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第1話:あの日、神社の境内で

現代の喧騒がすぐそばにありながら、そこだけ時が止まったような静謐な空気を纏う場所がある。

私の実家、九条くじょう家は、古くからこの街で「祓い屋」を営んできた。


「ひより、今日は学校で変なモノ、見なかったかい?」


夕食の食卓。父のじんが、大好物の肉じゃがを頬張りながら私に問いかける。父はクマのような大男だが、娘の私にはめっぽう甘い。


「ううん、今日も全然。お兄ちゃんの方は?」

「僕は大学の裏門に変な『這い出し』がいたから、サクッとお札で掃除しておいたよ。ひよりに変な虫がついたら困るからね」


そう言って爽やかに笑うのは、十歳年上の兄、晴明せいめいだ。秀才で顔も良く、家業の才能も抜群。私にとっては自慢の、そして少しばかり過保護すぎるお兄ちゃんだ。


「もう、お兄ちゃんたら。私にはあやかしなんて見えないんだから、襲われようがないってば」


私は苦笑いしながら、母・志乃しのが作ったお味噌汁を啜った。

そう。九条家は代々、霊力の強い家系だ。父も母も兄も、日常的に街に蔓延る低級な妖を退治している。けれど、私だけはなぜか、この十年間「何も見えない」普通の人として過ごしてきた。


でも、本当は知っている。

昔の私は、今の家族と同じように「あちら側」が見えていたのだ。


それは今から十年前。私が八歳の夏のことだった。


「あ、あっちの道、行ったことないや」


小学校の帰り道。いつも通る通学路が工事中だったこともあり、私はふと思いついて、古びた細い路地へと足を踏み入れた。

湿ったアスファ礼トの匂いと、蝉の鳴き声。迷路のような住宅街を抜けると、不意に視界が開けた。


そこには、地図にも載っていないような小さな神社があった。

朱色の鳥居は色が剥げ落ち、境内は枯れ葉で埋め尽くされている。けれど、なぜだろう。まるで見えない手で招かれているような、不思議な懐かしさを感じて、私は石段を登った。


『……クゥ、……クゥ……』


拝殿の脇。古ぼけた祠の陰に、一匹の白い狐が丸まっていた。

真っ白な毛並みは泥に汚れ、後ろ足には深い傷を負っている。その背後には、かろうじて見えるほど薄い、ぼんやりとした尾の残像が揺れていた。


「……お腹、空いてるの?」


当時の私は、妖と動物の区別もあまりついていなかった。ただ、目の前の小さな命が消えそうなことが悲しくて、ランドセルを放り出した。

中には、遠足の余りや買い食い用に持っていたおやつが入っている。


「これ、食べる? 鈴カステラ。甘くて美味しいよ」


私が一粒差し出すと、狐は警戒するように金色の瞳を細めたが、やがて弱々しく口を開けて食べた。


それからというもの、私は毎日その神社へ通った。

給食で出たコッペパンの残り、お小遣いで買った油揚げ、母さんに内緒で持ち出したクッキー。

「今日はね、算数で花丸をもらったんだよ」

「お兄ちゃんがね、また変な術の練習してたんだよ」


狐は喋らなかったけれど、私が話しかけるのを、いつも嬉しそうに尻尾を振って聞いてくれた。日に日に狐の毛並みは艶を取り戻し、汚れも消えて、雪のように美しく輝き始めた。


そして、季節が秋へと移り変わる頃。

その日は、ひときわ冷たい雨が降っていた。


「……あれ? 狐さん、いないの?」


いつもの祠の前に、彼の姿はなかった。

寂しくて、雨の中に立ち尽くす私の背後から、不意に低く、透き通るような声が響いた。


『人間の子よ。いや、九条の娘よ』


振り返ると、そこにはいつもの狐がいた。……けれど、何かが違った。

その背後には、大きく、美しく波打つ「九本の尾」が広がっていたのだ。雨粒が彼を避けるように弾け、周囲には黄金色の光が満ちている。


『お前の施しのおかげで、我の妖力は完全に回復した。……恩に着る。この礼は、必ずや果たすと誓おう』


「狐さん……喋ったの?」


呆然とする私に、九尾の狐は優しく鼻先を寄せた。


『しばらくは、離れることになる。だが案ずるな。時が来れば、再び迎えに来よう。……それまで、お前のその「清らかな目」は、我が預かっておく』


冷たい鼻先が私の額に触れた瞬間、意識が真っ白に染まった。

まるで深い眠りに落ちるような感覚。


次に目を覚ました時、私は自分の家のベッドの中にいた。

心配そうに覗き込む両親と、泣きそうな顔の兄。


「ひより! 良かった、神社で倒れてるのを見つけて……」


兄の声は聞こえる。でも、何かが決定的に違っていた。

いつもなら家の隅に見えていた「黒いモヤ」や、天井を散歩する「足の多い妖」が、どこにもいない。

世界が、ただの風景に変わっていたのだ。


あの日以来、神社は跡形もなく消え、私の前から妖も消えた。

まるで最初から何もなかったかのように。


「……ひより? どうしたの、手が止まってるわよ」


母さんの声で、私は意識を現代に引き戻した。


「あ、ごめん。ちょっと昔のことを思い出してただけ」


そう言って笑うと、兄の晴明が心配そうに身を乗り出してくる。


「もしかして、霊力が見えないのがやっぱり寂しい? 大丈夫だよ。ひよりは僕たちが一生守るから、そんな力なくてもいいんだよ!」

「もう、お兄ちゃんは大げさだなあ。私は全然気にしてないよ」


本当は、少しだけ寂しいけれど。

あの時の狐との約束も、夢だったんじゃないかと思う日もあるけれど。

私は、この温かな家族に守られながら、十八歳になった。


今日は私の、十八歳の誕生日。

外はあの日と同じ、綺麗な月が出ている。


「あ、牛乳切らしてたんだ。私、ちょっとコンビニ行ってくるね!」


その夜、何かに呼ばれるように外へ出た私の耳に、十年前と同じ「鈴の音」が聞こえてくるとは、この時の私はまだ知る由もなかった。

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