蚊です。ここ、どこですか?
卵。作らなきゃ。
あれが栄養持ってる。
飛んだ。刺した。潰された。
潰れてない。飛べる。
あれがいる。栄養。卵。作らなきゃ。
刺さらない。違う場所。
どこだ。どこだ。どこが刺せるゥゥウワアアアアアアアアアーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!?!!?
『いい加減にしなさいッぷんぷんぷんぷんと耳元でェーッ!!!!!』
女の人が叫んで私は吹き飛ばされた。次いで意味のある言葉が身体に、頭に染み込んでくる。
待って、女の人? 意味? 言葉? 整理が出来ない。いや、整理って何? 私、どうしちゃったの!?
初めて思い浮かべた物がまるで最初から知っていたみたいに感じられる。
なんだか、色んなことが分かる。でもそれが何故か分からない。
落ち着け。まずは状況を把握しなくちゃ。
ここはどこだろう? さっき私が居た所と全然違う。
地面は水が張ってるみたいだけど白いもやがうねうねしてる。
丸い池の真ん中に壁。いや、扉? が立っていて、その前に何かが立っている。
これは女の人だ。だけどなんか凄く怒ってる。ふーふーと息を吐いて……。
うーん。この吐息、惹かれる。
そうだ、息を吐くってことは血があるってことだもんね。
うん。今なら分かる。なんでだろ?
私が欲しくてたまらなかったものの名前は、血だ。
吸わせてくれないかなー。血。卵。作らなきゃァガガガガ。
『ああもう、どこまで知性と知識を与えたら人並に……なんでこんな下等生物が転生権をっ!』
女の人が宙に何かを描きそれが滑らかに動いて私の中に入ってくる。そのプロセスには痛みが伴っていて、だけどそれと同時に私がどんどん広がっていく。
ていうか痛い。痛い痛いっ! なにこれっ!?
私はめいっぱい羽を動かしてその場で回った。
だけど、止まらない。ずっと痛いっ!
ああ、そうだ。この動き。これは見る側になったことがある。
思い出した。何か燃えるものの前で仲間がこんな風に飛び回っていた気がする。そして……。
死んだ。
なんで今までそれが頭の中に無かったんだろう。
死ぬ。このままだと私という存在が消えてなくなってしまう!? 痛い、痛いけどっ!? それより死にたくないっ!!?!?
やめて、くれないかな、やめてっ、やめてくださいっ!!!
『ふ、はぁーっ』
痛みが止まって、女の人が深い、深いため息をついた。
うーん、相変わらず惹かれる。だけど今はそれより、女の人が私を苦しめる行為をやめてくれたことが嬉しい。
『それは何よりです。ようやくお話が出来そうですね』
今の、私に言ったの?
『ええ、そうです。……えーと、蚊、さん。でいいかしら。ああもう、信じられない。私下等生物と話してる』
下等生物とは失敬な。あれ、でもなんでそれが失敬だって分かったんだろ。ていうか失敬って何。
『ああもう、堂々巡りになっちゃいますから……説明するので考えるのをやめてください』
考える? 考えるって今してるこれだよね。これをやめろと言われても、そもそも考えるってこと自体初めてだからやめ方を知らない。
そもそもやめるってなんだ……。
うん、わかった。女の人、怒ってる。やめ方はよく分からないけど、やめます。
女の人はもう一度深いため息をついた。
『いいですか。まずあなたにはおよそ一般の人間が持つであろう知性と知識を与えました。知らない事を知っている事に驚くかもしれませんが、やめてください。早急に。そういう物だと受け入れてください。でなければ、私はイライラして、ああイライラして……!』
女の人の手がピクピク震えてる。
その時、私は思い出した。
さっき、潰されてなかったって思った。だけど本当は違う。
私は、死んでいる。
私は卵を産みたかった。子どもが欲しかった。その為には栄養が必要だった。
だから匂いがする方に飛んでいったんだ。
それで、叩き潰された。
この、女の人みたいな、手で。
『そう、そして貴方はこの女神の間に呼ばれた。異世界に転生する権利を得て――』
女の人は眉間に指を当てた。頭痛かな。私もさっきそうだったから分かる。痛いよね。
『頭痛ではありません』
そうなんだ。じゃあ痛くないね。
女の人は眉をひそめたまま私を見た。はい、やめます。
『説明を続けます。あなた方下等生物は反射で動くようなもの、神が操る事はあっても恩恵を与えることなどありません。でも、おめでとうございまーす。あなたは、奇跡か世界の気まぐれか、とにかく転生する権利を得ました。本来ならあり得ないことですけどね』
女の人が手をひらひらと振ると、ファンファーレが鳴って天井から紙吹雪が降ってきた。お祝いだ! 女の人、唇の端がピクピクしてる。
『ああもう、分散的思考もやめて。あと私の事は女の人ではなく女神と呼ぶように。思考の内であってもです』
分かりました女神。
『さまも付けましょうか』
女神さま。
『よろしい。とにかくあなたは異世界に転生します。もちろん、好きに生きろと放り出す訳ではありません。新しい世界で生きやすくなるような力もプレゼントするのが慣例です』
え、いいんですか。やった! 生き直しだ。今度こそ卵を産むぞ!
生きやすくなる能力。私は潰されて死んだ。じゃあ潰されない身体とか?
いやいや果物の蜜を一瞬でちうちう出来る針とか。
いいかも! 血もいっぱい吸えそうだし。
『笑わせます。蚊を蚊に生まれ変わらせて異世界に送る? それこそ何の意味があるというのですか』
何の意味があるんですか?
『意味がないからそんなことはしないと言ってるんですよ!! 人間!! あなたは人間になるんです!!』
女神さまが地団駄踏んでる。うん、なんだろ。
私って、あれかな。えーと、えと。鵜飼い、うがい……。
私は頭の中から知識を引き出した。
ウザい?
『よくできました。あなたはウザいです』
えー、傷付く。ウザいって言うのをやめてください。
『あなたが言ったから――』
女神さまはまた眉間に指を当てた。眼、ぎゅってつぶってる。
『――とにかく、あなたは、地球ではない場所で、人間に生まれ変わります。周りに迷惑をかけないように。自分は蚊ですーとか周りに言わないように。不審に思われないように。人にはていねいに喋ること。よく学び、よく生きること。数年は自由に動けないでしょうから、その間に貴方に入れた知識をしっかり自分のものにしておくこと。いいですね』
質問いいですか?
『い・い・で・す・ね?』
質問、ダメみたい。どんな力が貰えるのか知りたかったんだけどな。
『自分で確かめてくださいっ!』
女神さまは私をその細い指で捕まえて、扉を開けて、その向こうにぺっと放り出した。
何だろう、この空間は。暗くて夜みたい。上も下も分からない。
飛ぼうとしたけど、その必要もない。何もしなくても私はふわふわと浮いている。
私のしましまの脚が、先から光の粒になっていく。
なんだか気持ちいい。もしかしたら転生なんかじゃなくて、このまま消えちゃうのかなあ。
ああ、それにしても。
私は女神さまのほんのりピンク色のお肌に思いを馳せた。
女神さまの血、吸いたかったなあ――。
気が付くと私は、ふわふわとしたものに包まれていた。
二本の、小さな人間の手が見える。
いや、違うな。
私は頭から適切な単語を引き出した。
これは、おててだ。
前脚で宙をかくつもりで動かすと、おててがゆれた。
小さな指、ふくふくした手首。
私はおててで自分の顔を触る。柔らかい、もちもちした肌。
人間の肌だ。
私、人間になったんだ。




