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「本当に大丈夫なのか」
白い息とともに心の声が漏れ出てしまう。
それに素早く反応した目の前の男は、こちらを睨みつけてきた。
「ここまで来て戻れると思ってんのか」
顎に髭を蓄えた男の口から鋭い舌打ちが放たれ、うっと声を詰まらせる。
ああ、最悪だ。三日前の自分を殴りたい。
今、ある一軒の家の庭に潜んでいる自分たちは、所謂、闇バイトだった。
度々、大学生活で遊んだりちょっといいご飯を食べるために、家庭教師や買い物の代行など、ちょっとした隙間バイトで小遣いを稼いでいた。今回もパソコンや携帯の操作が不得意だという女性からのヘルプバイトがあった。彼女に同行し、携帯の契約手続きをしているはずだった。
なのに、気がつけば学生証のコピーを取られ、銀行口座や携帯電話の番号や住所もすべて人質に取られてまい、あれよあれよという間に、強盗の助っ人になってしまっていた。
まさか自分は引っかからないだろうという慢心と、悪意の恐ろしさに気がつかず、簡単に人を信じた自らの愚かさと軽率さに、吐き出したくても吐き出せない溜息が胃を重く圧迫し、吐き気がする。
気持ち悪くなっていく胸元を擦っていると、後ろから溜息が聞こえた。振り返ると、ニット帽の男が溜息交じりに呟いた。
「安心しろ、この家の住人は留守が多い。一か月に一回、厄介な大型犬を連れてどっかに行く。定期的にとっかえひっかえ若い奴を連れ込んでる勝ち組で、上級市民だ。むしろ俺たちが高い税金を払ってやってるんだ、多少のオイタくらい許されないとおかしいだろ」
光の入っていない黒い眼は、どこに焦点が向いているのかよく分からない。黒い不織布のマスクをしているせいで、なんだか忍者にも見えるこの男は、たぶんベテランなのだろう。きっと、先頭で興奮状態の髭の男と自分は、トカゲのしっぽだ。現場と呼ばれたこの家まで送りだした黒い軽ワゴン車は少し離れた場所に停まっている。が、殿を務めているこの男はさっきから道路ばかりを気にしている。
逃走経路を頭に入れているように見える。いざとなったらニット帽の男は姿を消してしまうだろう。
ニット帽の男の言葉のニュアンスからは、住人は留守のようだが、本当かどうかも分からない。
自分はあまり走るのが得意ではない。もし住人がいた場合、騒ぎになってしまったら、逃げ遅れるのは確実だ。捕まってしまえば、一巻の終わりだ。自分は今年で19歳だ。一昔前なら、19歳は少年法の範囲内となり、名前を公表されないのだろうけど、今は違う。18歳からは成人と同様に実名を公表されてしまう。
山口の田舎から出てきた自分は、きっとSNSで恰好の的だ。故郷は小さな町だからすぐに噂が広がり、両親はもちろん、兄や姉たち、親戚も白い目で見られるんだろう。
都心の大学に行くのを寂しそうに見送ってくれた母の顔が浮かんで、吐き気が強くなる。
「時間だ」
髭の男が立ち上がった。吐き出し窓へおもむろに近づくと、ポケットから缶を取り出す。
反対側のポケットから筒状の何かを取り出し、缶の上にセットした。男が筒の部分を窓の鍵部分に向ける。ぼっという音とともに、青い炎が噴き出した。
窓ガラスを燃やしてどうすんだよ。そんなので溶けるわけないだろ。
みんな寝静まった暗闇に、轟轟とガスバーナーが炎を噴き出す音がやけに響いている気がして、物音がしないか周囲を見回し、首を戻した時には窓ガラスに罅が入っていた。
「すげ、まじかよ」
髭の男は驚きと興奮を隠さずにそう呟き、軍手をはめた手でまたポケットを探り、今度は金槌を取り出すと釘でも打つように窓ガラスを軽く叩いた。すると、あっけないほど簡単に砕けて穴を開けた。
鍵を開け、窓を開き、乱暴にカーテンを横に引いて、髭の男が中に入る。背中を小突かれ、しぶしぶ隠れていた植木鉢の陰から進み出る。開け放たれた窓、微かに揺れるカーテンの向こうはリビングだ。ソファや机など、生活が垣間見える。目の前にあるフローリングを土足で踏むのは気が引けた。もう一度、先ほどよりも強く背中を小突かれ、仕方なく右足を踏み入れる。靴底でガラスの砕ける感触が、こちらを非難した。
先陣を切る髭の男は、すぐさまリビングに置かれていた収納棚を下から順番に開けている。
物を探すときは下の引き出しから探せと指示されていたからだ。
持たされていた金属バットを脇に挟み、リビングを進む。
窓から差し込む光でわずかに青白く照らされているリビングの輪郭を頼りに、布張りのソファを避け、カウンター上になっている壁を回り込む。
どうやらキッチンのようだ。奥に進むとカレーの良い匂いがした。
コンロの上に、蓋の閉まった大きな白い鍋が置いてある。
ああ、母も高校生の頃、よくカレーを作ってくれたな。
鍋の蓋を持ち上げようと、小さな黒い取っ手を掴もうとして、リビングから物を落とすような鈍い音がして、ハッと手を引っ込める。
現実逃避にもほどがある。溜息を小さく吐き出した。とりあえず、フリだけでもしておこう。
キッチンにお金など隠しているはずはないだろうが、探しているふりをしたい一心で、コンロの真後ろにある冷蔵庫に触れる。いや、流石に冷蔵庫を開けたらおかしいだろう。光るし。仕方なく冷蔵庫の隣にある棚を順番に開けてみる。
暗くてよく分からないが、細長い瓶がある。軽く持ち上げてみると、乾いた細い棒が瓶の中を転がる感触。おそらくパスタのようだ。静かにおいて、手探りで探す。四角い箱は電子レンジか、それとも炊飯器か。さらに下の棚を開ける。と、がさりと予想だにしない大きな音がして、体を強張らせる。何かが崩れそうになっているようだ。米の袋か? とりあえず押し戻そうと、手で支えると、粒状のものが入っているようだが、米粒よりももっと大きい粒だ。しゃがんで顔を近づけると、鰹節のような、嗅ぎ慣れない臭いがした。目を細めると、ようやく暗闇に目が慣れてきたのか、警察犬でよく見るシェパードの絵がプリントされた大きな袋だった。そういえばニット帽の男が犬がいるとか言っていた気がする。かなりの量を食べるのか、持ち上げるのに苦労しそうな大きな袋だ。しかしあまり下手に触ると倒れてしまいそうな気配がある。小さな粒を辺り一面に撒き散らかしたら、興奮している髭の男に殴り殺されそうだ。幸い、リビングを物色するのに忙しいのか、こちらの音に気がついていないようだ。
静かに胸を撫で下ろし、そっと扉を閉めて、倒れてこないように押し込んだ。そっと扉から手を放してみる。倒れてくる様子はない。大仕事をした気分で額に浮いた汗を袖で拭い、再び体を反転させる。
曇りのないガラスのように磨かれたシンクと向き合い、あたかも金目の物を探しているように、引き出しを開けていく。当たり前だが、食器ばかりだ。先ほどニット帽の男が呟いていた通り、来客が多いのか一人暮らしの老人のわりに食器が多い。もしかしたら、奥さんがいて、もう亡くなっていて、その人の趣味だったりするのだろうか?
「おい」
びくりとする。ニット帽の男だ。リビングから奥の部屋に続くドアを細く開け、視線を外に向けたまま、手招きをする。静かに近づき、細い隙間から奥を覗く。ドアの向こうは寝室か何かかと思っていたが、廊下のようだ。
上に続く階段と、そのもっと奥、一室からオレンジ色の明かりが細く漏れ出ている。
舌打ちが頭上から聞こえる。
髭の男が血走った眼で光を見つめている。
「俺が行く。テープ用意してろ」
ニット帽の男が片手にバールを携えて、ドアの隙間から廊下へと滑り出た。
事前に、粘着テープを一人ひとつ配られていた。
住人は出かけたと言っていたが、やっぱり居たじゃないか。それとも連れ込んでいるという客人か。
どちらにしても、入浴中に襲われると考えたらゾッとする。
足音が殺し、ドアの横に忍び寄ったニット帽の男が、こっちにこいと手を招く。
髭の男がすぐさま急ぎ足でニット帽の男の後ろについた。
足を竦ませていると、髭の男がこちらを睨み早く来いと苛立ったように手招く。
しぶしぶ髭の男の後ろに近寄った途端、ニット帽の男がドアを開け放ち、踏み込んでいった。
恐ろしい音が聞こえてきそうで、耳を塞ごうと身構えた。が、聞こえたのは舌打ちだった。
髭の男とともに中を覗き込むと、煌々と風呂場の照明が部屋を照らしていた。
「留守だったんじゃないのか」
髭の男が潜めた声で怒鳴る。
「人影がない、ただの消し忘れだ」
ニット帽の男が風呂のドアを押し開けた。
と、目の前に何かが落ちる。
えっと視線を下げた瞬間に、首が後ろに強く引かれた。
息ができない。とっさに首を引っ掻くと、何かが皮膚に食い込んでいる。
何が起きた!? 何とか外そうと首に食い込む物の正体を指先で探す。
固い、つるつるしている、首の後ろに何か固い小さな突起物、その先から出る片面がギザギザとした帯状のもの。覚えがある。結束バンドだ。でもなんで? なんで首に巻き付いている?
ひゅっと喉が鳴る。首に食い込んだプラスチック製の帯は空気を遮断しようとしている。なんとか外そうと藻掻き、足が絡まった。無様にドスンと尻もちをつく。
と、隣を何かが横切って行った。いや、たぶん跨って通り過ぎて行った。
見えたのは白いシャツの背中だった。
浴室の前に立った白いシャツの背中は、ニット帽の男に後ろから抱き着いているように見える。
ガタンと大きな音がして、バールが床に転がり落ちた。
ふと鉄棒を握ったときのような、強い錆びた鉄の匂いがする。
ふと、シャツの肩が小さく上がり、大きな溜息とともにだらりと下がった。
「あーあ、これじゃあ、ただの殺人だ」
酷く疲れたような、低い男の声が浴室に反響する。
「いただきますという言葉は、命を頂くという意味だ。料理人に感謝し、食材に感謝し、敬意をもって食材となる者たちの命を絶つ。私は命を無駄にする気はないんだ。それなのにどうだ。私は今、敬意をもって、命を絶たなかった。無駄死にさせた。そう、これは私の美学に反している」
困ったような、苛立ったような、疲労していると言わんばかりの低く掠れた声だ。
ふと、エプロンの男が左手を上げる。その手の中には、長い包丁が握られていた。
ペンキに浸したかのような、ややオレンジ掛かった鮮やかな赤色が表面を濡らしている。
その色が吟味するように、包丁を傾けながら、男は気だるげに続ける。
「そもそも、今日はすでに食材は手に入っているんだ。食材が多く手に入っても、調理には時間がかかれば味がぐんと落ちてしまう。必要な時に必要な分だけ、そう考えているのに、まったく。ただゴミ捨ての手間だけが増えたじゃないか」
シャツの男が振り返った。奇妙なことに、男はシャツの上に、黒いエプロンを付けていた。
浴室から漏れる逆光で男の顔はよく見えない。ただ、オレンジ色の光に満たされた浴室の壁に、さっきまではなかったはずの赤い横一線が引かれていた。
男がこちらへ踏み出した足の隙間から、小刻みに痙攣しながらぴゅっ、ぴゅっ、と首から赤い飛沫を上げているニット帽の男が見える。ああ、そうか、あれは血かと納得する。
「それに私はグルメだ。肉の味にも拘りがある。コソドロのような、精神に穢れがある場合、総じて味が悪い。あとは」
逆光で見えないはずの男が、ふと床を見たのは分かった。視線を追うと、洗面化粧台の下、髭の男が倒れている。髭の男の体は首から上を青白くしながら、口の端から泡を吹き、小刻みに震えていた。
「老いた肉は繊維が固く、匂いが強すぎて使い道が限られているんだ、手に入れたって仕方がない」
エプロンの男の言葉はこれっぽっちも理解できない。今すぐ逃げ出したいのに、首に巻き付いた結束バンドが確実に呼吸を止めようとしている。手足に力が入らず、唇もピリピリと痺れて閉じることができない。息をするだけで必死だった。口の端を涎が零れ、顎先に伝い、胸元に落ちる。服にできていく丸い染みをぼんやりと眺めていると、裸足の足が、音もなく体を跨ぐ。
「まあでも、君は、合格にしてあげよう」
目の前でエプロンの男が屈みこみ、こちらを覗き込んでいる。
寝落ちる前のように頭がぐらぐらする。目を開けていられない。
瞼が落ちる寸前、定まらない視界の中、やけにはっきり見えたもの。
白く尖った犬歯と、持ち上がった口角。
それは、捕食者の笑みだった。
更新予定日:2026年6月31日。




