲がったところで、女の子は立ち止まった。私たちは二人とも肩で息をしながら、元来た道を振り返る。男が追ってくる様子は無かった。もしかしたら、気絶しているのかも知れない。
「ありがとう。あなたが注意を引いてくれたおかげで、魔法を発動する時間を稼げたわ」
女の子は綺麗な声でそう言った。凛とした鈴のような声だ。
「あなた、魔術師…なの?」
私が驚いてそう声を掛けると、女の子はくすっと笑った。笑うと幼く見えて、とても可愛らしい。あまりの可愛らしさにつられて、私も微笑んだ。
「そう。腹が立ったから、防御魔法の中でも最大級の光魔法をお見舞いしちゃった」
女の子の魔術師なんて珍しい。格好良いな、と思って、私は彼女をじっと見つめた。ありきたりな焦げ茶色の髪は少し痛んでいるように見えるけれど、そんなことくらいでは彼女の美しさは損なわれない。オリーブ色の綺麗な瞳は彼女の白磁の肌によく映えている。なんだか、まるでお人形のような愛らしさ。そうそう、王宮で働いていたとき、ティアナ王女付きになったハノンが、王女はお人形さんみたいにお可愛らしいんだよって騒いでいたっけ。私も遠くからお見かけする度、お可愛らしいなと思っていた。あの頃より、少し王妃様に面影が似てきたようにも見えるけれど・・・。
───って、ちょっと待って!
「ティアナ王女?!」
思わず大きな声で叫ぶと、目の前の彼女は素早く私の口を押さえた。
「ちょ、大きな声出さないでよ!!」
私は呆気に取られたまま彼女を見つめる。四年経って以前よりも随分大人っぽくなってはいるけれど、どこからどう見てもティアナ王女だ。どうしてすぐに気付かなかったんだろう。
「ご、ごめんなさい」
私が小さな声で言うと、ティアナ王女は私の口元から手を離した。
「でもどうして、王女がこんなところにいらっしゃるんですか?」
声を顰めてそう問い掛けると、彼女は目を泳がせた。
「な、なんのこと?人違いじゃない?」
ティアナ王女はどもりながらしらばっくれてみせたけれど、明らかに不自然だ。私がじっと見つめていると、彼女はやがて諦めたように息を吐いた。
「・・・あなた、こんな田舎に住んでるのに、なんで私の顔知ってるのよ」
「えっと、私、以前王宮で侍女をさせて頂いていたんです」
ティアナ王女はきょとんとしたように私を見、ぱちぱちと瞳を瞬いた。
「そう言われたら、見たことあるような気がしないでもないけど・・・・・・。名前を教えてくれる?」
「リディと申します」
私がそう名乗ると、彼女は、ああっ、と言って自分の口元を覆った。
「リディって、あの、アストと付き合ってた!?」
まさか王女が、そんなことまで知っているとは思わなかった。なんだか気まずい思いをしながら、私は小さく頷いた。
「えーーーっ。こんなところに住んでたの!?びっくり。すごい、ピンポイント!え、あ、じゃあ、アストやガザックにも会ったの!?」
突然の勢いに押されてびっくりしながらも、私はこくりと頷いた。
「は、はい・・・・・・」
「そうなんだ!うわ、世間ってせまーい!え、それであなた、この辺に住んでるのよね?一人暮らし?」
どうしてそんなことを聞くのだろうと思いながら、私は首を横に振った。
「いえ・・・、娘と二人暮らしですが・・・」
私がそう答えた瞬間、ティアナ王女はパッと花の咲き誇るような笑顔を浮かべた。そして、顔の前で両手をパンと合わせると、唐突にこう言った。
「お願い!今夜、止めてくれない?」
「えぇっ!」
流石に是非に、とは言えないだろう。私とアリシアの住む小さな家は、とても王女に泊まって頂けるような家ではない。私が驚いて狼狽していると、ティアナ王女は顔の前で手を合わせたままで、軽く頭を下げた。
「おーねーがーいー!!今晩、行くところが無いの!」
「あ、頭を上げてください、ティアナ王女。行くところがないとは、どういうことでしょうか」
ティアナ王女は顔を上げると、困ったように眉尻を下げた。
「泊まるところとか何も考えずにこっちに来ちゃったから、困ってて…」
「誰かお付きの者は一緒ではないのですか?」
「ううん、一人よ」
ティアナ王女一人でこんな遠くまで来たというの?私が唖然としていると、ティアナ王女は恥ずかしそうにはにかんだ。
「実習がまだ一ヶ月も残ってると思ったら、待てなくて。どうしても、会いたくなって来ちゃったの」
その途端、無意識に忘れようとしていたガザックの言葉が頭に蘇った。
「”アストは…、この実習が終わったら、ティアナ王女と婚約することが決まってる────”」
……会いたくて来た、ってまさか、アストに?
「だけど、モーデンまで行きたいって言ったら止められるの分かってたから、内緒で来たの」
内緒で、って、どうやって来たんだろう。王女には常に付き従う護衛とメイドがいるはずだ。王女がいないと知れれば、王宮内はすぐに大混乱になるだろう。
「す、すぐにお帰りにならないと!」
「嫌よ、まだ誰にも会ってないのに。大丈夫よ、仕掛けは残してきたから」
「仕掛け?」
私が首を傾げると、彼女はにっこりと美しい笑顔を浮かべた。
「私だって王家の人間なんだから、ちょっとした魔法のひとつやふたつ使えるのよ。お父様はお忙しい方だから、私の部屋に来られることなんて滅多に無いし……二、三日ならどうとでもなるわ」
魔法のことは詳しい訳ではないから、あまり良く分からないけれど、ティアナ王女がいないということをごまかせるような魔法を施して来たということだろうか。
「ね、お願い。明日、魔術師のみんなに会ったらすぐに帰るから」
「そう仰られても、私の家はとても狭いので、とてもティアナ王女をお招きできるような家では…」
困り果ててそう口にすると、ティアナ王女はこともなげに言った。
「どんなに狭くても屋根があればいいわよ。ベッドを譲ってなんて言わないわ」
まさか一国の王女がそのようなことを口にするとは露ほども思わず、私は驚いて瞳を見開いた。
「ね、お願い!」
「あの、本当に狭いですよ?」
「うん、大丈夫。ありがとう、嬉しいわ」
まだ良いとは言っていないのに、にっこりと微笑みながらお礼を言われてしまっては、もう断ることなんて出来なかった。
「あー、でも本当に、ここでリディに会えて良かったわ。一人で宿に泊まるのも心細いなって思ってたのよねー」
ティアナ王女は綺麗な微笑みを浮かべた。
「じゃあ、帰りましょう。宜しくね」
ティアナ王女と一緒にアリシアを迎えに行くと、アリシアはすぐに駆け寄って来た。
「おかあさん、このひとだあれ?」
アリシアは私の隣にいるティアナ王女を見上げて、きょとんとしたように小首を傾げている。
「えーっとね、お姉さんは…お母さんのお友達だよ。今晩だけうちに泊まってもらうけど、仲良くできる?」
不敬だとは思ったのだけれど、王女自身に友達だということにして、と言われてしまったので、アリシアには私の友達だと説明した。
「初めまして、アリシア。ハノンよ」
ティアナ王女はそう言って、アリシアに笑いかけた。万が一アリシアが名前を呼んだときのために、偽名を使った方がいいだろう、ということで、現在も王女付きの侍女をしているというハノンの名前を再び拝借することにしたのだ。
アリシアはぽかん、と私を見上げた後、みるみると綻ぶような笑顔を浮かべた。
「おきゃくさん?わーい!」
アリシアは両手を挙げて飛び上がると、ティアナ王女の周りをぴょんぴょんと飛び跳ねだした。人見知りをしない子だとは思っていたけれど、まさか喜ぶとは思わなかった。
「うわあ・・・」
ティアナ王女は何故だか驚いたように、自らの周りを飛び跳ねるアリシアを凝視している。
「どうかされましたか?」
「う、ううん。なんでもないわ。帰りましょ?」
「うん、かえろ!」
アリシアは私の隣に来て私の手をぎゅっと握ると、私の影に隠れるようにしながら、えへへ、と笑った。
「おねえちゃん、うちにとまるの?」
「うん、よろしくね」
ティアナ王女がにっこり笑いかけると、アリシアは嬉しそうに破顔した。
「うん!」
三人で並んで家に帰り、鍵を開けて中に入る。ティアナ王女は興味深そうに部屋の中を見回している。
「ごめんなさい、狭いのですが」
ティアナ王女は吃驚した様に振り返って、首を大きく横に振った。
「ううん、無理言って泊めてもらうんだから。ごめんね」
王女はおもむろに髪に手を伸ばすと、ぐいっと引っ張った。パサついた焦げ茶色の髪は引っ張られるままに彼女の頭から離れ、代わりに、輝くような藤色の髪が現れた。髪色はてっきり魔法で変えているのかと思っていたけれど、まさかウィッグだったなんて。ティアナ王女はウィッグを手に持ったまま、くすりと笑った。
「わー、きれいなおいろ!」
アリシアは瞳をきらきらさせながらティアナ王女を見上げた。ティアナ王女は嬉しそうにアリシアにお礼を言っている。
「アリシアの桃色もすっごく綺麗よ」
「ほんと?」
「うん、本当。お母さんと同じお色ね?」
ティアナ王女がそういうと、アリシアはとても嬉しそうに破顔した。
「うん、しあとお母さん、おんなじいろ!」
なんだか私も嬉しくなって、ふふっと笑った。
スーパーに寄るのを忘れたので、晩御飯は家にあったもので適当に作ることになった。そんなものをティアナ王女の前に出すのはとても気が引けたけれど、リディの作ったものを食べたいわ、と仰られたので、ドキドキしながらも食卓に出した。驚いたことに、ティアナ王女はおいしいと言って全て食べて下さった。
「あなた料理の才能あるわね、これ、おいしいわ。シェフとして雇いたいくらい」
冗談なのだろうけれど、恐れ多いと感じながらもとても嬉しかった。
ご飯を食べた後はお風呂に入り、まずアリシアをベッドに連れて行った。我が家にはベッドは一つしかないので、今晩はティアナ王女とアリシアに二人で使ってもらうことにした。いつも大きな天蓋付きベッドで一人で眠っているティアナ王女にとっては、狭く感じるだろうけれど・・・。
「・・・・・・おやすみなさい、アリシア」
まずアリシアに絵本を読み聞かせて、アリシアが眠った後でリビングに戻ると、ティアナ王女はココアのマグカップを握り締めたまま何か考え込んでいる様子だった。
「どうかされましたか?」
「・・・・・・え?」
ティアナ王女ははっとしたように顔を上げ、それからそっと寝室の扉を見た。
「アリシア、寝たの?」
「はい」
ティアナ王女は声を潜めて言った。
「・・・びっくりしちゃった」
「何にでしょうか?」
私が聞き返すと、ティアナ王女は瞳を伏せた。
「アリシアよ。あなたが娘と二人暮らししてるっていってたから、モーデンに来てから出来た男との間に子どもでもいるのかなー、なんて思ってたの。なのに・・・」
ティアナ王女はちらりと私を見ると、また手の中のココアに目を落とした。
「そっくりなんだもん。・・・アストに」
「・・・・・・」
ガザックは、アリシアがアストにそっくりだったって、バッカスに聞いたって言ってたけど・・・。ティアナ王女にも言われるなんて思わなかった。だからティアナ王女は、今日アリシアに会ったときびっくりしていたんだ。
「・・・・・・アリシア、可愛いね」
ティアナ王女は小さく笑った。
「リディに沢山愛情を貰って、大事に育てられてるんだろうな、って思った。・・・・・・ねぇ、あなた、アストにも会ったんだよね。アストにはアリシアのこと、話したの?」
上目遣いに問い掛けられて、私は首を横に振った。
「・・・いえ」
「どうして?」
「今のアストにとっては、関係の無いことなので・・・」
かつてのアストと私が愛し合い、アリシアを身ごもったことは、いまのアストには何の関係も無いことだ。私にとっては、それを認めることはとても辛いことだったけれど。私の返答に、ティアナ王女はそっか、と呟いた。
「リディは強いね。凄い」
「え?」
「私なんて、全然駄目。私だったら絶対、子どもを理由にしてでも、アストに結婚してって迫っちゃうと思うな。・・・リディは、もうアストのこと好きじゃないの?他に好きな人でも、いるの?」
すっと顔を上げて、真剣な瞳で問い掛けられて、私は返答に詰まった。
「私は・・・。望みが無いと思ってても、諦められないの。だから、ずるいやり方でもなんでも、手段は選ばない。汚いやり方でも・・・なんとしてでも、あの人と結婚したいの」
ティアナ王女は強い意志を秘めた瞳で、私を見つめている。その瞳に宿る炎は、恋の炎だ。胸が締め付けられるように痛くなった。ティアナ王女は、本気でアストのことが好きなの・・・?好きだから、アストと婚約できるように自ら仕向けたというの?
「リディだって、本当はまだアストのこと好きなんじゃないの?」
「え・・・」
ふいに向けられた言葉に、驚いて言葉に詰まる。ティアナ王女はなんだか苦しそうに笑った。
「やっぱり、まだ好きなんだ?・・・なのに、他の女にアストを掻っ攫われていくの、指くわえてみてるつもりなの?それでいいの?」
ティアナ王女がこんなに真剣にアストのことを想っていることを知って、婚約の話まで出ているというのに、今更私の出る幕なんてない。私は軋む心には気付かない振りをして、小さく笑って見せた。
「・・・ティアナ王女みたいに想って下さる方と結婚して、幸せになって欲しいんです」
好きだから、いつか縛り付けるような形になってしまうかもしれないと恐れた。何も考えずに、好きだと思う相手と自由に恋をして欲しい。私には、真っすぐな目をして語るティアナ王女が眩しくさえ見えた。彼女は汚いやり方だと言ったけれど、アストのためだなんて言いながら自分が傷つくことを怖がっている私よりも、余程純粋な恋をしていると思う。
「それでリディは辛くないの?」
辛くない、なんて言えない。本当は今でも、苦しくて悲しくてたまらない。切り落としさえ起こらなければ、って何度考えただろう。切り落としされた直後は、これは悪い夢だ、早く目が覚めますように、って何度も祈った。だけど、切り落としは実際に起こったことで、かつてのアストはもうどこにもいない。アストにさえ会わなければいつか忘れられる、と思って生きてきた四年間、アストのことを忘れたことなんて一度も無かった。アストに再会した今となっては、もう忘れることなんて諦めている。
私は返事のしようが無くて、ただティアナ王女に微笑みかけた。
「・・・リディ、明日、ガザックたちのいる寮まで行きたいんだけど、案内してくれる?」
勿論、最初からそのつもりだった。私よりも魔法を使えるティアナ王女の方が強いとは分かっているけれど、それでもやっぱりティアナ王女と関わった私には、無事に魔術師の元へ送り届ける義務があると思う。私が頷くと、ティアナ王女は困ったように笑った。
「結局、あなたみたいな”いい人”が損をする世の中よね」
どういう意味だろう。
「・・・私、いい人じゃありません」
「まあ、私いい人です、って言うような人は、まず間違いなくいい人じゃないわね」
ティアナ王女はそう言って、なんだか寂しそうに笑った。