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23、告白

 国館社長ってば、またどうしちゃったの?

 昼間「送ります」と言ってなかなか退いてくれなかった社長が、その日の夕方迎えに来てくれた時にはどこか浮かない顔をしていた。

 車が車道の流れに乗ったところで、わたしは探るように訊ねてみた。

「どうかしたんですか?」

 社長は驚いたように一瞬わたしのほうに目を向け、すぐに運転に集中しなおす。それからおそるおそるといった様子で訊ね返してきた。

「……顔に出てましたか?」

「顔っていうか……全体的に?」

 やっぱり何かあったらしい。聞くに聞けない雰囲気を感じ取って慎重に訊ねると、社長は「夕食を食べてから話します」と言って黙り込んだ。



 さぞかし気まずい夕食になると思いきや、ことのほか楽しかった。


「いーにおい!」

 社長の部屋に入ったわたしは、大きくにおいをかいで喜ぶ。これよ、これ! カレー専門店はもちろん、コンビニカレーやレトルトカレーだって美味しいけど、家カレーには格別なものがある。

 洗面所に寄ってからキッチンに向かう社長に声をかけられた。

「早速食べましょう。運ぶのを手伝ってください」

「はーい。その前に洗面所をお借りしまーす」

「はい、どうぞ」

 すっかりお馴染になったやりとりに、社長の声も柔らかくなる。


 手洗いうがいを済ませてキッチンに向かうと、社長はカレーを温め直しながら冷蔵庫から取り出したサラダの器からラップを外しているところだった。

「マヨネーズと和風ごまドレッシングと、どちらがいいですか?」

「ごまドレッシングで!」

 即答すると、社長は笑いをこらえながらごまドレをカウンターの上に置いてくれた。


 パスタの時にもフレッシュサラダをつけてくれたんだけど、社長が愛用してるごまドレがすっかり気に入っちゃったのよね。でも「使い切らずに途中でダメになっちゃいそう……」と呟いたら、「だったらウチに来て食べればいいですよ」と言われてしまった。

 それが口説かれてるのか単なる親切だったのかわからず、反応に困ってしまったのを覚えてる。そんなわたしを見てうろたえたところをみると、単なる親切だったみたいだけど。


 サラダとカレーライスをテレビの前のテーブルに並べ終えると、わたしと社長は並んでソファに腰掛けた。

「いただきます!」

 と言って、わたしは真っ先にカレー皿を手に取る。膝の上まで持ってきてひと匙すくって口に入れると、社長はおずおずと聞いてきた。

「どうですか? 粕谷さんから聞いた通りに作ってみたんですが……」

「おいしーです。ウチのカレーにそっくり。なつかしー……」

 口の中のものを呑み込んでから、わたしはしみじみ言う。


 家カレーって、まさに“家庭の味”だよね。どんなに美味しいカレーを食べても、それとは別で食べたくなっちゃう。一人暮らしを始めた当初、わたしも作ってみた。だけど、一人分だと味が違うような気がしたし食材が余って困ってしまう。多めに作れば、毎日食べる羽目になって飽きてくるし冷凍庫に一旦しまって解凍したカレーはあんまり美味しくない。仕事が忙しかったこともあって、そのうち作らなくなっちゃったんだ。

 もう二度と食べることないかもと悲観さえした、家カレー。もう一度食べることができて、大げさだけど嬉しくて目が涙でにじんでくる。


 二口目を味わい始めると、社長はほっとしたように言った。

「喜んでいただけてよかったです。同じ食材を使っても、切り方や煮込み時間の違いで、こんなに味が変わるものなんですね」

「あの……社長のお口には合いますか?」

 間抜けた質問だけど、聞かずにはいられない。わたしの口に合わせてもらったことで社長が美味しく食べられなかったら申し訳ない。

 食べ始めていた社長は、口の中のものを呑み込んでから、わたしのほうを向いてにこっと笑った。

「僕が今まで作ってきたものより美味しいです。これからは、このレシピで作ろうかな……」

 社長も何故かしみじみ言う。わたしはこの時、特に理由を気にせず、社長と家カレー談議に花を咲かせた。


 話が楽しかったので忘れてしまっていたけれど、食器を片付け食後のコーヒーを淹れ始めた頃から、社長の口が重たくなった。その時になって、わたしは社長が「夕食を食べてから話します」と言っていたのを思い出す。

 コーヒーを淹れ終わってソファに座ってもだんまりだったので、わたしから切り出してみた。

「それで、車の中で言ってた話って……?」

「……今日、粕谷さんが会社に戻られた後、訪問客があったんです。──僕が、四年前に付き合っていた人でした」



 社長は長身でイケメンで、何気にお金持ちだからモテないはずはないと思ってた。

 でも、社長の口から過去の恋愛話が出てくるとは思わなかった。失礼な話だけど、気弱だった社長が過去に女性と付き合っていたなんて、想像したこともなくて。

 だから社長の“付き合っていた人”という発言には少なからず衝撃を受けたけれど、社長の話はもっと衝撃的だった。


「荒倉志乃子さんというのですが、彼女はかつての同僚でした。美人で、販売成績がよければ同僚に妬まれそうなものでしたが、人柄のせいか逆に人気がありました。営業部のほとんどの男性が、彼女にあこがれていたと思います。──僕もそんな一人でした。なので、彼女から付き合おうと言われた時は信じられないくらいで、僕は二つ返事でOKしました」


 胸が痛んできた。これはどういう話なの? 口が重くて気まずげだった様子を思い出すと、嫌な予感しかしなくて辛い。

 それでもわたしは、黙って話を聞いていた。


「しばらくは良好な関係を続けられたと思います。ですが不動産業界にも不況の波が押し寄せてきた頃、彼女から打ち明けられたんです。僕の子どもができた、と」


 心臓に杭を打たれるような衝撃が走った。

 付き合っていたなら驚くようなことじゃないけど、社長が女性とそんなに深い仲だったと聞かされて、目の前が真っ暗になるほどのショックを受ける。


「あ……、そ、そうなんですか……?」

 気が動転して間抜けな相槌を打つと、社長はちょっと慌てて言った。

「あっ、いえ。結果的には嘘だったんです。和弥に相談したら、“嘘臭いから、結婚を決める前に検診に付き合わせてくれ”と言うようアドバイスを受けて。何度か押し問答をした末、彼女の嘘がはっきりしました。和弥は、“不況になって販売成績が落ちてきたから、今のうちに結婚してしまおうと思ったんだろう”と言っていましたが、僕もそういう思惑があって彼女は嘘をついたんだと思いました。そのことがあって、僕は彼女と別れようと思いました。ですが彼女は別れるつもりはないと言い張り、自分の思惑を邪魔した和弥を攻撃したんです。──詳しいことは言えませんが、和弥はプライドをずたずたにされました。和弥を傷つけることになって、僕は心底、彼女と付き合ったことを後悔したんです」


 両膝に肘をついて項垂れる社長を、わたしは慰めることもできずに見つめた。

 それでだったんだ。社長のことを話すときの田端部長が、やけに自嘲気味だったのは。

 実際何があったのかわからないけど、知る必要もないと思った。社長は部長に恩を感じ、かけがえのない人だと思ってる。そのことさえ知っていれば十分だと。


「和弥は、一度は離れていこうとしましたが、僕が本気で彼女と別れたいと思っていると知ると、手助けのために戻ってきてくれました。そして彼女が何を言っても別れを承諾しないとわかると、和弥は“会社を興そう”と提案してくれたんです。当時すでに、国館建材の前身に当たる取引を始めていました。それを元に会社を立ち上げ、勤めていた会社を退職しようと。これには彼女も激しく反対しました。でも退職願が会社に受理されると、彼女はさっさと僕に見切りをつけたんです。──僕が稼ぐ見込みがなくなったら去っていくだろうという、和弥の読みは当たりました。それでもう、彼女とのことは終わったと思ってたんです。ところが彼女は、顧客から国館建材の噂を聞きつけて、再び接触してきました」


 わたしはふつふつと闘志が湧き上がってくるのを感じた。

「大した儲けにならないと思っていた会社が上手くいってるって聞きつけて、社長のことが惜しくなったというわけですね」

「……そうです」

 じゃあその女も追い払ってあげようじゃないの!

 そう言おうと息を吸い込んだ瞬間、社長が頭を抱えるのを見て、わたしはそのまま呼吸を止める。


「彼女は目的のためなら手段を選びません。……僕は、好きな人がいると言ってしまいました。下手に隠せば、彼女はあなたが僕の最大の弱点だと気付き集中的に攻撃してくるでしょうから。ですが、今は言うべきではなかったと反省しています。あなたへの想いを諦め、あなたを遠ざけることこそが、あなたを守る唯一の手段だったと……」

 社長の声は震えていた。額から目元まで両手で覆った姿は、まるで泣いているようで。

 昔彼女がいたという社長の告白より、わたしは衝撃を受けた。


 わたしは、これまで社長の何を見てきたんだろう。

 わたしの過去を知ったら、社長は離れていくと思った。わたしに幻滅し、わたしに交際を申し込んだことを後悔すると。

 でも、社長もわたしと同じような傷を抱えている人だった。ひとたびその傷が開けば、自分は好きな人と付き合うべきではないと苦悩する人で。

 そんな傷を抱える社長が、他人の傷に幻滅するはずがない。

 社長がわたしに向けてくれている気持ちは、そんな程度のものじゃない。


 それでも確かめずにはいられなくて、わたしは淡々と言った。

「それで、社長はわたしのことを諦められるんですか? 諦められるなら、今日で最後にしましょう」

 社長ははっと顔を上げた。わたしに向けられた縋るような目は、諦めたくないと訴えかけてくる。

 あらら、情けない顔。先週に逆戻り? まあ、人はそう簡単に変われるものじゃないものね。

 しょうがないなぁ……。

 わたしは苦笑して言った。

「社長が『諦めた』と言っても、そんな顔してたら誰も信じませんよ。だから社長が、わたしに包み隠さず正直に話してくれたことは正解だったんです。おかげで、その女性と対決する心構えができました」

 社長は“とんでもない”と言うようにかぶりを振った。

「荒倉さんのことまで、粕谷さんにお願いするわけにはいきません。あの自信にあふれている和弥のプライドをずたずたにしたくらいなんです。今和弥と、溝口さんにも加わってもらって対策を練ってますから」

「それで、有効な対策は講じられそうですか?」

「……」

 気まずげに視線を逸らし押し黙る社長に、わたしはまた苦笑した。

「その荒倉さんって人がどういう手で仕掛けてくるかわからないから、対策も講じようがないんじゃないですか? ともかく、わたしのところに来たら思いっきり返り討ちにしてあげます」

 何でもないことだとわかってもらうために、敢えて陽気に言ってみたけど、社長には通用しなかったみたい。またもや項垂れて、しおしおと謝る。

「すみません。何から何まで、粕谷さんにご迷惑を……」

 迷惑だなんて思っちゃいない。だからわたしは、自分の口元を指先でとんと叩きながら茶目っ気を出して言う。

「迷惑ついでに、その人も追っ払ってあげます。だ、だから、その代わりにキスしてくれませんか?」


 言いなれない言葉にどもってしまう。大胆すぎたかな。顔を上げた社長も、びっくりして呼吸まで止めちゃってる。

 失敗したかなと思うのと同時に、そんな風に遠回しに言わなくてもよかったことに気付いた。“付き合ってください”って言えばいいだけのことだったじゃない。わたしの馬鹿。


 わたしは照れ笑いをして訂正しようとした。

「ごめんなさい。今の──」


 続きの言葉は口にできなかった。


 力強く引き寄せられたかと思うと、顎に手がかかって上向かせられ、唇を塞がれる。

 社長の飢えをダイレクトに伝えてくる、激しいキスだった。初めてキスする相手にこれってどうよ? と思わないでもなかったけど、嬉しい。わたしもずっと欲しくて仕方なかったから。


 社長の薄い唇は、意外に柔らかかった。


 ようやく社長の唇が離れていった時、わたしはあえぐように呼吸をしていた。そんなわたしをふんわりと抱きしめて、社長は言う。

「ありがとう……」

 深く沁み入るような声音だった。こんな風に言われてしまったら、もう撤回できないと思った。

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