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七五三田優奈の観察録  作者: 有馬 茶


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【記録された死】第一章 終わる夜

【記録された死】

第一章:プロローグ

 榊原アート財団の最上階にある理事長室は、夜になると、昼間よりもずっと広く見えた。

 壁一面のガラス窓の外には、都市の灯りが薄い川のように広がっている。

 街はまだ眠る気配を見せず、遠くで車の流れが光の帯を引いていた。


 その部屋の主、榊原修也は、机の上に広げた書類から顔を上げ、時計を見た。九時四十七分。

 彼はネクタイを緩めもせず、椅子に深く腰を下ろしたまま、微笑んだ。


「遅いな、黒瀬さん」


 言葉の調子は穏やかだったが、そこに焦りはない。

 人を急かすときの声ではなく、相手が自分の言葉に従うのを当然と思っている者の声だった。


 扉が静かにノックされる。


「失礼します」


 入ってきたのは、経理担当の黒瀬里奈だった。三十代前半、黒のスーツに地味な腕時計、まとめた髪も化粧も控えめで、財団の華やかな空気の中ではむしろ目立たない。目立たないからこそ、彼女はここで長く生き残ってきたのだろう、と修也は以前から思っていた。


 黒瀬は書類の束を胸の前で抱え、机の端に置いた。


「今月分の支払い一覧です。先日の分、いくつか確認が必要でしたので」


「確認?」修也は笑った。「君はいつも確認が多い」


「経理ですから」


「経理は、言われた通りに処理すればいい。余計なことは考えなくていい」


 黒瀬は返事をしなかった。

 その沈黙を、修也は拒絶ではなく従順の証だと受け取ったらしい。彼は指先で机を叩き、少しだけ顎を上げる。


「それで?」


「監査用の添付資料です。あと、来週の会議に向けた再見積もりも」


 黒瀬の声は平坦だった。感情を削ぎ落としたような声だ、と聞く者は思うだろう。だが、修也にはそれが“取り繕い”にしか見えていない。

 彼は、こうした相手の弱さを嗅ぎつけるのが異様にうまかった。


「黒瀬さん。君はいつも優秀だが、少し臆病だな」


「……そうですか」


「私なら、君の立場で迷わない。隠す必要があるものは隠し、処理すべきものは処理する。それだけだ」


 修也の視線が、黒瀬の顔の上をなぞる。

 彼女がほんのわずかに眉を寄せたのを見逃さなかった。


「処理、ですか」


「そうだ。たとえば、過去の記録。たとえば、誰かの責任。たとえば――」


 修也はそこまで言って、わざとらしく言葉を切った。


 黒瀬の手が、一瞬だけ止まる。

 それはほんの僅かな反応だった。だが、修也には十分だった。


「……何でもありません」


「いや、いい。私は君に期待しているだけだ」


 黒瀬は何も答えず、机の上に置いたペンを拾った。

 そのとき、扉の外からもう一度ノックの音がした。今度は軽い。


「兄貴、まだ終わってないのか?」


 入ってきたのは榊原恒一だった。修也の弟で、財団の副理事を務めている。

 兄とよく似た輪郭を持つが、顔つきには抑えきれない苛立ちが常に浮かんでいた。

 彼は兄を見るなり露骨にため息をつく。


「会議、終わっただろ。現場はもう帰ってる」


「お前はいつもせっかちだな、恒一」


「せっかちじゃない。無駄が嫌いなんだよ」


 恒一の視線が黒瀬へ移る。

 彼女はすぐに軽く頭を下げたが、その表情はほとんど動かなかった。


「黒瀬さん、まだ残業?」


「はい。少しだけ」


「少し、ね」


 恒一は机に視線を落とした。そこには修也が広げた資料と、いくつかの会計帳票があった。

 彼は眉をひそめる。


「またその金の話か」


「金の話は、財団の話だろう」修也は笑う。「お前も少しは勉強したらどうだ」


「その言い方が、昔から嫌なんだよ」


 弟の声には、もはや隠す気もない苛立ちがあった。

 兄弟の間にある空気は冷えている。それでも表面上だけは、財団幹部としての会話に収めていた。


 そこへ、ノックとともに女性が入ってきた。三浦沙耶である。広報担当の彼女は、明るい色のスカーフを首に巻き、夜のオフィスでも少し浮くほど華やかだった。


「理事長、明日の取材、予定どおりでよろしいですか」


「もちろんだ。私が出る以上、予定どおりに進めてもらわないと困る」


 修也は即答したが、沙耶はその声色に少しだけ表情を曇らせた。

 彼女は修也に対して、必要以上に気を遣っているように見える。

 いや、正確には“気を遣わざるを得ない”のだろう。


「では、報道資料の最終確認だけ……」


「後でいい。今は皆、私の部屋に集まっている。いい機会だ」


 その言葉に、沙耶の視線が一瞬だけ黒瀬へ向いた。

 黒瀬は、視線の意味を受け取っていないふりをした。


 続けて、ドアの外から低い男の声がした。


「失礼します。車の手配、終わっています」


 入ってきたのは牧野誠だった。私設運転手であり、財団の雑務も担う男だ。

 体格は大きいが、姿勢は妙に神経質で、目つきは常に扉や窓を気にしていた。


「今日はもう帰りですか、理事長」


「少ししたらな」


「では、いつも通り地下からお出しします」


「頼む」


 牧野は短く頭を下げたが、その目は修也の机の上にある薬のケースに止まった。

 黒い小さなケース。几帳面に整理された一式。

 見ただけで、習慣の重みがわかる置き方だった。


「お薬、先に飲まれますか」


「そうだな」


 修也は引き出しから小さなピルケースを取り出した。

 黒瀬はその動きを見ていたが、止めなかった。止める理由もないという顔だった。


「失礼します」


 最後に入ってきたのは、天城俊也だった。外部監査役。

 四十代前後の男で、細身のスーツを着ている。

 顔立ちには学者めいた硬さがあり、声も落ち着いていた。


「まだ皆さんお揃いでしたか」


「ちょうどいい。天城さん、帳簿の件は見たか?」


 修也が問うと、天城は一瞬だけ間を置いてから答えた。


「見ました。数字は整っていますが、少し整いすぎていますね」


 部屋の空気が、ほんの少し張りつめる。

 修也はその緊張を楽しむように笑った。


「君はいつもそうだ。疑うなら証拠を出したまえ」


「証拠は、これから出てくるものです」


 天城の返答は穏やかだったが、含みがあった。

 恒一が鼻で笑う。


「監査役っていうのは、嫌な仕事だな」


「疑うのが仕事ですから」


「嫌な答えだ」


 黒瀬はそのやり取りを黙って聞いていた。

 部屋の中央にいるのは修也だが、視線は少しずつ彼の周囲に集まり、それぞれの距離を測っているようだった。


 やがて、修也は全員を見回してから、ゆっくりと立ち上がった。


「さて、皆が来たところで、少しだけ話をしようか」


 彼は机の上の資料の一つを手に取る。

 黒瀬の肩が、わずかに動いた。


「来週の件だ。再開発の補助金、理事会、監査、それから――」


 修也が言葉を重ねるたび、部屋の温度が下がっていくようだった。

 彼の話は、表向きは財団の運営についてだった。

 だが、実際には関係者一人ひとりの弱みをなぞっている。

 人をまとめるためではない。

 逃げ道をなくすための話だった。


 黒瀬は書類を抱えたまま、ただ静かに立っていた。

 その横顔には、感情の揺れがない。けれど、完全に無なのでもない。

 まるで何かを飲み込み続けているような、危うい静けさがあった。


「黒瀬さん」


 修也が呼ぶ。


「はい」


「その資料、あとで私の部屋へ持ってきなさい。二十一時半に。君なら、意味がわかるだろう」


 黒瀬は数秒、黙っていた。

 そして、短く答えた。


「……承知しました」


 その返事を聞いて、修也は満足したように微笑む。

 だが、他の誰も笑わなかった。


 二十一時三十分。

 同じ理事長室は、先ほどまでの人の気配を失い、ずっと静かになっていた。


 会議は終わり、恒一は不機嫌そうに帰り、沙耶は明日の取材資料を抱えて廊下へ消えた。

 牧野は地下駐車場へ降り、天城も「また明日」とだけ告げて去った。

 残ったのは、修也と黒瀬だけだった。


 黒瀬が書類を持って部屋に入ると、修也はすでに椅子に座っていた。

 机の上には水の入ったグラスと、薬のケース。

 窓の外は黒く、ガラスに映る自分たちの姿だけが、妙に鮮明だった。


「遅かったな」


「すみません。確認がありました」


「君はいつも確認ばかりだ」


 修也はそう言って、手元の封筒を指で弾いた。

 黒瀬の目が、その封筒に止まる。

 中身が何であるか、彼女にはわかっているのだろう。だが、それを顔には出さない。


「ここにある資料、見たか」


「まだです」


「見なくていい。君が何を隠しているのか、私はもう知っている」


 部屋の空気が、わずかに変わった。

 黒瀬は目を伏せるでも、怒るでもなく、ただ修也を見た。


「……何のことですか」


「とぼけるな」


 修也は微笑んだまま、封筒を机の端へ押しやる。


「君が何年も前に関わった件、あれはそろそろ片付けるべきだろう。私は親切で言っている。君が黙って私に従うなら、まだ助けてやれる」


「助ける?」


「そうだ。私は恩を売るのが上手い。君もわかっているはずだ」


 黒瀬の喉が、小さく動いた。

 修也は、その微細な変化を見逃さない。


「それとも、私に監査資料を回すか?」


 黒瀬は答えない。

 修也は、まるで勝ちを確信した人間のように、ゆっくりと薬を手に取った。


「今日は少し疲れた。薬を飲んで休むとしよう。君はもう戻っていい」


 黒瀬は一礼した。

 扉へ向かう、その背中は驚くほどまっすぐだった。


 だが、扉に手をかける直前、彼女は一度だけ振り返った。

 そこには、ほんのわずかな迷いがあったように見えた。

 それは怒りなのか、恐怖なのか、それとも――。


「黒瀬さん」


 修也が呼ぶ。


「忘れたのか? 明日の朝までに、君の“答え”を用意しておけ」


 黒瀬は何も言わなかった。

 扉が静かに閉まる。


 その直後だった。


 修也が、手にしていたグラスを机に戻したまま、突然片手で胸元を押さえた。

 眉間に深いしわが寄る。呼吸が乱れる。椅子がわずかに鳴った。


「……っ」


 彼は立ち上がろうとして、膝をついた。


 扉の向こうで、何かが落ちる音がした。

 おそらく、黒瀬が書類を取り落としたのだろう。あるいは、彼女自身の手が震えたのかもしれない。


 修也は荒く息をしながら、机の端をつかむ。

 薬のケースが床に滑り落ちた。

 小さなプラスチックの音が、やけに大きく響く。


「……誰か……!」


 声は出た。

 だが、誰もすぐには来ない。


 彼の身体は椅子から崩れ落ちるように床へ倒れた。

 やがて、開いたままの目だけが、天井を映して動かなくなった。


 最初に異変を見つけたのは、廊下を通りかかった牧野だった。

 地下駐車場へ戻る途中、理事長室の前で異様な静けさに気づいたのだ。


「理事長?」


 返事はない。


 牧野がドアを開けると、室内には倒れた修也と、床に散った薬、そして机の前で立ち尽くす黒瀬里奈の姿があった。


「……っ、何が」


「わかりません」


 黒瀬の声は、震えていなかった。

 それがかえって異様だった。


 牧野が駆け寄り、修也の脈を探る。

 顔色が変わる。


「誰か、救急車を!」


 廊下へ向かって声が響く。

 すぐに人が集まり始めた。恒一、沙耶、天城。

 そして、誰よりも早く、その部屋に足を踏み入れた黒瀬は、数秒前まで修也が座っていた椅子を見つめたまま、何も言わなかった。


 修也はすでに事切れていた。


 医師の到着後、死因はひとまず心疾患の急変として扱われた。

 だが、現場の空気はそれだけで済ませられるものではなかった。

 あまりにも整った机の上。

 あまりにも散らばり方の不自然な薬。

 あまりにも静かすぎる黒瀬の表情。


 誰もが何かを言いかけ、しかし飲み込んでいる。

 その沈黙だけが、死よりもはっきりとこの部屋に残っていた。


 黒瀬里奈は、床に落ちた薬ケースを見下ろしていた。

 そして、誰にも聞こえないほど小さな声で言った。


「……何も、していません」


 その言葉は、弁明にしてはあまりに早く、

 そして、あまりに遅かった。

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