リンベル・アストレーは勇気をふりしぼる。
私、リンベル・アストレーは、臆病者で、卑怯者です。
ガーネット様が、あの、乱暴な口調の男に連れ去られるのを、ただ見ることしか出来ませんでした。
あの男がガーネット様のお顔に手を這わせた時、手元の皿を後頭部にぶつけてやればよかった。
いいえ、そんなことをしなくても、ガーネット様にそっと囁くだけでも。「早く会話を切り上げましょう」って。
だけど、私は一歩勇気を出せないまま――曲が始まってしまいました。
貴族のダンス。本当ならば、じっくりと見たかった。学びたかった。楽しみたかった。
なのにどうしてこんなにじれったい気持ちで見なきゃダメなのでしょう。
ガーネット様、男と話して楽しそうに笑ってる。親密に、顔を寄せられて。ああ、ダメです。それ以上、その男に近付くと――。
「なんや、えらいことになったなぁ」
私を現実に引き戻したのは、北部訛りの強い声。
振り返ると、赤い髪の、少し……派手なドレスを着た女性が、軽食をたっぷり乗せた皿を小脇に抱えて立っていました。
「あの、今のは私に――」
「見てたでー。そら心配なるわ。あのお嬢さん、全然スレてない感じやもん」
赤髪の女性はそばの机に置かれた軽食を、自分の皿にひょいひょいと入れながら言い、なんと、机で指を拭いて、私に手を伸ばしました。
「北方通商組合のスイカいいます。よろしゅう」
「よ、よろしく、私はリンベル……」
待ってください。北方通商組合って帝国と王国の国境の商売を取り仕切る、とても、大物。
「まー、心配なのも分かるわ。でも、そんなじっーと見てても状況は変わらんで。これ、分け分けして食べよ」
差し出された皿の上の軽食には、ここのテーブルにはないものも。
「まさか、テーブルを回って取ってきたんですか?」
「当たり前や。タダ飯やで? そんなん見逃されへんやろ」
スイカさんはにひひと笑いました。
机で指を拭くことといい、なんという、不作法。
……だけどその、率直さは、確かに懐かしい、王国商人気質。
おかげで、少し、冷静になった気がします。
「では、この魚卵のカナッペを一つ」
「あー、一番ええ奴取ったなぁ! 流石は商人の娘や。油断も隙もあらへん」
「そんな、大げさな――」
オーバーなことを言うスイカさんに思わず笑いそうになったけれど。
「――待って、今商人の娘と?」
「ん、そうやろ? 見てたって言うたやん。麦豪商アストレーの娘さん、やんな?」
思わず、閉口してしまいました。
「あっ、ちゃうちゃう! カナッペ噛みながらそんな顔せんといて。牽制とかやあらへん、同じ商人の娘として仲良くしましょ、それだけです!」
スイカさんは全く屈託のない様子で言いました。
……信じても、いいのでしょうか。
この突如として現れた乱暴な女の子について私が考えていると……。
ふいに彼女の表情が変わりました。
「ちょい待ち、あれなんや」
「え?」
スイカさんの視線の方を見ると。
信じられないものが、想像もつかなかったものが、私のまなこに映ったのです。
ガーネット様が、あの男に……。
嘘でしょう。
抱き着いていました。
そして、男の耳に顔を寄せて……何か、呟いている。
それを聞く、男の顔は。
目を揺らして、口を軽く開けて……。
そう、動揺していました。
だけど、ただの動揺じゃない。
形容をするならば、その、なんというか。
『男の子』の顔を、していました。
ガーネット様は男と目線を合わせようとしていましたが、男はまるで逃げるように視線を逸らしています。
そして。
男はなんと、ガーネット様を置いて、少しギクシャクとした歩調で、そこから、離れていったのです。
一体、何があったのでしょう。ガーネット様は何を囁いたのでしょう。
そんな疑問符は、だけど、次に目に映った光景に消し飛びました。
ガーネット様、立ち竦んでる。皆がダンスしてる中心で。
その時、背中にドンッと衝撃が走りました。
「何しとん。行き、行き!」
「え、え?」
「よう分からんけど、あんた知り合いやろ!」
……その通りです。私は何をしていたのでしょう!
もう、踏み出すことに躊躇はない。もう、私はためらわない。
一刻も早く、ガーネット様の元に走ります!
きょろきょろと所在なさげにされていたガーネット様は、私の顔を見ると、「リンベルさん!」と笑いました。
嬉しい。ダンス中取り残されても、さほど気にされていないご様子。でも今はそれどころじゃない!
私はガーネット様の手を取りました。
一刻も早く、彼女を皆の注目の外へ。
私、リンベル・アストレーは、今日、学んだことがあります。
自分の目的がはっきりとしていれば、他のものは薄れていく。
視線も、マナーも、出過ぎた行いも、ほっそりした手の感触も。
私の掌が、汗ばんでいないか、なんて不安も。




