第9話:戦いのあと、甘い毒と執着の味
ショッピングモールの結界がゆっくりと解かれ、夜の街に日常の雑踏が戻り始めていた。
数千という妖を屠ったとは思えないほど、現場は静まり返っている。九条家の術師が張った「帳」の効果で、一般人には何一つ異変は伝わっていない。
一仕事を終えた私たちは、夜風を浴びながら帰路についていた。
街灯が点々と続く夜道、私の一歩後ろには白耀が、影のように寄り添っている。そして、さらにその五メートルほど後ろからは、父さんとお兄ちゃんが、猛烈な殺気と心配を隠しきれない「抜き足差し足」で尾行するように付いてきていた。
「……ねえ、二人とも。隠れてるつもりだろうけど、霊気がキャンプファイヤーみたいにダダ漏れだよ?」
私が足を止めて振り返ると、父さんは細すぎる電柱の陰に無理やり巨体を隠し、お兄ちゃんは街路樹の細い枝の影に、不自然な格好で眼鏡を光らせながら固まっていた。
「ち、違うぞひより! パパはただ、夜道は物騒だから、こうしてパトロールという名の護衛をしているだけで……!」
「そうだよひより。万が一、その『不潔な野獣』が君に牙を剥くようなことがあれば、即座に五体満足ではいられない封印術を叩き込めるよう、安全な射程距離を保っているだけさ」
お兄ちゃんが眼鏡をクイと直しながら、手に持った呪符をパラパラと弄ぶ。その瞳には、かつてないほどの冷徹な光が宿っている。
当の白耀は、そんな二人を完全に無視して、私のすぐ横を涼しい顔で歩いていた。彼の銀髪が夜風になびくたび、清涼な、けれどどこか心臓をかき乱すような香りが私の鼻先をかすめる。
「ひより。初仕事、見事だった」
白耀が、不意に私の名を呼んだ。その声は先ほどの戦場での冷たさとは一変し、深い慈しみを含んでいる。
「お前の拳は、我の想像以上に我の力と馴染んでいた。……十年間、お前の目を封じ、力を隠してきたのは我だが、まさかこれほどまでに我が力に順応する器だとは思わなかったぞ。やはり、あの日お前を選んだ我の目に狂いはなかった」
「……ありがとう。でも、あんなにすごくなるなんて自分でもびっくりした。私、ただ夢中で、お父さんに教わった通りに突きを出しただけなのに……」
自分の右拳を見つめる。
今はもう、あの時の黄金の奔流は静まり、指先には戦いの余韻がじんわりと残るだけだ。けれど、白耀が隣にいるだけで、体の奥底にある「栓」がいつでも外せるような、全能感に近い確信があった。
「お前の『突き』は、ただの技術ではない。我への信頼、そして生きたいと願う魂の叫びだ。……くくっ、あの過保護な男たちの術より、よほど我の肌に合う」
白耀が勝ち誇ったように笑う。後方で「誰の術が肌に合わないんだ!」「今すぐ舌を引き抜いてやろうか!」という怒号が聞こえたが、彼はそれすらも心地よいBGMであるかのように聞き流した。
商店街を抜け、人影がまばらになった公園の脇に差し掛かった時、白耀が不意に足を止めた。
「……白耀?」
「ほう。ならば、褒美をやらねばな」
月明かりが、彼の白磁のような肌を青白く照らし出す。
金色の瞳に吸い込まれそうになり、私は思わず息を呑んだ。次の瞬間、視界がぐるりと回る。
「……っ!?」
白耀が私の腰に手を回し、強引に自分の方へ引き寄せたのだ。
抵抗する間もなかった。彼の腕は驚くほど細く見えるのに、万力のような力強さで私の体を固定する。至近距離。彼の吐息が私の頬にかかり、心臓の鼓動が耳の奥で爆音を鳴らす。
「褒美って……?」
震える声で問い返すと、白耀は妖艶な笑みを浮かべ、私の首筋に顔を埋めた。長い銀髪が私の肩にかかり、くすぐったい。けれど、それ以上に、彼から発せられる圧倒的な執着が、私の肌をチリチリと焼いた。
「こういうものだ」
低い、熱を帯びた声が耳元で響く。
「……お前の魂は、すでに半分は我のもの。その事実を、肉体に刻んでおけ」
首筋に、冷たい、けれど熱い唇が押し当てられる。
吸い上げられるような感覚。痛覚よりも鋭い「快感」のような衝撃が背筋を駆け抜け、私は彼の胸板に手を置いて支えるのが精一杯だった。
「な、ななな……なっ!!」
私の叫びよりも先に、背後から「絶叫」という名の爆辞が響き渡った。
「ぎゃあああああああ!! 貴様っ、何をしている!! ひよりの聖なる首筋に、その毒々しい唇を寄せるなああ!!」
「……万死。九尾、君という概念そのものを、この宇宙の摂理から抹消してやる……!!」
父さんが絶叫しながらお札を文字通り「散弾銃」のように展開し、お兄ちゃんに至っては九条家禁忌の印を、指が折れそうな速度で組み始めている。
白耀は私を抱き寄せたまま、満足げに目を細め、後方の二人を冷ややかに見据えた。
「くくっ、騒がしい連中だ。ひより、次は家のベッドで続きを……」
「白耀! 変なこと言わないで! 紛らわしいから!!」
私は顔から火が出るほどの羞恥に耐えきれず、白耀を思い切り突き飛ばした。……といっても、彼は柳のようにひらりと身をかわし、私の指先を名残惜しそうに掠めて離れただけだったが。
ようやく九条家の玄関にたどり着いたとき、そこには仁王立ちで待つ母さんの姿があった。
暗い玄関先で、母さんの眼鏡(伊達だが、威圧用だ)が不気味に光っている。
「お帰りなさい。あらあら、パパも晴明も、顔が真っ青よ。何か恐ろしい化け物でも出たのかしら?」
「志乃……! 娘が、娘があの狐に、文字通り毒牙にかけられたんだ……!!」
「母さん、今すぐお風呂を沸かしてくれ! 妹を霊的に、かつ物理的に洗浄しなきゃいけないんだ!」
泣きつく二人を、母さんは「はいはい」と、まるで騒ぐ園児をあしらうように冷ややかにいなした。そして、私の首筋に残った「赤い証」を一瞬だけ見つめ、優しく、けれど絶対に逃げられない微笑みを白耀に向けた。
「ひより、お疲れ様。……白耀さんも、娘の初陣を支えてくれて感謝します。でもね、我が家には我が家のルールがあります。……玄関から先で娘に不埒な真似をしたら、その綺麗な尻尾、一本ずつ剥製にしてリビングに飾りますが、よろしいかしら?」
「……肝に銘じよう。お前の母親は、実に恐ろしいな」
あの不遜な白耀が、本日二度目の「真面目な顔での頷き」を見せた。
こうして、嵐のような私の初仕事は終わった。
自室に戻り、冷たい水で顔を洗う。鏡を見ると、首筋にくっきりと、九尾の刻印とも取れる赤い跡が残っていた。隠そうとしても、そこから微かに白耀の霊気が立ち上っているのが分かる。
「……明日から、学校行けるかな」
窓の外を見ると、私の部屋のすぐ前の屋根に、白耀が当たり前のような顔で腰掛けていた。
彼は月を見上げながら、長い尾をゆらゆらと揺らし、時折こちらを振り返って妖艶に微笑む。その瞳は、忠実な守護者のようでもあり、獲物を監視する略奪者のようでもあった。
九条家の物理祓い師。
私の本当の戦いは、そしてこの「重すぎる狐」との共同生活は、まだ始まったばかりだ。




