ミハイルとの闘い
グリゴリーの心臓に針が刺さったような痛みが走った。
同じ言葉でも、この男には――ずっと尊敬してきた相手に言われるのは、また違ったものがあった。
眉をひそめながら、話しかける。
「叔父貴は、母さんが嫌いだったね。子供心にも分かるくらい避けていた」
「国が亡びる事態を巻き起こした狂人をどう好きになれと言うのか」
「分かっている。もう納得もしているさ」
「――ずっと貴様が嫌いだった」
グリゴリーの瞼に氷が張り付いた。
「顔も性格も仕草も声も、持って生まれてきた全てがあの女の面影を感じて気に食わなかった……コンティスションが芽生えたのを見た時には、三才のおまえをくびり殺してやろうかと怒りが湧いた」
動揺が見られない淡々とした語り口は、その言葉が本音だということを示していた。
グリゴリーはそのことを把握した上で、言葉を返した。
「知っていたよ」
ミハイルが自分を見る瞳は、グリゴリーがよく知っている瞳だった。
村の大人も、枯死の魔女を殺しに来たものも、母の名を知った旅人も――村長もグリゴリーを目に入れる時は同じ瞳をしていた。
ある日、その瞳に込められた感情を教えられてからは、誰もが自分へ同じ感情を向けていることを知った。
ミハイルとエヴァの違いはここにあった。
エヴァの暴言は精神の動揺を誘うための手段だったが、ミハイルは心の底から本気でグリゴリーと母を憎んでいた。
「それでも、俺はあんたが好きだった。もう一人の父親のようにも思っていた」
「その言葉を聞いても、わたしの憎悪は溶け消えないのだ。魔女の子よ」
魔女の子。今まで口にもしなくともずっと思っていたであろう呼び方は、これまでの関係に戻れないということなのだろう。
そのことを感じ取ったグリゴリーは、瞼に力を入れて氷を割った。
「今日で貴様と会うのも最後だ。あの女の影をこの世から抹消する」
「絶対にマーシャを助ける!」
「いきなり肉弾戦を望むか――お前にナグボイジョンを叩きこんだのが誰かを忘れているようだな!」
グリゴリーに続いて、ミハイルも鎧を上半身から脱いだ。
ミハイルはグリゴリーの師である。二人の戦いに防具など不要であり、衣類も動きを阻害するものでしかなかった。
両者、全く同じ構えを取った――同時に、その場に立ったまま技を繰り出し始める。
リオートストープ。決闘前に今まで自分が積み重ねてきた鍛錬を、神に見せる儀式だ。
二人は虚空へ向かって己の肉体をぶつける。体が熱を持ち出し、汗を発し始める。寒気によって周囲の水分が凍り付くが、それでも体を動かすことを止めないでいると、やがて氷が解けて蒸気を身に纏った。
これが出来るのが、氷国において一流の戦士の証だ。
共にその状態になったのを確認すると、拳を合わせながらお辞儀をした――これにてリオートストップは終わり。暖まった肉体は開始から全力で戦える。
お互い、構えに戻った。
「――」
先に動いたのはグリゴリーだった。
十歩分の距離を一回の跳躍で埋め、勢いを保ったまま前蹴りを放つ。その鋭さはまるで槍だ。当たれば腹が抉れる威力を誇る。
ミハイルはサイドステップで左に躱した。滑らかな移動は、空中に浮いている紙を思い浮かばせる。
顔面を狙って、横から右フックを振るう。
グリゴリーは足を強引に戻し、拳の軌道からずれながら構え直す。
お互い、正面に相手を捉えた。
ミハイルは逆回転して左フックを、グリゴリーはボディブローを行った。右のブロックが成功し、がら空きの腹へ打ち込んだグリゴリー――そのまま主導権を手にするかと思いきや、右腕が痺れている。ブロックに当たっているのはミハイルの拳でなく肘であった。わざと拳を外して左腕を折り、遅れていた肘を当てにいったのだ。
(肘は受けるのではく、避けなければならない)
昔、目の前の男が言ったことをグリゴリーは思い出した。
まるで効いてないという表情で、ミハイルは右を伸ばした。掌がグリゴリーの後頭部付近に置かれる。
「まずっ!」
動こうとしたミハイルの左肘を、グリゴリーは鞭のように肩から右腕を動かして弾いた。左手を内側から回り込ませて、鏡合わせのようにミハイルの首へ絡めた。
そして互いに右手も相手の首へ持っていって、結果として両手で掴んだ。
「くっ!」
「はっ!」
悔しそうに唇を歪めるミハイル。笑みを浮かべるグリゴリー。
二人を比べるとグリゴリーの両腕は内側に、ミハイルのは外側にあった。氷踊では基本的に内側のほうが、力が込めやすい。そのためミハイルは手を外して内側を取ろうとしたが、肘が畳まれて入れない。主導権を握ったグリゴリーは膝蹴りをするため、右足を浮かせた――その瞬間、右腕が浮いた。
脇を潜って、ミハイルは背後を取った。力が弱くなる一瞬を狙って腕ごと外したのだ。
「うごっ!」
背中に膝蹴りが入る。腹だと予想していたグリゴリーは思わずえづく。
ドゴッ。ドゴッ。ドゴッ。
重い槌で叩かれるような音が何度も鳴る。
(……落ち着け。背中は厚い筋肉で包まれているから打たれてもそこまでのダメージはない。叔父貴ならここからこうしてくるはずだ)
六度目の膝蹴り。
これまで同様に右足を地面に着けたと思った瞬間、横へ滑るように移動した。正面近くにポジショニングすることによって、左右から有効打を与えたいのだ。
わずかに緩む両腕。グリゴリーは斜めへ踏み込んで、額をミハイルにぶつけた。
鼻血が飛び散る。
再度、主導権を握るためにグリゴリーは両腕を伸ばした。手の先にある頭が逃げ、グリゴリーの顎に衝撃が走った。頭突きを返されたのだ。
一歩引くグリゴリー。そこにミハイルは下段蹴りを仕掛ける。
左の太腿に直撃するが、渾身の感触はない。足を浮かして、ダメージを流していた。ミハイルが右足を戻した瞬間に、お互いの拳が動き、顔面にめり込んだ。二人の血が空中で混じって、地面に落ちる。固まったところに踏み込んで、お互いに技を放った。
鏃
重鋼弓。
零天。
霰華。
両者の間に、この雪国で生み出されて長年研ぎ澄まされてきた武術――ナグボイジョンの技が飛び交う。防御した部分が擦り切れ、直撃した弱点は破壊される。
削られた皮膚が宙を舞って相手のものと地面で重なる。飛び出た汗と血が氷粒になって自分に当たる。
そんな最中にいて、グリゴリーは思った。
(強え……)
ローのフェイントから縦蹴り。スウェーして避けて反撃かと思いきや、裏拳がグリゴリーの横顔を叩いた。
(やっぱり強えな叔父貴は)
極寒の壁。
グリゴリーにとってミハイルは偉大な師であり、一度も勝てたことがない相手だった。敗北するたびに悔しくなるが、それ以上に尊敬していた。いつか超えたいと思いつつも、永遠に超えたくないという気持ちを抱いてさえいた。
こんな日が来るとは思わなかった。
負けなど許されない。絶対に勝たなければならない。マーシャを救うため、俺はこの男を越えなければならない。
正面からとらえて、何度も何度も壁を叩いて、砕いて先に行こうとする。
壁にぶつかった拳が焼けるように痛い。足は脛から折れているようだ。
体をぶつければぶつけるほど、衝撃も痛みも跳ね返ってくる。
それでも耐えて、何度も打つ。
ここまでしているのに壁は一向に砕けない。
ヒビよ。せめてヒビよ入ってくれ。
グリゴリーは願い、そして踏み込んだ。
(氷柱落とし!)
頭上から襲い掛かる右拳を、ミハイルは見た。
「そんな虚仮脅しが通用するか!」
拳から肘に変化した上方向からの攻撃を紙一重で見抜き、右手をブレさせた。打撃が来るかと思い、自身の片側へ意識を集中させるグリゴリー。その反対――左の手をミハイルは突き出した。
目突き。
ミハイルのそれは直撃すれば眼球を貫き、後ろにある骨まで割る。しかしグリゴリーは恐れることなく、頭を後ろでなく前に移動させた。頭突きで指を折るつもりだった。額と指が衝突する。
指が広がり、掌がグリゴリーの顔面にぶつかった、掌底だ。拳よりも威力はないが、相手の
意識を奪う力は拳よりも上だ。今の疲労状態で食らうのは不味い。グリゴリーの視界が閃光に包まれた――首に両手が置かれる。
前腹。みぞ。横腹。肋骨。
膝蹴りが胴体のありとあらゆる部位に打ち込まれた。
グリゴリーも抵抗を仕掛けたが、完全に決まった首相撲は外せなかった。無限かと思われるほど連打は続いた。やがて腕を垂らし、体が重くなるグリゴリーを見て、ミハイルは手を放した。
地面へ落下しながらピクッとかすかに動いた体。
拳が握られた瞬間、前蹴りがグリゴリーの顔にめり込んだ。矢のように水平に飛んで、着地してから石畳の上で後方に三回転する。
「はあはあ……」
大きく息を荒げるミハイル。
敗者へ一歩近づく。その場から指を伸ばすと、火の針を投げた。
それをグリゴリーは躱した。
ミハイルは怒鳴りつける。
「……まだ続けるか!?」
グリゴリーは顔を上げた。目にはまだ闘志があった。
ミハイルを観察しながら、息を整える。
(――ヒビが入った)
興奮。覚悟。憎しみ。目には見えない様々なもので繋がっていた壁が、一時の勝利によって緩んだことでほんの少しだけ欠落が生じた。
(接近による危険を避けて、コンティスションを使ったのがその証拠だ)
ならば後はそこを広げるだけ。
ここで勝たなければ、もう機会はない。グリゴリーはミハイルの機微を探る。
ミハイルは両腕を広げた。
「最後だと思って付き合ってきたが、もう遊びは終わりだ……これで確実に仕留める」
両手に数え切れないほどの火の針を発現させた。
消しきれる容量についてはもう完全に把握している。エヴァを倒したとされる奪ったコンティスションの再利用は、破城氷柱を用意したことによって使いきらせた。
(恐ろしいのは、火神が渡した赤石だけだ)
だがそれも身に付けている服と共に手放したのだから、本当にただのブローチなのだろう。
(わたしもこれが限界だ。だがグリゴリーも一発でも当たればもう動けない)
溜まった疲労が一気にきた。油断すれば、倒れてしまう。強烈な眩暈に耐え、ミハイルは両手を振った。
ついに弾幕が張られた。一つ一つの点は小さいが、総量では兵士たちと同じだ。
グリゴリーは低く跳んだ。確かにそれならば当たる量を減らすことが出来るが、避ける隙間なんていうものは当然なかった。どれか一本でも刺されば倒れるのは、グリゴリー自身が何よりも分かっている。ミハイルもこのために危険を冒してまでナグボイジョンの対決をして、弱らせてきたのだ。
グリゴリー掌を突き出した。
当たるはずだった三本だけが完全消滅した。
「何っ!?」
修行の成果はもうひとつあった。それはコンティスションの及ぶ範囲を狭めることによって、その分、奪う力を強めることだった。
弾幕の穴から出てくるグリゴリー。
予想外の出来事にミハイルは対応出来なかった。
グリゴリーが目前に現れる。ここでやっとミハイルは意識を取り戻した。
(一撃耐える。そして打ち終わりを狙う)
グリゴリーは跳躍して、足を高く上昇させた。来る技が分かったミハイルは、歯を噛み締めた。そし
てそれが終わると、技は開始した。
ミハイルの脳天へ踵が振り下ろされた。
(踵落とし。重いがこれなら――)
狼が一瞬見えた。月に向かって吠える綺麗な絵画のようなものではなく、むしろそれとは真逆の生物。目が充血し、頭が隠れるくらい大きく開いた口から涎がしたった牙が見える氷国の厳しい環境を生きる獰猛な野獣だ。
耐えるミハイルの顎に鋭い感触が訪れた。踵と爪先、今グリゴリーはその二つを同時に当てている。上下双方向からの打撃は、頭部内で衝撃を爆発した。
ガシッ。
グリゴリーは両足を滑らせて、横から顔面を挟んだ。回転しながら落下する。
グリゴリーが着地すると同時に、ミハイルの脳天が石畳へ叩きつけられた。
両者同時に倒れる。
しばらくしてグリゴリーは立ち上がった。
(飢狼。成功だ)
狼の狩りを見て思いついてから、ずっと練習していた技だった。かつて魔獣相手にも挑戦して失敗したことがある。本来は最後の投げはなかったのだが、氷国では見かけない鰐の動きを取り入れれることで、ナグボイジョンの使い手として格上なミハイルの不意を突けないかと組み込んだのだ。
新技とコンティスションの制御。この二つを身に付けさせてくれた火国の将軍たちに、グリゴリーは感謝をした。
回復する暇もなく、グリゴリーはすぐに神殿へ入ろうとした。
「……最後に聞かせてくれ」
「叔父貴」
地面に仰向けになっているミハイルから声が聞こえた。
「警戒する必要はない。どうせもう立ち上がることも出来ない」
「ならよかった。流石に叔父貴ともう一度戦うのは無茶だ」
「そんな状態で氷神様に挑むつもりなのか?」
「まあ考えがあってね……質問はそれだけ?」
「いや」
空を見上げながら、ミハイルは尋ねる。
満天の星が煌めいていた。
「本当に貴様はあの女を助ける気があるのか? この国の民を犠牲にしてでも、たった一人の女の命を優先するのか?」
「ああ。優先する」
即答するグリゴリー。
「でも正確には優先とかそういうのじゃないんだ。彼女が望まない理不尽に巻き込まれているから助けたい。それだけなんだ」
「そうか……奴も似たようなことを言っていたな……」
「親父のことか」
「そうだ……奴も言っていたよ……惚れたから助けたいんじゃない……魔女として生まれただけで殺されるなんておかしいから守りたいと……」
ミハイルは星空に向かって手を挙げた。
「眩しいな……お前たちは……正しいと思ったことなら、どんな障害があろうと成そうとする……そうか。分かった……わたしはそんなお前たちを羨んでいたのだ……奴をそそのかした魔女が憎いのではなかった……ただ光が眩しかったのだ……」
細々と語るミハイルの表情は幸福に包まれている。長年あった胸のつっかえが消えて、彼は心底から安堵していた。
そのことを察したグリゴリーは、神殿へ向かおうと足を進めた。
背中へ声がかけられた。
「グリゴリー……お前なら止められる……あのお方を……氷神様を止めてくれ」
コクン。
グリゴリーは小さく頷いた。




