第1話(後編)、雷の侠
校舎の中は、闇に包まれていた。
レインは主異能を発動する。
すると、暗闇はもはや視界の妨げにはならなかった。
もしこの瞬間、観察眼の鋭い者が彼――いや、彼女の瞳を見ていたなら、普段よりもわずかに灰色が濃くなっていることに気づいただろう。
それが主異能を使用しているときの特徴だった。
レインは身体をひねり、横薙ぎに蹴りを放つ。
暗闇から飛び出し、不意打ちを仕掛けようとしていた女は、一瞬で床に叩き伏せられた。
「言え。青色盗団は何を企んでる?」
レインは女の襟首をつかみ、問いただす。
女は唇を開いた。
だが言葉を発するより早く、教室の窓から激しい水流が横殴りに飛来し、その頭部を直撃した。
女はそのまま気絶する。
「水舞!」
レインは咄嗟に手を離し、数歩後退した。
水流に混じる異能の波動から、攻撃の主が誰なのかを即座に察する。
その濁った水は、重力に逆らって床から浮かび上がり、無数の水滴へと分裂した。
次の瞬間、それらは一斉にレインへ襲いかかる。
レインは教室の中へ飛び込み、身を低くして壁の陰に滑り込んだ。
ふと足元を見ると、息絶えた二、三人の学生が倒れている。
その下に広がる赤い液体――血だ。
いや、その血すらもまた、水舞の支配下にあった。
相手はこの瞬間を待ち構えていたのだ。
レインが視線を上げると、水舞の異能者が片腕を掲げる。
床に広がる血液が鋭い槍となって立ち上がり、彼女へと襲いかかった。
レインは転がって一本目をかわし、椅子をつかんで二本目を叩き落とす。
しかし操られた血液はたちまち軟化し、椅子の脚に絡みついて激しく振り回した。
危うくレインごと吹き飛ばされそうになり、彼女は即座に椅子を手放す。
その瞬間、三本目の血槍が迫った。
レインは最も近くの机を蹴り倒す。
跳ね上がった天板が血槍に貫かれる。
その隙を突き、彼女は水舞の異能者の背後へ回り込んだ。
――そのとき。
誰も気づかないうちに、教室の外から強烈な雷が走った。
轟音とともに、水舞の異能者の身体は一瞬で黒焦げになる。
反撃する暇すらない。
その首元へ、銀色の長刀が鋭く振り抜かれた。
首と胴が、完全に分かれる。
真っ暗だった教室は、瞬く稲光によって照らし出される。
床に広がる血だまりには、信じられないものを目にしたレインの表情が映り込んでいた。
そして光が消えると、再び静寂だけが残る。
――何が起きた?
主異能「虚実」の恩恵によって、レインの視力は極めて鋭敏になっている。
それでも、水舞が襲撃された瞬間を見切ることはできなかった。
あまりにも速すぎたのだ。
しかも、その理不尽な雷撃は次の瞬間にはレイン自身へ向けられていた。
レインは考える暇もなく、反射的に身をひねって雷撃をかわした。
同時に胸ポケットから一本のペンを抜き放ち、背後から振るわれた刃を受け止める。
金属音が鋭く響いた。
その一瞬の接触だけで、レインは襲撃者の異能と等級を正確に感知する。
主異能は九級の「雷獄」。
さらに補助異能は「天候」――こちらも九級。
主異能も補助異能も、どちらも最大級まであと一歩。
レインの記憶では、棲静の学生や教職員の中に、これほど強力な異能者はいない。
第七区全体を見渡しても、そうそうお目にかかれる存在ではなかった。
弾き飛ばされて曲がったペンを手放し、レインは警戒しながら相手へ向き直る。
そこに立っていたのは、灰白色の長い巻き髪と湖水色の瞳を持つ、モデルのように背の高い美しい女性だった。
その手には長刀が握られ、全身から鋭い気迫を放っている。
気づいた瞬間、レインは目を見開いた。
「お前、第八区の侠じゃないか! なんで第七区まで来てるんだよ!」
侠。
その名の通り、自らの信じる正義のために悪へ戦いを挑む異能者たち。
一般市民にとっては、さながらスーパーヒーローのような存在かもしれない。
だが政府軍から見れば、法を歯牙にもかけず、異能を濫用し、必要とあらば躊躇なく人を殺す、正真正銘の狂犬だった。
そして目の前の女性は、その中でも世界的に知られる最悪の存在。
狂犬の中の狂犬。
名声の大きさは、そのまま斬ってきた悪人の数に比例するとさえ言われている。
この世に、彼女の雷の裁きを逃れた悪党はいない。
レインの驚愕にも、女は一切反応を示さなかった。
噂通り、沈黙したまま重々しく刀を振るう。
青い電流が刃に絡みつき、激しい放電音を響かせる。
その剣筋は速く、重く、そして容赦がない。
少しでも集中を欠けば、一瞬で全身を焼かれる。
自分の身分を明かす余裕すらない。
レインの脳裏に浮かんだのは、ただ一文字。
――逃げろ。
彼女は教室を飛び出し、長い廊下を全力で駆ける。
背後から雷撃が次々と追いすがる。
辛うじてかわし続ける代償に、曙光との距離は一向に開かない。
どうして自分のような正義側の人間が、侠に追い回されなければならないのか。
そんな理不尽さが頭をよぎる。
そのとき、待ち伏せしていた盗の一人が横から飛び出した。
レインは身をかがめてかわす。
直後、追ってきた雷撃がその盗をまともに打ち据え、哀れな男は一瞬で感電して吹き飛んだ。
しかしその回避動作で体勢を崩し、レインは床に尻もちをついてしまう。
そしてほとんど同時に、曙光が目の前へ到達していた。
高々と掲げられた刀は、まさしく絶対的な死の宣告だった。
じない人間でも、見境なく殺す機械でもない。
彼女はきわめてあっさりと長刀を下ろし、刃を走っていた雷を収めた。
「申し訳ありません」
レインは立ち上がり、服の埃を払いながら肩をすくめる。
「第八区の侠がここにいるってことは……今回学校を襲った青色盗団は、第八区の連中なのか?」
「私の名は『曙光』です」
灰白色の髪の女性は、静かに訂正した。
「盗の対処は学生の仕事ではありません。先ほどのように巻き込まれる前に、危険区域から離れてください」
「盗の相手は、侠の仕事でもないだろ」
レインは一歩も譲らない。
「僕だって異能者だ。見ず知らずの人に心配してもらう必要はないし、お互い自分のやるべきことをやればいい」
侠――曙光は、美しいながらも感情の読めない湖水色の瞳を細めた。
レインの言葉を聞いても、その視線は少しも揺るがない。
幸い、再び刀を抜くことはなかった。
この無言の対峙を破ったのは、遠方から響いた不穏な咆哮だった。
曙光は反射的にそちらへ顔を向ける。
その隙を逃さず、レインは階段の方へ走り去った。
やがて曙光の足音が別の方向へ遠ざかっていくのを聞き、レインは密かに安堵する。
そして再び「虚実」を発動し、校舎内に残る異能者の位置を探り始めた。
その中でも、とりわけ気になる波動があった。
強力な――精神系異能。
記憶している波動パターンと照合すると、一つだけ該当する能力がある。
だが、名前がわかるだけで、詳細な記録はほとんど存在しない。
その後も何人かの雑魚を倒しながら進み、レインはついに建物が真っ二つに断たれた階へと近づいていった。
そこでようやく、その異能波動の残滓をまとった人物を見つける。
だが、それはすでに無残な死体だった。
「目立った外傷がない……」
同じ状態の遺体をいくつか確認する。
どれも例外なく、あまりにも綺麗に死んでいた。
中にはレインの知り合いの学生もいた。
窓にしがみつくようにして息絶えており、最後の瞬間までここから逃げ出そうとしていたのだろう。
目に見えないまま人を殺せる。
それこそが精神系異能の恐ろしさだった。
しかも、その持ち主が残忍な性格なら、なおさら厄介だ。
「もう隠れてないで出てこい。七級の『奪魂』」
角を曲がった瞬間、レインの表情が鋭く引き締まった。
その視線は、ある教室の中へと突き刺さる。
「なるほど、『虚実』か」
軽やかな声とともに、金髪碧眼の青年が梁の陰から悠然と姿を現した。
「俺たち青色盗団は、いつでも『虚実』の入団を歓迎してるよ」
「冗談じゃない」
レインは冷ややかな目で彼を見据える。
「軍のデータベースに記録されている『奪魂』の異能者は一人だけだ。お前が青色盗団第八区支部の団長だな。わざわざ第七区まで来て学校を爆破した目的は何だ?」
「話したところで、君には理解できないよ」
青年は唇の端をつり上げた。
「ローズレッドのやつがあれほど自信満々だったから、ここにあると思っていたんだけどね……」
要領を得ない言い回しに苛立ち、レインはポケットから一本の鋭く削った鉛筆を取り出す。
そして一瞬で青年の背後へ回り込み、その細い首筋に鉛筆の先端を突きつけた。
少しでも押し込めば、頸動脈を裂き、大量の血が噴き出す。
「それでも話さないのか」
青年はくすりと笑うだけで、何も答えない。
レインは躊躇なく鉛筆を突き立てようとした。
だが、その瞬間。
頭の奥を何かが激しく揺さぶった。
手から鉛筆が滑り落ちる。
気づけば、彼女自身も床に膝をついていた。
「面白い武器を使うんだね」
拘束から解放された青年は、床に落ちた鉛筆を拾い上げ、微笑む。
「でも、『奪魂』には物質的な攻撃はほとんど意味がない。『虚実』のうち、実を司る君は、最初から分が悪かった」
レインには、その挑発に言い返す余裕すらなかった。
両手で頭を抱え、歯を食いしばる。
脳そのものをねじ切られるような激痛が、まったく収まらない。
『奪魂』の攻撃を受けたのだ。
『虚実』の感知能力があれば、発動前に察知して回避できると考えていた。
だが、この精神系異能の攻勢は、常識を超えるほど鋭く、猛烈だった。
もし青年の言う通りなら、自分の異能では対抗する術がない。
意識が霞む中、金髪の青年がしゃがみ込む気配がした。
その囁きは、子守唄のように甘く耳へ染み込んでくる。
「首領は、きっと君に興味を持つだろうね。記憶の混乱した、かわいそうな子」
――な……に……?
どうして……それを……?
考える間もなく、再び『奪魂』の衝撃が脳を打つ。
視界は急速に暗くなっていく。
意識を失う寸前。
耳に届いたのは、激しい放電音だった。
*
目を開けて最初に見えた顔に、レインはただ反射的に既視感を覚えた。
どこかで見たことがある。
そう思った次の瞬間、その正体に気づき、彼女は飛び起きた。
「……曙光?」
気を失う直前に聞こえたあの音は、やはり幻聴ではなかった。
「お前は、この人に助けられたんだ」
その場にいたもう一人――楊靖銨が近づいてくる。
彼の傍らでは、空中に浮かぶウィンドウの中で奇妙なプログラムが走っていた。
「俺が校舎の外で異常な警備システムを解除してたら、ちょうど隣でこの人がお前を抱えて出てきた」
「……ここは?」
まだ少し頭がくらくらしていて、レインは一呼吸置いてから尋ねた。
「学生寮。俺の部屋だ」
楊靖銨はウィンドウを閉じ、こちらへ向き直る。
「これ、お前のだろ」
曙光は傍らの椅子を引き寄せて腰を下ろし、左手に持っていた緑色のバンダナを差し出した。
「バンダナ、灰色の髪、身長百六十五センチ……協力者の一人から、あなたの特徴を聞いていました。特殊政府軍の一員だったのですね。だからあの校舎にいた」
その口調には疑いの余地のない確信があった。
つまり、その「接応人」は相当信頼できる人物なのだろう。
接応人とは、裏社会で活動する一種の仲介人だ。
様々なハイテク機器を扱い、武器や情報を売り、依頼の仲介をし、ときには現地の案内まで行う。
関わる勢力があまりに複雑で、軍であっても容易には手を出せない厄介な存在である。
レインは、その人物が誰なのかを深く考えないことにした。
「……あの『奪魂』は? 感電死したのか?」
「逃げられました」
曙光は小さく舌打ちしたが、表情はほとんど変わらない。
「彼が率いる青色盗団の第八区支部は、以前から第八区で数々の事件を起こしていました。私は追跡中の盗から機密文書を入手し、近々彼らが第七区へ移動することを知って、こちらへ来たのです」
「政府軍のくせに、あっさりやられたんだな」
楊靖銨が、皮肉なのか純粋な疑問なのかわからない口調で言う。
「軍が僕を採用したのは、異能『虚実』のためだ。偵察要員として扱われてるから、戦闘技術は最低限でいいんだよ」
レインは苦笑混じりに説明した。
「それで、一人で突っ込んで返り討ちにあったわけか」
今度の言葉には、明らかにからかいの色が混じっていた。
レインは肩をすくめるだけで答えない。
「学生にしては、十分に洗練された動きでした」
曙光は楊靖銨とは対照的に、心からの評価を口にした。
「ただ、最後に突然転倒したのが気になります。手足の協調に問題でも?」
「……もう行く」
レインは一瞬で冷たい目つきに戻り、布団を跳ねのけてベッドから立ち上がった。
「助けてくれたことと、さっき僕を斬りかけたこと。これでおあいこだろ、曙光」
「待って」
楊靖銨が突然声を上げた。
「校舎のそばで拾ったものがある」
呼び止められたレインは、彼がバックパックを探る様子を見つめる。
「僕に関係あるのか?」
楊靖銨は答えず、しばらく探した末に、白い球体を取り出した。
その瞬間、レインの目が大きく見開かれる。
しかしそこにあったのは驚きだけでなく、濃い困惑だった。
「……これ、何?」
「前に話しただろ。 原因不明の南台湾沿岸爆発事故のこと」
レインの口から中国語がこぼれたのを聞き、楊靖銨は眉を上げる。
だが特に驚く様子もなく、ごく自然に中国語へ切り替えた。
「爆発の直前、俺は二人の親友と一緒に海辺にいた。 そのとき、浜辺にこの白い球が現れたんだ」
「俺の親友は観察力が鋭くてな。 流れ着いたゴミの山の中から、この球を見つけた。 でも、よく調べる暇もなかった。 拾い上げた瞬間――」
楊靖銨は軽く口を開き、短く言った。
「ドン」
その何気ない擬音に、レインの全身へ鳥肌が走る。
「じゃあ、その白い球って…… これなの?」
「場所を考えると同じものとは考えにくい。 でも、見た目は本当にそっくりだ」
楊靖銨はうなずき、さらに続けた。
「それより重要なのは――」
彼が球体に触れると、スマートブレスレットのように空中へウィンドウとキーボードが投影された。
表示されたのは、レインにはまったく理解できない複雑なコードの羅列だった。
「こんな形式のコードを見るのは初めてだ。 解析には半日くらいかかりそうだな」
楊靖銨がもう一度球を軽く叩くと、画面もキーボードもすぐに消える。
「この球に何が隠されてるのかは、そのうちわかる」
「そういえば、青色盗団……」
レインは、『奪魂』が口にしていた意味深な言葉を思い出した。
曙光にもわかるように、再び共通語へ切り替える。
「棲静に来たのは、何かを探すためだったみたいだ」
「『パズル』」
曙光は静かに一語を口にした。
二人の大学生は同時に彼女を見る。
「盗団が探しているものです」
曙光は簡潔に説明する。
だがその視線は、楊靖銨の手にある白い球から一瞬たりとも離れなかった。
「具体的な用途は不明。 ただ、非常に見つけにくいものだと聞いています」
「なるほど。 だからわざわざ区をまたいでここまで来たのか」
楊靖銨は納得したようにうなずく。
一方、レインは無言のまま考え込んでいた。
曙光と前後して楊靖銨の部屋を出るころには、外はすっかり深夜になっていた。
だが、夜になったからといって犯罪が止むわけではない。
まして今日は、大規模なテロ事件が起きたばかりだ。
疲労は限界に近かった。
それでも政府軍から届いたメッセージに目を通すと、レインは観念したように、今夜の巡回地点へ向かって歩き出した。




