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9、社長を好きにならない理由

 わたしの隣の席に座る溝口さんが、こっちを向いて意外そうに尋ねてくる。

「え? どうして?」

 わたしは持ち上げかけたグラスを置いて答えた。

「だって、わたしが国館社長に“付き合ってください”って言ったら、今回のことを負い目に感じて、わたしのことが好きでもないのにOKしてくれそうじゃありません? 恩をかさにきてお付き合いを迫るのはフェアじゃないと思うんで、残念ですけどこのチャンスは見送らなくちゃならないなぁって」

 ホント残念だよ。気弱だけどイケメンで真面目で社会的地位もある、滅多にお目にかからない優良物件をみすみす逃さなくちゃならないなんて。でも、他の人を追い払っておきながら、その役目にかこつけてズルするわけにはいきません。

 溝口さんの対面に座る田端部長が、生ビールのジョッキを持ち上げながら苦笑した。

「美樹ちゃんって、若いのに潔いものの考え方するね」

「潔いですか? ただ感情を抜きにして事実だけを並べていけば、物事は単純だってわかってるだけですけど」


 物事を単純に捉えることができれば、自分の取るべき道が見えてくる。取るべき道がはっきりしてしまえば、感情に振り回されることなく前に進むことができる。


「まだ若いのに、美樹ちゃんってばどーしてそんなに達観しちゃうようになったの?」

 溝口さん、ちょっとろれつが怪しいな。まだ一杯目を半分くらいしか飲んでないのに。それはともかく、何か余計なことを言い過ぎたみたい。わたしもちょっと口が軽くなってるみたい。気を付けなきゃ。

 何と答えたらいいか迷っているところに、注文してあった料理が運ばれてきた。和風ドレッシングの大根サラダと野菜たっぷりの生春巻。野菜が食べたいと主張した私と溝口さんのリクエスト。

「最初に四等分しちゃっていいかな?」

 田端部長に言われて、わたしは恐縮して小さく頭を下げる。

「あ、はい。ありがとうございます」

 男の人に取り分けてもらえるとは思わなかった。部長は手際よく取り皿に大根サラダを分けると、「はい、どーぞ」と言ってわたしに一皿差し出してくれる。溝口さんと国館社長は各々勝手に皿を取る。何か慣れてるな。三人でよく飲みに来てるっぽい。

 空になった大根サラダの皿をテーブルの隅に置くと、部長は真ん中に生春巻の皿を置いた。

「生春巻はソースの好みがあるから、ここから直接取ってね」

 ホンット、慣れてるわ。……営業部長なだけに、接待上手?

 ともあれ話が中断したおかげで、わたしはどうやって話題を逸らすか考えなくてもよくなった。



 それから楽しく飲んだり食べたりした後、八時には店を出て、国館社長の車で送ってもらえることになった。

「粕谷さん、すみません。教えていただいた住所だと溝口さんのマンションのほうが近いんで、先に溝口さんを送らせていただいていいですか?」

「はい、いいですよー」

 助手席に収まったわたしは、シートベルトを締めながらご機嫌に言う。

 後部座席に乗った溝口さんは眠っちゃって、田端部長の肩にもたれかかってる。

「ごめんね、美樹ちゃん。美樹ちゃんへのお礼に飲みに行ったのに、こいつ先に潰れちゃって」

「気にしないでくださいよー。溝口さん、わたしが遠慮しなくていいように、一緒に注文してくださったんですから。それより、大丈夫そうですか?」

 溝口さんがアルコールにあんまり強くないと、酔い潰れちゃってから聞かされてちょっと反省。弱いかな? と気付いてたんだから、「わたしも注文するから美樹ちゃんもどう?」という言葉に甘えて、調子づいて注文しなきゃよかったのよね。

 後部座席を振り返ったわたしに、部長は気にしなくていいというように苦笑した。

「美樹ちゃんに付き合って注文したとしても、二杯目からノンアルドリンクにすればよかったんだ。そうしなかったこいつの自業自得。それより、美樹ちゃんは大丈夫? こいつよりたくさん飲んでたと思うけど」

「大丈夫ですよー。わたしはどんなに飲んでも悪酔いしないし、記憶飛ばないし、翌日二日酔いにならないことが自慢なんです~」

 それから運転している社長のほうを向き、一応申し訳なく思いながら謝った。

「すみません。調子に乗ってたくさん飲んじゃって。……やっぱりわたし、自分の分を払いましょうか?」

 お財布キビしいけど、遠慮なく飲み食いしちゃったからね。店内でも何度か言ったけど、再度言わずにいられない。けど、それに対する社長の返事は変わらず。

「このくらいのお礼じゃ足らないくらいですよ。ところで、本当にお詫びのほうは受け取ってもらえないんですか?」

「お詫びだなんてとんでもないです! 頬のほうは赤みも残らなかったですし、社長がおっしゃるほど危ないこともなかったんですから」

 強く辞退すると、社長は口の中で何事か呟く。独り言のようだったので聞き返せずにいると、車は幹線道路から外れ住宅街に入った。いくつか角を曲がり、あるマンションの正面玄関側で車を停める。レンガのアーチと両開きの自動ドア。暗いから外観はほとんど見えないけど、ちょっとお高めな雰囲気。溝口さん、いいところに住んでる。

「ほら、ちょっと起きろ」

「んー……」

 先に降りた田端部長は、引っ張るようにして溝口さんを降ろそうとする。

「和弥、帰りは?」

「いい、いい」

「わかった」

 寝ぼけてる溝口さんを降ろすと、田端部長はもう一度車の中に顔を入れる。

「美樹ちゃん、今日は本当に助かった。ありがとう。おやすみ」

「おやすみなさーい」

 国館社長とは「おやすみ」と短く挨拶を交わして、扉を閉めた。

 サイドミラーで安全確認をした後、国館社長は車を発進させる。


 車が走り出してしばらくして、わたしは「ふふふ」と笑い出した。

「どうしたんです?」

 ちょっと驚いたように尋ねてくる国館社長に、わたしは嬉しくてたまらなくてぺらぺらと喋った。

「田端部長、溝口さんの部屋にお泊まりなんですねー。ちょっと前に喧嘩なさってたっていうし、今日も何度か言い合いをされてたから心配してたんですけど、“喧嘩するほど仲がいい”ってヤツですか?」

 わたしもちょっと酔ってるみたい。初対面の人たちのことをあれこれ言うのは失礼と思いながらも、ついつい口を開いてしまう。

 社長は少し間を置いたあと、ためらいがちに話し始めた。

「溝口さんは、和弥の仲介で先ほどのマンションを購入したんです。その手続きや偶然何かが重なるうちに付き合うようになったんですが、その、溝口さんはちょっと男性の心理に疎くて、和弥の反対を押し切ってある男性と二人きりで食事に行ってしまいまして。そうしたら和弥が言うところ案の定、その男性は溝口さんを酔わせてその……ホテルに連れ込もうとして、それを和弥が助けたんですが、溝口さんは酔った時のことを覚えてなくて、その男性がホテルに連れ込もうとしたことを信じようとしなくて、それに腹を立てた和弥は仲裁に入ろうとした僕まで疑う始末で、一時期別れてもおかしくないくらい二人の仲が険悪になってしまったんです。その後何とか仲直りをしてくれて、溝口さんが問題の男性との関わりを断つためもあって勤めていた会社を退職したんです。それで僕たちの会社に正社員として勤めるようになったのですが、その矢先に和弥が知人の頼みごとを軽々しく引き受けていたことがわかりまして。それで僕が代わったんですが、粕谷さんまで巻き込むことになって申し訳ない」

 苦労してるなぁ、社長も。

「ふふっ」

「粕谷さん?」

「あ、ごめんなさい。苦労してらっしゃるなぁと思いまして。わたしのことは気になさらなくて大丈夫ですよ。今回みたいなことには慣れてるんです。当事者でもないから気楽なものですよ。むしろ、持論を実践できる日が来るとは思わなくて、すっごく嬉しかったんです。四人目さんの時は上手くできなくて、社長に助けられましたけど」

 ホント、社長が来てくれなかったらどうなってたことやら。三人目さんもころっと参ってしまったように、社長ってばホント、タラシの素質があるかも。失礼だから口には出さないけど。

 新たな笑いがこみあげてきて、わたしは両手の指の先で口元を押さえた。そうしているうちに、不意に社長の視線に気付く。

 信号待ちで車を停めた隙に、社長はわたしのほうを向いて奇妙な表情を浮かべていた。あれ? わたし、変なこと言ったっけ?

 自分で思ってる以上に酔ってるかも? わたしはこれ以上ボロを出さないよう、会話を締めくくって黙っておくことにした。

「要するに、社長はいい人ってことです。うーん、やっぱり社長にアタックできないのは残念! あ、女の人たちを追い返しておきながらわたしが言い寄るなんて真似しませんので、その点は安心してください」

 信号が変わったので、社長は車を発進させる。スピードに乗ったところで、思い切ったように話しかけてきた。

「僕にはわからないんです。何故彼女たちが僕を追いかけて、オフィスにまで来てしまうのか」

 それを聞いて、わたしは目をしばたたかせる。


 何でわからないの? と一瞬思ったけれど、迫られておろおろしていた社長を見てるから、それも仕方がないのかもと思い直す。

 普通他人から好意を寄せられた場合、相手のことがよっぽど嫌いでない限り、それなりに嬉しかったりするもんじゃない? けど、社長は全然嬉しくないらしい。態度からして、相手が嫌いだからというわけでもなかった。好意に困惑し、自分がそれに値する人物だという自信が持てないでいる。

 イケメンで長身で、おまけに社長という立派な肩書きを持っている。そんな人が、どうしてこんなに自信のない人になっちゃったの?


 知り合って間もないわたしが、そんな踏み込んだことを尋ねていいわけがない。

 だから、やっぱり言えることはこれしかなかった。

「イケメンで長身で、おまけに社長っていう社会的地位があるからに決まってるじゃないですか。こんな優良物件、そうそうお目にかかれるもんじゃないですよ。おまけに人柄もいいときてれば、逃さない手はないでしょう。あの方たちがオフィスにまで押しかけてきたのは、きっと他の連絡手段が手に入らなかったことと、ライバルに先を越されまいと必死になりすぎちゃったからなんでしょうね」

「……あの方たちはわかってないんです。僕が自分に自信を持てないヘタレだと知ったら、きっとゲンメツするでしょうね」

 それについては否定できない。わたしもゲンメツまではしなかったけど、がっかりはしちゃったもんね。でも。

「ゲンメツされたとしても、傷つくだけ無駄ってもんです。社長が本当にゲンメツに値するほどのヘタレだったとしたら、田端部長は社長に社長職を譲るどころか、それ以前に共同経営者にもならなかったと思いますよ? 溝口さんにしてもそうです。ご自宅のあるマンション、結構お高そうですよね? そういうマンションに住めるだけの給料を出してくれる会社を、そう簡単に辞めることなんてできません。だって、それまでの生活水準を維持できる保証がないですから。でも溝口さんは、社長を信じて会社を移ってきた。──ね? こうして社長の身近にいるお二人の事を見ただけでも、社長が信頼に値する人だってことがよくわかります。ゲンメツするほうがおかしいですよ。その人は社長の事をろくに見ずにそう言ってるって断言できます。──あ、そこの角で停めてくださいますか? この先は細くてごちゃごちゃしてるんで、歩いて帰ります」

「いえ、夜も遅いですからご自宅の前までお送りします。酔ってらっしゃるし、夜道の一人歩きは危険ですよ。その角をどちらに曲がればいいですか?」

「あ……左です」

 わたしが答えた時には曲がり角は目の前で、社長はスムーズにハンドルを切って乗用車が二台すれ違うのが精一杯の路地に入っていく。

「道を案内してください」

 他人のためなら強気に出られるのに、いざ自分のこととなると強く出られない。社長って、損な性分よね……と思いながら、わたしはアパートまでの道を案内した。


 何度か角を曲がってもらって、わたしが住んでる二階建てアパートの前に到着する。

 国館社長は車を止めて尋ねてきた。

「粕谷さん、スマホに僕の連絡先を登録してありますか?」

「はい? ええと……」

 社長の連絡先? 登録も何も、教えてもらった覚えが……。

 わたしが首を傾げていると、ポケットからスマホを取り出しながら言う。

「粕谷さんもスマホを出してください。赤外線受信はできますか?」

「あ、はい」

「受信できるように操作してください」

 訳がわからなかったけど、社長相手なら断るまでもないかと思い、言われた通り操作する。すると、社長はわたしのスマホに自分のスマホを突き合わせてデータを送ってきた。

「僕のスマホの電話番号とメールアドレスです。何かあったら必ず連絡をください。すぐに助けに行きますから。……どうかしましたか?」

「普段もこれくらい強気に攻めましょうよ。元がいいんですから、ヘタレてるのもったいないですって」

 持ち上げたつもりだったのに、持ち上がったのは社長の自尊心ではなく眉尻だった。

「ふざけないで真面目に聞いてください。あなたが名刺を渡した方が、名刺を利用して何かしてこないとも限らないんですよ? 何度も申し上げますが、ちゃんと自分の身の安全を考えてください。僕がどれだけ守ろうとしたって、最後の最後に粕谷さんを守れるのは、粕谷さん自身でしかないんですよ?」

 自分のために怒ってくれる人がいるって、いいなぁ。でも、わたしだって危機管理くらいしてるんだけど。

「そんなこと、わかってますってぇ」

 へらへら笑いながら答えると、社長は眉間に深い皺を寄せた。

「……酔ってますね?」

「ちょっとだけです。ちゃんと正気はありますから、安心してくださいよぅ」

 国館社長は顔に手のひらを当てて項垂れる。ろれつがちょっと怪しいのに“安心してください”って言ったって無理な話か。

 わたしは社長に手間をかけないよう、そそくさと車から降りた。

「それじゃ、今日はごちそうさまでした!」

 社長は助手席のほうに身を乗り出して、路上に立ったわたしに声をかける。

「部屋に電気がつくまでここにいますから」

「何だか恋人同士の会話みたいですねっ」

「は?」

 あ、いかんいかん。ちょっと自制の箍が外れかかってるかも。わたしは慌ててごまかした。

「冗談です、冗談。ホント、大したことしてないのにオゴってもらっちゃってすみません。おやすみなさい」

 その時、社長はふっと苦笑した。

「……おやすみなさい」

 うわ~“しょうがないな”って言いたげなその笑み反則。愛されてるって勘違いしちゃいそう。わたしは赤面してしまっただろう顔を、出来るだけ見られないように会釈する。車の扉を閉めて、そそくさと外付けの階段を上がり、常備灯でほのかに照らされた二階廊下の途中で立ち止った。まだエンジンをかけようとしない。車内暗くてわからないけど、もしかして見てるのかな?

 不意にいたずら心が沸いてきて、わたしは手すりに寄りかかって社長の車に手を振る。それから部屋の鍵を開けて扉を開き、振り返ってもう一度手を振ると、中に入って静かに扉を閉めた。

 手探りで電気を付け、パンプスを脱いで部屋に上がる。ジャケットを脱いでハンガーに掛けている時、車が遠ざかっていく音が聞こえた。

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